■ Novels


片隅の昨日から

 週明け最初のレッスンは火曜日だった。奈美とひかるの二歩先で、何も知らない千紗が金曜日のことを舞希にまくし立てていた。
 サーカス団がいかに素晴らしかったかを力説するが、語彙が貧弱なので「すごかった!」と繰り返すばかりである。舞希は疲れたように「すごかったんだ、そうなんだ」と相槌を打っていた。
 ターニャの話になるとますます熱がこもった。ロールが綺麗だったことを身振り手振りで伝えてから、おもむろに写真を取り出して突きつける。
「ほら! 一緒に写真も撮ったんだよ! しかもしかも、実はターニャちゃんって、あの江頭花耶ちゃんだったんだよ!」
 まるで時代劇の印籠のようにもったいぶって事実を取り出したが、舞希の反応は薄かった。江頭花耶は知っているが、特に興味はないらしい。もっとも、千紗も舞希の反応には興味がないらしく、写真を見つめながら、公演の後一緒にお茶を飲んだことなどを自慢げに話していた。
 そんな後輩たちの背中を眺めながら、呆れた顔で奈美が言った。
「全然噛み合ってないね」
「あれは噛み合ってるんだよ」
 ひかるが可笑しそうに顔を綻ばせた。
「舞希ちゃんがああいうふうだから、千紗ちゃんも楽しくおしゃべりができるんじゃないかな」
「そっか」
 奈美は思わず納得して頷いた。
 日曜の夜から、もちろん花耶には会っていない。恐らく今頃はもう別の公演会場で、またあのオレンジのオーバーオールを着て赤毛のターニャを演じていることだろう。
 結局言いたいことも言えなかったし、花耶が自分に何を言いたかったかもわからなかった。いや、あるいは花耶は言いたいことを言ったのかもしれない。しかし、奈美にはそれを受け止められなかった。
 花耶は会わなければよかったと言ったが、奈美はそうは思わない。しかし、しこりの残る結末だと言わざるを得ない。今でも思い出すと胸がチクチク痛む。自分は憧れの花耶を傷つけたかもしれない。
 それでも、やがて忘れていくのだろう。二年前、皆が江頭花耶を忘れたことに悲しんだ。しかし、そんな奈美自身もフォーレのCDを一年以上聴いていなかった。
 信号待ちでふと我に返ると、千紗はまだべらべらしゃべり続けていた。結構長いこと考え込んでいたようだが、ひかるは何も言わずに二人の背中を見つめていた。
 いつだってそうだ。奈美が考え込みたいとき、ひかるはじっと黙っていてくれる。けれど、もしも話がしたくなれば、すぐに声をかけられる位置に立っている。
 これが噛み合っているということだろうか。そう思い、奈美は心の中で首を振った。単にひかるが奈美に合わせてくれているだけだ。
「ひかるちゃんはすごいね」
 唐突にそう言ったが、ひかるはまるで奈美が何を考えていたかを知っているように笑った。
「そんなことないよ。もし自分のことだったら、やっぱり私も色々考えたと思う」
「そうかなぁ。ひかるちゃんなら……あんなことにはならなかったと思うけど」
「そんなことないよ」
 もう一度、今度は少し怒ったように言った。友達同士であまり褒めたり自虐したりするのは良くないのかもしれない。奈美はすぐに反省して、「ごめんね」と謝った。
 駅のそばまで来ると、奈美はこれからひかるの家に行くからと言って二人と別れた。そして半ば後戻りするようにひかるの家に向かう。後輩を駅まで送り届けるためにわざわざ遠回りをしたのだ。
「奈美ちゃんもちゃんとそういう気遣いができるんだから」
 ひかるに言われて、奈美は恥ずかしくて体がむず痒くなった。自分はいつもひかるにこんな思いをさせているのかもしれない。
 他愛もない話をしながらひかるの住むマンションまで歩き、部屋に入るとすぐ、奈美はバッグからCDを取り出した。もちろんフォーレのCDである。ひかるが一緒に聴きたいと言ったのだ。
「私、クラシックとか全然知らないの。奈美ちゃんはよく聴くの?」
「ううん、これしか持ってないよ」
 一曲リピートで再生ボタンを押すと、六拍子の切ないメロディーがラジカセから流れた。ひかるは静かに一曲終わるまで耳を傾け、それから穏やかに微笑んだ。
「この曲で踊る花耶さん、私も見てみたいかも」
「うん。綺麗だったよ」
「でも、私は小学生のときにこの曲に惹かれた奈美ちゃんもすごいと思うけど」
 言われてみれば、クラシックなど聴いたこともなかった奈美が、なぜあれほどまでこの曲に心を打たれたのか。
 曲が演技を美しくしたと同時に、やはり花耶の演技もまた曲を膨らませたのだ。
「江頭花耶選手……きっとこの前のターニャさんとは、また違う演技だったんだよね?」
「うん。バレエを見てる感じだった。もちろん普通の衣装だったし、髪も黒かったし……でももうあの花耶ちゃんはいないんだよね……」
 静かにため息をつくと、部屋にはラジカセから流れる音楽だけが残った。
 奈美は、今度はひかるの言葉を待った。花耶と話しているときは話し手だったが、今はひかるにしゃべってほしい。
 その意を汲んでか、やがてひかるが落ち着いた口調で言った。
「花耶さんは花耶さんだよ。髪を赤くしても、名前を変えても、フィオーリを辞めても」
「でも、もう『シシリエンヌ』は踊れないって言ってた」
「人は変わるから。私だって一度バトンを辞めてからは、もう昔の私とは違うと思う。でも奈美ちゃんとは今でもこうしてる。奈美ちゃんは、今の花耶さんは嫌い?」
 奈美は即座に首を振った。よくわからない複雑な想いが交錯しているが、嫌いという感情がないことは断言できる。
 安心したようにひかるが続けた。
「花耶さんはね、嬉しかったんだよ。江頭花耶のファンって子が現れて。だからお話してくれた。今にも消えてしまいそうな自分を繋ぎ止めてくれる存在がほしかった」
「よくわかんない」
「鏡がないと自分の顔がわからないってこと」
「ますますわかんない」
 奈美は困惑してひかるを見た。この同級生は、時々学校の先生よりも難しいことを言う。それはすごいことだと思うが、先生に言わせれば「自分のレベルでしか話せないのはすごいとは言わない」そうだ。
 ひかるは少し考える素振りをしてから、もう一度説明を始めた。
「えっとね、これは私も受け売りなんだけど、人って他人がいないと自分を認識できないんだって。もし奈美ちゃん、世界中に自分しかいなかったら、自分がどういう存在なんだか、よくわからなくなると思わない?」
 それも十分奈美には難しかったが、よく考えてから頷いた。
「たぶん……。あんまりわかんないけど」
「他に人がいなかったら、自分が人間だともわからないし、名前を呼んでもらえなかったら、自分が藤沢奈美かどうかもわからないよね?」
「あっ、うん。それならわかるかも」
「だから花耶さんも、どんどん自分の考えてる江藤花耶じゃなくなっていくのが怖くて、いくらサーカス団で『花耶ちゃん』って呼ばれても、結局はターニャでしかないんだって」
 ひかるはまるで花耶を知り尽くしているかのようにそう言った。けれど、ひかるが言うとなぜだか本当に花耶がそう思っているように聞こえる。
「花耶ちゃんが考えてる花耶ちゃんって?」
「『シシリエンヌ』が踊れる花耶さんじゃない? サーカス団がどれだけ素敵でも、一番の望みはやっぱりフィオーリの江頭花耶として世界大会に出たかったんだよ。それが叶わなくて、想いだけが過去に残ったまま自分は時間の波に流されてる。可哀想だよね」
 奈美はひかるの話す複雑な内容を理解しようと頑張ったが、結局頭がこんがらがって終わった。
「花耶ちゃんは、あたしにどうしてほしかったの?」
 結論だけを求めるように尋ねると、ひかるは小さく首を振った。
「わからない。何も求めてなかったんじゃない? 花耶さんも混乱してたんだよ。奈美ちゃんと同じように」
「だったら……だったらあの時そう言ってくれれば! そうしたらもうちょっと……」
 奈美は思わず声を荒げて、すぐに口を閉じた。ひかるに当たってもしょうがない。
 ひかるは静かに立ち上がって机に向かった。
「私にもわからなかったの、あの時は。だから、あの後花耶さんを追いかけて聞きまくった」
「えっ?」
 顔を上げた奈美に、ひかるが引き出しから取り出したものをいたずらっぽく見せた。それはあの時持っていた色紙だった。「ひかるちゃんへ」という文字とともに花耶のサインがある。千紗がもらったアルファベット表記のターニャのサインではなく、漢字で書かれた重厚感のある『江頭花耶』のサインだ。
 奈美は言葉を失った。あの時ひかるがいなかったのは、奈美を一人にするためではなく、花耶に話を聞くためだった。ひかるが花耶の心情を一部断定表現で話していたのもそのためだ。
「奈美ちゃんが思うほど私は完璧じゃないし、花耶さんも完璧じゃない。みんな悩んでるんだよ」
「どうして……すぐに話してくれなかったの?」
 つい非難がましく言ったが、ひかるは別に気を悪くすることなく答えた。
「奈美ちゃんが今の花耶さんを好きかどうかわからなかったから。だから花耶さんにも言ったの。奈美ちゃんが好きなのは昔の花耶さんだけなのか、それとも今の花耶さんも好きなのか、私にもわからないって」
「あたしは、今の花耶ちゃんとも仲良くしたい。あたしが勝手に思ってた人とは違ったけど、でもやっぱりこのメロディーや『愛を感じて』が似合う人だなって思う」
 奈美は、ようやく自分が本当に望んでいたことがわかった。ひかるは安心したように微笑んだ。
「じゃあ、ちゃんと話さないとね」
「でも、もう花耶ちゃんは……」
 うなだれる奈美に、ひかるが二つに折ったピンクの小さなメモ用紙を渡した。受け取って開くと、そこにはハイフンで区切られた十一桁の数字と、@を含む英数字が書かれていた。
「仲良くなりたいのは、奈美ちゃんだけじゃないってこと。私はそれを花耶さんから預かったけど、奈美ちゃんの気持ちがわからなかったから渡すことは約束しなかった。でも、渡してもいいよね?」
 にっこり笑ったひかるを見て、奈美の心は天木ひかるに憧れていた小学校時代に戻っていた。そして、この同級生が自分の友達であることを何よりも誇りに思った。
「ありがとう、ひかるちゃん」
 思わず涙をこぼして肩を震わせると、ひかるは「どういたしまして」とおどけて言った。

 後日、真夏の強い陽射しの中、「爽」と大きくプリントされたカップのアイスを食べながら、奈美は自慢げに花耶とメールしていることを千紗に話した。
「えーっ! どうして? ナミだけずるい!」
 千紗が「抹茶」と書かれた緑色のカップを片手に、不満げに声を張り上げる。しかしすぐに笑顔になると、猫なで声で言った。
「今度アドレス教えてね」
「千紗がもうちょっと落ち着いて、あたしが自信を持って紹介できる子になってくれたらね」
「ひどい! ねえ、あたしナミの親友でしょ? ねえ!」
 千紗が懇願するように奈美を見上げる。その様子を眺めながら舞希がパピコをくわえようとしたとき、背後で小さな悲鳴がした。
 三人が見ると、性懲りもなくアイスモナカに挑戦したひかるの肩から、トートバッグの紐が半分だけ肘の方に垂れていた。
「人生最大のピンチかも」
 青ざめてそう言ったひかるに、舞希が深刻な顔で聞いた。
「警察と救急車、どっちが必要?」
「警察。だって、誰かの陰謀としか思えないから」
 真顔で言った瞬間、バッグがずり落ちたが、今度は惨事になる前に奈美がバッグを肩に戻してやった。
「ひかるちゃんには学習能力ってものがないの?」
 ひかるはふてくされた顔で奈美を見た。
「あるよ。でも、これが食べたいんだからしょうがないじゃん。モスで、口が汚れることがわかっていてもモスバーガーを頼むのと同じよ」
「ひかるちゃんはモス派なんだ。あたしはマック派」
 千紗がよくわからない突っ込みを入れる。奈美はやれやれと肩をすくめた。
 前方に公園が見えてくると、千紗がいたずらを思いついた子供のような瞳をした。
「ねえ、またやろうか。夏祭りのリハーサル」
「あれって、そんなカッコいいものだっけ?」
 そう言った舞希も、今度は乗り気な様子である。そして先輩の意見など聞きもせずに二人が走り出して、二年生の二人は顔を見合わせて苦笑した。
 追いかけるように公園の方へ歩きながら、奈美が隣を歩くひかるに尋ねた。
「ひかるちゃんは、前にバトンのエンターテイメント性について話してたけど、花耶ちゃんみたいな仕事がしたいの?」
 ひかるは意外そうな顔で奈美を見て、ずり落ちてきたバトンケースを肩にかけ直した。奈美はひかるのその反応が意外だったが、答えはすぐにわかった。
「私は将来、旅行会社で働きたいなって思ってるの。バトンを仕事にするなんて、考えたこともなかった」
「花耶ちゃんの話を聞いたから?」
「ううん、それ以前に全然。そんなに上手じゃないし、それにうちのお父さんがいつも、『趣味は仕事にするもんじゃないな』って言ってるから」
「なにそれ?」
「お父さん、パソコンが好きでエンジニアになったんだけど、おかげでパソコンが嫌いになっちゃったんだって」
 どうでもよさそうにひかるが言った。大半の中学生女子がそうであるように、あまり父親と好意的に接していないのだろう。
「やっぱり仕事にすると大変なのかなぁ」
「奈美ちゃんはバトンの先生になりたいの?」
「そのつもりだったけど、最近わかんなくなっちゃった。バトンは大好きだけど、趣味は趣味にしておいた方がいいのかなって。ねえ、どう思う?」
 ようやく公園に到着して、すでにウォーミングアップをしていた千紗たちのそばにバトンケースを置くと、ひかるがバトンを取り出しながら淡々と答えた。
「それは人それぞれだから、自分で答えを出してね」
「……ひかるちゃん、定期的に冷たいよね」
「あ、その言い方私っぽい!」
 聞きつけた舞希がそう言って笑った。ひかるも明るい顔をした。
「奈美ちゃん、私が何か言うとそれが答えだって勘違いしそうだから。でもこれだけは確か。バトンを嫌いなバトンの先生はいないよ」
 奈美にとって、それは十分満足な答えだった。
 ケースからバトンを取り出すと、サムフリップを三、四回。ウォーミングアップは必要ない。この暑さだし、ついさっきまで三時間以上バトンを回していたのだ。
「とりあえず、今は踊ろう!」
 思い切りバトンを投げ上げると、木々よりなお高い青空の彼方で、バトンがキラキラと輝いた。
Fin
←前のページへ