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片隅の昨日から

 夏休みに入る前に行われたバトントワリング大会は、四人が揃ってソロトワール女子中学校の部に出場した。
 千紗と舞希は予選で敗退したが、ひかるは決勝に残り自己ベストの六位という成績を収めた。一位の枠にはもちろん藤沢奈美の名があったが、奈美本人はダンストワールで三位だったのが悔しくて地団駄を踏んだ。
 ひかるは「奈美ちゃんは決して満たされないのかもね」などと哲学的なことを言って笑っていたが、案外そうなのかもしれない。その時はバカにされたと思ったが、公園でひかるの言うエンターテイメント性の一端を垣間見た奈美は、少しずつひかるの言葉を理解し始めた。
 夏の個人戦はそれで幕を閉じた。この後は文字通りお祭り的な夏祭りのイベントがあるだけで、秋のチームの練習が始まるまで、教室はのんびりした雰囲気になる。もっとも、一部の先生は八月に海外で行われる世界大会の準備で忙しそうだったが。
 スクールの生徒が出場するわけではないが、先生はバトンの協会に所属しているために選手らとともに海外へ行くらしい。
 世界大会というと、今年は波乱があっていつもと違う顔ぶれだと、春先に千紗が話していた。
 奈美はその話を軽く聞き流していた。世界大会とは自分が参加するものであって、他の選手が出場するのを見るものではない。そう考えているからだ。
「ナミは他の選手には興味がないの?」
 不機嫌そうに言った千紗に、奈美は「そうでもないけど」と曖昧に言葉を返した。
 実際奈美にも憧れの選手がいた。天木ひかるは身近なアイドルだったが、もっと遠くの、世界大会に出場するような選手の中にも一人、憧れている人がいた。
 しかし、その選手はある日忽然とバトン界から姿を消し、同じ年にひかるもHARUEバトンスクールを退会した。一昨年のことである。
 二重のショックを受けた奈美は、それ以来あまり他の選手に興味を示さなくなったのだ。
 そんな昔のことを思い出しながら、世界大会の打ち合わせをしている先生たちをぼんやり眺めていると、千紗がいたずらな笑みを浮かべて近付いてきた。
「ナーミちゃん。元気?」
「き、気味が悪いんだけど」
「まあまあ」
 千紗は何やら上機嫌で、笑いが堪えられないというように手で口元を押さえながら奈美の隣に座った。そして持っていたポーチから細長い紙切れを取り出した。
「これなーんだ」
 奈美はもったいぶる千紗の手の中を覗き込んだ。一見してチケットだとわかったが、表を見てそれが先日話題に出た西田サーカス団の公演のチケットだとわかった。真っ赤な光沢紙で、真ん中に曲芸の写真が載っている。
「買ったの!?」
 さすがに驚いて声を上げると、千紗は嬉しそうに微笑んで首を横に振った。
「それがね、ほんとに偶然なんだけど、お父さんが知り合いからもらったの。三枚。はいこれ、ナミの分。金曜日、一緒に行こ」
 奈美は押し付けられたチケットを受け取り、三秒ほど動きを止めてからはっとなって顔を上げた。
「えっ? あたしでいいの?」
「どうして? だって、昔はよく一緒に行ったじゃん」
 さも当たり前というふうに答えた千紗を見て、奈美は思わず目頭が熱くなった。実は一時期、奈美はスクールの中で孤立していたことがあった。千紗とクラスを違え、ひかるが辞めてしまった後である。
 千紗とも今でこそ仲を取り戻したが、上達の度合いが極端に違ったために、親子ともども決裂した時期もあった。その千紗が、こうして自分から誘ってくれたのである。
 感激している奈美を不思議そうに見つめながら、千紗がもう一枚をひらひらさせた。
「問題はこれを誰に渡すかね。マッキーは金曜は用があってダメって言ってたから。あたしは誰でもいいけど、ナミがひかるちゃんが良ければひかるちゃんを誘ってみて」
 言いながら、千紗はそれを奈美に押し付けた。口を開くまでもなく答えはわかっているらしい。
「うん。じゃあ、誘ってみるね。ありがとう、千紗」
 奈美はただちに行動に移した。
 奈美の申し出に、ひかるは二つ返事で承諾し、嬉しそうに礼を言った。バトンにエンターテイメント性を求めるひかるが、サーカスに飛びつくのは必然的だったし、サーカス団でバトンを回しているというターニャに興味を示さないはずがない。
 ひかるは美春も誘っていいかと言った。美春とはひかるがバトンの方向性を変える原因となった六年生の女の子である。クラスが違うのでほとんど話す機会はないが、奈美もひかる経由で知り合っている。
「チケットはないけど、それでもよければ」
「千紗ちゃんは?」
「千紗はさっき誰でもいいって言ってたからいいと思うよ。でも一応聞いてみる」
 結局千紗はOKだったが、当の美春がピアノ教室があり都合がつかなかった。ピアノを続けることがバトンの条件らしく、休むわけにはいかないそうだ。
 ひかるは残念がったが、当日まで引きずることはなかった。元々招待された側である。ひかるはその辺りの分別が誰よりもつくのだ。

 当日は生憎の曇り空だったが、屋内で行われるのであまり気にする必要はない。千紗は「天気がビミョー」と唇を尖らせていたが、奈美はむしろ涼しくていいと笑った。ひかるも同感だと言って、千紗は「そうかもね」といつものポジティブさを発揮した。
 開場の三十分前に到着したが、並んでいる客はほとんどいなかった。全席指定ということもあるが、結局開場になっても満席には至らなかった。金曜日であることに加え、サーカス団の知名度が低いせいだろう。
 千紗が事前に調べた情報によると、西田サーカス団はメンバーは三十人ほどで、春、夏、秋の三シーズンで全国を回っているらしい。サーカスというとテントのイメージがあるが、そういう大仰な構成ではなく、こうして劇場のステージを借りたり、時には路上や遊園地などで公演しているそうだ。
 空中ブランコなどの天井を使うものや動物のショー、マジック的な要素はなく、輪や跳躍台を使う曲芸、サーカスの原点とも言える道化芸、多人数で一輪車を巧みに操る美しい演技の他、ボールやクラブを使うジャグリングもあるらしい。バトンのターニャも分類的にはここに入るそうだ。
 パンフレットに描かれたターニャは瞳を閉じており、なるほど確かに一見日本人には見えない風貌だった。赤く染めた髪は短く意図的にボサボサにしてあり、赤毛のアンよりもミュージカルのアニーを髣髴させる。
「どんな子だろうね」
 パンフレットをめくりながらひかるが声を弾ませた。千紗は全般を楽しみにしているが、ひかるはどちらかというと期待の七割がターニャ一人に向けられているようだ。
 もっとも、その隣に座る奈美は、期待の八割が「三人で過ごす楽しい時間」にあり、対象は別にサーカスである必要はなかった。もちろん、そんなことは千紗には口が裂けても言えないが。
「そろそろだね」
 ブザーが鳴り響くと会場が暗くなった。周囲のボリボリと菓子を頬張る音が不快だったが、すぐに大きな音楽にかき消されて気にならなくなった。
 幕が開くと、ミステリアスな青と黄色のライトが舞台を照らし出した。中央に椅子があり、背後には中華情緒漂う竹と虎の絵が置かれている。舞台の袖から肩のはだけた上着に白いズボンを穿いた男が二人ずつコミカルな動きで現れて、じりじりと中央に歩み寄った。
 椅子の周りでしばらく民族舞踊のような不思議な踊りを踊ると、二人が椅子を挟んで向かい合い、ゆっくりとした動作で同時に椅子の上で逆立ちをした。ちょうど背中合わせの格好になり、そのまま静止する。
 別の一人が最初のコミカルな動きで近付いて、椅子の背もたれの部分から、逆立ちしている二人の四つの足の裏の上にうずくまるようにして座った
 隣から息を飲む音がして、見ると千紗が目を見開いて身を乗り出し、胸の前で固く手を握っていた。ひかるも血管が浮き出るほど強く座席の手すりを握り、口を開けて舞台を凝視している。
 奈美もまた、最後の一人がうずくまる男の肩に乗ったときには、心拍数が倍になるのを感じた。意図せずひかるの手をつかむと、ひかるが痛いほど強く握り返してきた。
 うずくまっていた男がゆっくり立ち上がり、最後にその男の肩に乗っていた小柄な青年が立って両手を広げる。いきなり会場が沸いた。千紗は手が真っ赤になるほど強く拍手していた。
 感動の連続だった。側転やバク転から複数人で同時に行われる輪くぐりは見た目にも美しかったし、道化師の玉乗りは大人から子供まで楽しめるユーモラスなものだった。女性陣の操るディアボロはその不思議な動きが観客を魅了した。
 ディアボロからジャグリングの流れの一環として、いよいよターニャが登場した。性別不詳とのことだが、丸みのある肢体は女性と断言して良いだろう。赤毛の少女はオレンジのオーバーオールを身につけ、掃除屋かさもなければヒップホップでも踊りそうな容相だった。
 先に道化師が行っていた、マイムのような独特の動きで登場すると、手にしていたバトンをふと首にかけた。そして、右手の指先から左手の指先まで、時には足や腰を使いながら、延々と身体全体でバトンを転がし続ける。
「ロールなんだ……」
 派手なエーリアルを想像していたのか、ひかるが小さな声で呟いた。
「意外。でも、すごく綺麗……」
 千紗が惚けたように声を出す。
 単にバトンが上手なだけではない。恐らく、サーカス団の仲間たちが考えたものだろう。バトン界では見たこともない技が次から次へと飛び出した。
 不意にターニャはバトンを高く上げると、背中からもう一本バトンを取り出し、おどける仕草で笑いを誘った。そして落ちてきたバトンをエンジェルで受け止めながら、二本のバトンで巧みにロールを行う。
「すごい……。でも、あんなトワラーがまったく無名で……」
「花耶ちゃん」
 ひかるの声を遮るように、奈美が低い声で鋭く言った。ひかるが驚いたように奈美を見たが、奈美はもう口を開かなかった。
 ターニャは少しずつロールにコンタクトを混ぜ、やがてコンタクトとエーリアルの構成に変えた。そしてどこからともなくもう一本バトンを取り出すと、スリーバトンで観客を魅了する。
 その最中に数人のジャグラーが両袖から現れて、ターニャもバトンからクラブに持ち替えた。扱えるのはバトンだけではないらしい。
 その後ターニャの出番はなかった。目の前で繰り広げられる数々の素晴らしい演技に、千紗はもちろん、ひかるも奈美の呟きを失念していた。しかし、呟いた本人が忘れるはずがない。
 長いようで短い公演が終わると、千紗が感動に涙しながら拍手をしていた。ひかるも満面の笑みで幕の下りた舞台を見つめている。
「すごかったね。来て良かった。ねえナミ」
「あ、うん」
「なに? ビミョーな反応」
「そんなことないよ。すごく面白かった」
 その言葉は嘘ではなかったが、ターニャの登場から先、奈美はずっと上の空だった。
「ほんとかなぁ」
 ややふてくされ気味の千紗に、奈美はぎこちない笑みを返した。ひかるが無言で心配そうな瞳を向けていたが、奈美はそれに気付かなかった。
 ロビーに出ると、サーカス団員が写真サービスを行っていた。もちろん有料だが、五百円で団員との記念撮影と、パンフレットへのサインサービスが受けられる。
 一番人気は男女ともに人気がある中性的なターニャだった。写真とサインと握手で、子供たちは大はしゃぎだった。
「あたしもお願いしてこよーっと!」
 同行者のことなど気にもせず、千紗が撮影場所へ駆けていった。残された二人は顔を見合わせる。苦笑を浮かべた奈美に、ひかるが真摯な瞳を向けた。
「奈美ちゃん。カヤちゃんって誰? 知ってる子?」
 奈美は微笑みを消し、無表情でターニャの方を見た。そして「たぶん……」と呟いてから、千紗の方に歩き出す。
 千紗はターニャとのツーショットに上機嫌だった。写真を撮り、サインをしてもらう最中に裏返った声で言った。
「今日の演技すごかったです! あのエンジェルキャッチからの二本のロールがすごく綺麗でした!」
 その言葉に一瞬ターニャが表情を失ったのを、奈美は見逃さなかった。恐らく千紗がトワラーなのを知って、正体がバレたと思ったのだろう。奈美はその仕草で彼女が「花耶」であることを確信した。
 ターニャはすぐに千紗に微笑んで、無言のまま独特の礼をした。どうやら国籍も性別も不詳のターニャは、口を開くことを許されていないらしい。
 握手している最中も、千紗は「指綺麗ですね!」とか「指五本ですね!」などとわけのわからないことを口走り、係りの人が「次の人もいますから……」と困った顔をしていた。
 奈美は同行者であることが恥ずかしくなり、いっそ逃げようかと思った。ちらりと隣に目をやると、じっと睨むようなひかると目が合った。奈美は小さくため息をついて口を開いた。
「江頭花耶ちゃんって言えば、ひかるちゃんならわかるよね?」
 よほど衝撃的だったのだろう。ひかるが大げさなほど狼狽して目を見開いた。
 ようやく戻ってきた千紗が、愁いに満ちた瞳でじっとターニャを見つめる奈美と、目を丸くして唇を震わせているひかるの様子に怪訝な顔をした。
「二人とも、どうしたの?」
「ちょっとね……。後で話すよ」
 奈美はターニャを凝視したまま短く答えた。
 やがて会場から客が引け、団員たちが後片付けを始めた。ターニャはもちろん随分前から奈美の視線に気が付いており、帰り際に軽く会釈した。
「演技、すごかったです」
 奈美は一歩近付いて手を差し出した。お金を払っていない客への握手は禁止されているかと思ったが、ターニャは微笑みながら奈美の手を握った。
 奈美は一度視線を落とし、それから潤む瞳でターニャを見上げた。
「あたし……あたしは……」
 口を開くが、うまく言葉にならない。涙で声が震えた。
 ターニャは怪訝な表情で奈美の顔を見つめている。
 一度固く目を閉じると、まなじりから涙がこぼれ落ちた。決然と、真っ直ぐ見つめて奈美は言った。
「あたしは、『シシリエンヌ』以来、ずっとあなたのファンでした。江頭花耶さん、お仕事が終わってから、少しでいいからお話できませんか?」

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