■ Novels


片隅の昨日から

 江頭花耶は、奈美の記憶に間違いがなければ三つ年上で、今年で高二になるはずである。
 一昨年までスタジオフィオーリという有名なバトンスクールに通っていた。いや、江頭花耶のおかげでフィオーリというスタジオは有名だったというのが正しいだろう。
 花耶は奈美がHARUEバトンスクールに入会した年の全日本選手権大会で、小学校高学年部門の頂点に立った。六年生の冬のことである。もっとも、この時はまだ、奈美は江頭花耶というトワラーのことをまったく知らなかった。
 奈美が花耶を知ったのは、翌年の日本代表選考会だった。この年、奈美自身はまだ規定演技の枠から出ていなかったが、一観客として世界レベルの選手の演技を見に行ったのだ。
 そこで見た中学一年生の少女の演技に、奈美は心を打たれた。曲のせいもあったと思う。少女はとても中学生が使うとは思えない切ないメロディーに乗せ、しなやかな踊りを全面に押し出した演技を披露した。
 バトンの要素が少なかったせいか、日本代表には選ばれなかったが、その演技は奈美の心をつかんで離さなかった。後からその曲がフォーレの『シシリエンヌ』だと知り、奈美の中で花耶のテーマ曲になった。
 その年オープンクラスに上がった奈美は、身近なアイドルとともに練習に励んだ。そしてあっと言う間にひかるを抜き去り、冬の大会で全国に駒を進める。
 花耶を知ってから二年目の日本代表選考会。奈美は再びあの『シシリエンヌ』の演技を見られると、客席で胸をときめかせていた。ところがそんな奈美の期待を余所に、花耶は曲を変えてきた。ディズニー映画『ライオン・キング』の主題歌『愛を感じて』を用い、しなやかな踊りの中に、力強いバトンの要素をふんだんに取り入れた演技を見せたのだ。
 奈美は裏切られた気分がしたが、それは決して不快なものではなかった。むしろ江頭花耶の別の一面を見ることができて、ますます彼女を好きになった。
 花耶はこの演技で世界大会への切符を手にし、翌日の全日本選手権大会では女子中学校部門の頂点に輝く。奈美は花耶と知り合うことはできなかったが、同じフロアの上で演技ができただけで幸せだった。
 そして──その年のグランプリ戦が、奈美の見た江頭花耶の最後の演技になった。
 翌春、江頭花耶は世界大会を辞退し、そのままバトン界から姿を消した。あまりにも突然のことにバトン界中が震撼したが、いくら有名選手と言っても一個人に過ぎない。その年の世界大会が終わると、もはや誰の口からも江頭花耶の名前は出なくなった。
 奈美は花耶自身がいなくなってしまったことと、人々の話題からも彼女が消えてしまったことの二つの悲しみに暮れ、部屋でフォーレのCDを聴いては時々涙を落とした。
 その花耶と予期せず巡り会ったのだ。喜びに涙し、衝動的に話がしたいなどと言い出したのも無理はない。ただ、喜びと同じくらい戸惑いもあり、すべてを引っくるめて奈美は興奮しすぎた。
 ふと携帯電話をいじる手を休め、奈美はベッドに横になった。そしてコンポから流れる花耶のテーマに耳を傾けながら、目を閉じて昨夜のことを思い出す。
 文化小劇場のロビーで、奈美の言葉に赤毛の少女はひどく驚いた顔をした。それから気まずそうに辺りを見回し、握手していた手を振り解いた。
 奈美は血の気が失せ、自分の大胆な発言を後悔した。隣を見ると、いつも冷静なひかるさえ、信じられないという顔つきで奈美を見ていた。
 しかし、奈美が発言を撤回するより先に、決して口を開くことを許されていないターニャという名の少女が、小声でこう言ったのだ。
「ほんの少しなら抜けられると思うから、外で待ってて」
 奈美の心は再び空に舞い上がった。
 それから花耶を待つ三十分ほどの間、奈美は二人に自分がどれだけ花耶に憧れていたかを熱く語った。トワラーの千紗はもちろん江頭花耶を知っており、奈美以上に舞い上がっていた。
 それがいけなかった。今思えば、あの三十分の間に、奈美は花耶と何を話すか考えるべきだった。実際、衝動的に話がしたいなどと言ってしまったが、それは時間稼ぎのようなものであって、具体的に話したいことがあるわけではなかった。
 化粧を落とし、ジーンズと簡素なTシャツ姿で現れた花耶を前に、奈美は緊張のあまり真っ白になってしまった。逆に、ターニャが江頭花耶であると知った千紗が、そもそも呼び止めたのは奈美であることなど気にすることもなく、喫茶店に入るや否や花耶を質問攻めにした。
 もちろん、ミーハーな後輩を責めるつもりはない。興奮するなと言うのが無理だし、そもそも千紗がいなければ花耶と巡り会うこともなかった。ただ、何も話せなかった自分が不甲斐なく、奈美はその時の自分を思い出してため息をついた。
 花耶は自分を誘ったトワラーの少女を気にしながらも、質問に答えないわけにもいかず千紗の相手をしていた。その中で、千紗が気楽にした「どうしてバトンを辞めちゃったんですか?」という質問に、花耶はさらりとこう答えた。
「サーカス団で回す方が面白いから」
 それが嘘だと、奈美にはすぐわかった。それなら世界大会に出てからでも遅くないし、辞退するくらいなら初めから選考会になど出る必要はなかった。いや、出てはいけなかった。
 三月の大会から辞退を表明した四月までのひと月の間に、花耶の身辺に簡単には話すことができない何かがあったのだ。奈美はどうしてもそれが知りたかったが、千紗はすでに違う質問をしていたし、花耶の答えを否定することもできず、その機会は失われた。
 結局奈美が一言もしゃべることができないまま花耶の携帯電話が鳴って、短い集いはお開きになった。奈美はすがるように花耶を見て、花耶も物足りないように奈美を見た。しかし、二人とも何も言えなかった。
 花耶が背を向け、奈美が泣き出しそうになったその時、始終相槌を打つだけで何も話していなかったひかるが言った。
「花耶さん、また来てもいいですか?」
 身近なアイドルのこの一言を思い出すと、今でも嬉しくて涙が溢れてくる。ひかるは奈美の心境を本人以上に理解してくれていたのだ。
 ひかるの言葉に、花耶は嬉しそうな顔で頷いた。
 どうにか約束にこぎ着けた奈美だったが、最後に見せた花耶の笑顔の意味がわからず、後でひかるに尋ねた。しかし聡明な親友も、その問いには困ったように首を傾げるだけだった。
「私もよくわからない。私は奈美ちゃんほど花耶さんのことを知らないし。でも、今日こうして来てくれたんだから、きっと誰かに何か話したいんだと思う」
 それが何なのか、一日経った今なお、奈美にはわからない。奈美はその答えを出すのを早々にあきらめ、自分が釈然としなかった花耶の引退の真相を突き止めるべく携帯電話を握っていた。
 リミットは残り一日。花耶は日曜日の千秋楽の後すぐ、月曜日には次の公演地に行ってしまうらしい。
 奈美は携帯電話に入った知り合いのアドレスを眺めて、苦々しい顔をした。情報を集めるには数が少なすぎる。せっかく全国大会に出場したのに、奈美はあまり友達を作らなかったのだ。
 それでも努力の末、奈美はスタジオフィオーリを知る知人から、真相の一端を知ることができた。それによると、四月に入って早々、奈美の両親が離婚したらしい。奈美はフィオーリを辞めて母親とともに実家に引っ越したという。
 奈美は携帯を握ったままベッドの上で大の字になった。『シシリエンヌ』の切ないメロディーが、ひどく物悲しく聞こえた。
(そうだよね。だって、代表に選ばれたとき、花耶ちゃん、本当に嬉しそうだったもん。あんなに嬉しそうだったんだもん)
 世界大会の辞退を決めたとき、一体どういう心境だったのだろう。そして、それと今サーカス団でバトンを回していることに何か関係があるのだろうか。
(それを聞いてどうするの?)
 心の中で自分に尋ね、わからないと自答した。自己満足だと思う。教えてくれないかも知れない。ただ、どうしても納得できないのだ。バトンを愛する者が、第三者の都合のためにバトンを手放さなければならないということが。
「もう一度見たい……この曲で踊る花耶ちゃんを……」
 呟き、目を閉じると、急に睡魔が襲ってきた。
 奈美の手から力なく携帯電話が落ち、代わりに小さな寝息がメロディーに溶けた。

 日曜日は快晴で、心地よい夜風が吹いていた。遠くで花火の音がして夏の夜を盛り立てる。
「ごめんね。待った?」
 待ち合わせ時間より早いのだが、先に来ていた奈美を見てひかるが駆けてきた。花耶と会うのに二人だと不安なので、どうしても一緒に来てほしいと頼んだのだ。
「ううん。それよりごめんね。付き合わせちゃって」
「そんなの気にしないで。私だって花耶さんが好きなんだよ? ほら、じゃーん!」
 おどけながらひかるが取り出したのは色紙とマジックだった。
「チャンスがあったら書いてもらうんだ」
 そう言って笑うひかるを見て、奈美はひかるの意外な一面に目を丸くした。そしてミーハーな千紗の姿と重ね合わせた瞬間、恐らく神様の諭しだろう。奈美はひかるの真意に気が付いた。
 ひかるは自分がこの場にいる理由を作ったのだ。それをおくびにも出さずに色紙をしまうひかるを見ながら、奈美はバトン以外のあらゆる面でこの同級生には勝てないと思った。もっとも、バトンでは勝っているからか、嫉妬はしなかったが。
 事前にサーカス団に寄って打ち合わせた場所に行くと、江頭花耶は先に来ていて、壁にもたれて突っ立ったまま、通りを歩く人々を無表情で眺めていた。
 格好はビンテージのデニムに派手なプリントシャツで、ストリート系と言うのだろうか、少なくとも『シシリエンヌ』や『愛を感じて』ではない。その上短いぼさぼさの真っ赤な髪の毛である。もしも知り合いでなければ、恐らく奈美もひかるも目を合わせないようにしただろう。
「こんばんは、花耶さん」
 奈美が恐る恐る挨拶すると、花耶は格好と不釣り合いの笑顔を見せた。
「こんばんは。ごめんね、こんなんで。今の私は江頭花耶じゃなくてサーカス団のターニャだから、これも演出の一つなのよ」
 花耶が赤い髪をつまんで小さく笑った。
 喫茶店で話すつもりだったが、外があまりにも気持ち良かったので、缶ジュースを買って公園にやってきた。
「今日は時間取れるから。みんな公演が終わって、今夜はパーッと打ち上げだって。私は逃げてきた」
「花耶さん以外、みんなお酒が飲めるんですか?」
「まあ、未成年もいるけどね。でも、十八歳未満は私だけ。子供はサーカスには使えないしね」
 奈美は体の柔らかい子供こそサーカスに使えるのではないかと思ったが、花耶は「違う違う」と笑って手を振った。聞くと、児童福祉法により、十五歳未満の子供をサーカスに出すことは禁止されているらしい。
「私は高一だったから、辛うじてセーフだったの。まあ、高一って言っても、高校には行ってないんだけどね」
 見えない花火を見るように遠くの空に目をやって、花耶が寂しそうに呟いた。
 奈美は切り出すべきか逡巡した。そのためらいは絶妙の間を生み、結果として話をスムーズに進行させた。
「あたし、花耶さんの『シシリエンヌ』が本当に好きでした。曲も好きになってCDも買いました。一生懸命練習して、『愛を感じて』の年にあたしも全日本に出ました」
「へぇー、じゃあ奈美ちゃん、上手なんじゃん!」
 花耶はまず奈美を褒めてから、嬉しそうに礼を言った。
「ありがとう。もう昔のことだけど、好きだったって言ってもらえると嬉しいよ。『シシリエンヌ』なんて曲名、フィオーリの子でも知らなかった」
「あたしも聞いて回りました。ねえ花耶さん、教えてください。どうして世界大会を辞退したんですか? 引っ越ししたのと、その理由は知ってます。でも、それでも花耶さん、あんなに嬉しそうだったのに……」
 奈美はまるで自分のことのように悲しくなって、涙が溢れて言葉に詰まった。
 花耶は事情を知っていると言われても特別驚いた様子は見せなかった。知っている人は知っているということだろう。しばらく地面に視線を落としてから低い声で話し始めた。
「元々、両親の仲は良くなかったの。それでも一緒にいたのは父さんの給料が良かったから。でもあの年、秋くらいから父さんの会社の業績が悪くなって、リストラは免れたけど給料がものすごく悪くなった」
「月謝が払えなくなったから?」
「ううん、そんなにも悪くなってない。でも母さんは納得がいかなかったみたいで、金の切れ目が縁の切れ目っていうみたいに、二人は離婚した。私は父さんが良かったけど、父さんは弟を引き取って、私は母さんの実家に連れて行かれた。しかも私が父さんを選んだのが気に入らなかったみたいで、バトンも辞めさせられたし、もうなんにもしてもらえなくなっちゃった」
 花耶があきらめたようにため息をついた。
「そんな、大人の都合で! 花耶さん、悔しくなかったんですか!?」
「悔しかったわ! 泣いたし怒ったしケンカもしたし、それこそ物も投げて叩いて叩かれてもう家中メチャクチャ。でも、結局どうにもならなかった。中学生の私に何ができるの? 私は生き甲斐を失って……抜け殻みたいな毎日だった」
 花耶が悲しそうな顔をして、奈美は口を噤んだ。穏やかな声でひかるが言った。
「それで、サーカス団でバトンを回そうと思ったんですか?」
「そうだけど……そうじゃないの」
 花耶は苦悩するように両手で顔を覆った。それから途切れ途切れに経緯を語った。
 中三の冬、花耶は勉強する気がせず、かと言ってそれに対して母親は何も言わないという日々が続いていた。そんなとき、一人の男性が花耶を訪ねてきた。彼は間宮と名乗り、父親の友人だと言った。
「父さんは私のことを気にかけてくれていた。でも直接的には何もできなかった。だから、間宮さんに私のことを頼んだの」
 間宮氏は西田サーカス団の団員の一人だった。彼は友人である江頭氏の話を聞いて、昔からバトントワリング界の江頭花耶に興味を持っていた。ただ、それまでは花耶は普通の家庭で生活していたし、サーカス団にスカウトしようなどという考えはなかった。
 だが、離婚をきっかけに花耶はバトンを辞めさせられ、親からも放置された。勉強は手につかず、受験する気力もないという話を聞き、父は一つの選択肢として花耶にサーカス団を勧めたのだ。
「私はさんざん悩んで、結局家を出た。母さんには勘当されて、私は江頭花耶じゃなくて、サーカス団のターニャになった……」
 ひかるが開きかけた唇を閉じ、ちらりと奈美を見た。あくまで話の主役は奈美だと言わんばかりに。促されるまま奈美は口を開いた。
「バトンは、楽しいんですよね?」
「ええ。でも、わかる? 趣味が仕事になったプレッシャーが。ずっとバトンの先生になりたいって思ってた。先生と演技者じゃ違うのかもしれないけど、でもやっぱり趣味と仕事は違った」
「お家に帰りたいの?」
 困惑して奈美が問うと、花耶は顔を覆ったまま首を大きく振った。
「帰りたくない! サーカス団は好きよ? 間宮さんはいい人だし、他のみんなも優しくしてくれる。バトンも回せる。でも、やっぱり違うの。江頭花耶じゃないの!」
「サーカス団ではターニャさんだから? 本名じゃダメって言われたんですか?」
 ひかるが聞くと、花耶は少し落ち着いたように手を下ろした。ひかるのしゃべり方には不思議とそういう力があるようだ。花耶は赤くなった目をこすって首を振った。
「芸名を付けろとは確かに言われたけど、本名でも同じことよ。ターニャが西田サーカス団の中にしかいないのと同じように、江頭花耶もフィオーリにしかいなかった。だから、江頭花耶はフィオーリを辞めたときに消えたの。私、自分がわからない。今の生活が楽しければ楽しいほど、自分が自分じゃなくなっていくみたいで。バトンの形も変わっていく。今の私にはもう、『シシリエンヌ』なんて踊れないわ。だって私は江頭花耶じゃないもの」
 花耶の話は、中学生の奈美には難しすぎた。助けを求めるように隣を見たが、ひかるも困惑したように奈美を見ていた。
 だが、厳密にはひかるの困惑と奈美のそれは別次元のものだった。ひかるは、「奈美がどうしたいのか」がわからないのだ。奈美自身にもわかっていないのだから、ひかるにわかるはずがない。
「あたしは、『シシリエンヌ』の花耶さんとお話がしたくて……もう一度あの演技が見たくて……。ごめんなさい」
 奈美は混乱して思わずそう口走った。一番の願いを本人に先に否定されて、何をどうすればいいのかわからなくなったのだ。
 花耶は見た目にわかるほどショックを受けた顔をして、小さく肩を震わせた。そして静かにベンチから立ち上がると、申し訳なさそうに頭を下げた。
「ごめんね。会わなければよかった。そうしたら、少なくとも江頭花耶は奈美ちゃんの中で生き続けられたのに……」
 奈美は何も答えなかった。花耶は二人に背を向け、とぼとぼと歩き出した。
 涙が込み上げてきて、奈美は両手で顔を覆った。嗚咽が漏れ、ついには声を上げて泣き出した。
 少しして顔を上げると、もう花耶の姿はなく、ひかるもいなくなっていた。一人にしてくれたのかもしれない。
 憧れの江頭花耶は、とうとう奈美の中からも消えてしまった。
 奈美は大きな声で泣き続けた。

←前のページへ 次のページへ→