パパは32歳のサラリーマン。他のうちのパパと違って、いつも夜には帰ってきてくれる。その代わり、休みは週に1日しかない。
ママはいない。2年前に若い男の人といるところをパパと一緒に見て以来、会っていない。パパはママに気をつかって、「あの男の人が連れて行ってしまった」と言ったけれど、菜沙は「ふりんだ」とわかった。パパが思うよりずっと、女の子は敏感なのである。
菜沙はママが好きだった。しかし、そのときからパパの方が好きになった。パパがいればそれでよかったし、鍵っ子でも寂しくなかった。鍵っ子って死語か? まあいいや。
けれど、パパはそれをわかっていなかったのか、よくわからない。とにかく、突然夜ご飯のときに、パパがこんなことを言い出した。
「なあ、菜沙。一人で寂しくないか?」
「ううん、大丈夫。でも、たまに寂しい」
それは、もっとパパと遊びたいというアピールだったが、パパは違う解釈をしたらしい。
それからしばらくしたある日、家に帰ってくるなりパパが言った。
「菜沙、会ってほしい人がいるんだ」
「うん、誰?」
菜沙は無邪気に尋ねた。時々パパの友達が遊びに来ることがあったが、こんなふうに改まって紹介されたことはない。特別な人に違いない。
パパに呼ばれて入ってきたのは、自分と同じくらいの歳の女の子だった。ばら色の頬をした可愛い子で、どこかで見覚えがあるように思った。菜沙がにっこり微笑むと、女の子は丁寧にお辞儀をした。
「菜沙ちゃんね? はじめまして。わたしはみんなに翠って呼ばれてるの。よろしくね」
その自己紹介に、菜沙は若干の違和感を覚えた。けれど、そのときは不思議な物の言い方をする子だと思ったくらいで、差し出された手を握って、すぐに忘れてしまった。
さらっと、パパが怖いことを言ってのけた。
「菜沙の新しいママだ」
「……え?」
菜沙は思わず硬直した。面白い話は好きだったけれど、まだ冗談がわかる歳ではなかった。もっとも、冗談がわかったところで、数秒後の反応は同じだっただろう。パパは大真面目だったのだ。
「今日から、パパと菜沙と、翠の3人で暮らすんだ。もうお前も寂しい思いをしなくて済むぞ」
「よろしくね、菜沙ちゃん」
もう一度そう言って、翠は改めて手を差し出した。
今度はそれを握らなかった。菜沙は翠には目を向けず、背の高いパパを見上げて、ただただ混乱する頭で言った。
「新しいママ? ミドリちゃん? お姉ちゃん? え?」
パパはいつも以上に穏やかな瞳で説明した。
「つまり、パパは翠と結婚するということだ」
「だ、だって、ミドリちゃん、まだ小学生でしょ?」
難しいことはわからないけれど、小学生が結婚できないことくらいは菜沙にも理解できた。しかし、パパを見上げた翠も、その翠の髪を優しく撫でるパパも、まるで気にしてないようだった。
「愛に年齢は関係ないよ、菜沙。菜沙も大きくなればわかる」
翠は自分の一つ上だと言った。とてもではないが、あと1年でそれがわかるとは思えない。
どうやら二人とも本気らしいと本能的に感じ取って、菜沙はいよいよ慌て始めた。
「どうしてママなの? お姉ちゃんじゃいけないの?」
「いい質問だ、菜沙。だけど、娘はお前がいる。パパは菜沙以外に娘は欲しくないんだ。愛しているのはお前だけだ」
「わ、わかんない! ミドリちゃんは? ミドリちゃんはパパが好きなの?」
涙目で訴えると、翠はとても一つしか違わないとは思えない大人びた様子で頷いた。
「うん。でも、菜沙ちゃんのことも好き」
「嬉しくない!」
思わず声に出すと、翠は露骨にショックを受けた顔をして、悲しそうにパパを見上げた。菜沙は怒られると思ったが、パパは困った顔をしただけだった。
菜沙の混乱は深まる一方だった。とにかくこの流れに逆らわなくてはいけない。だけど、言葉が浮かばない。泣きたい。
「あたしは、パパがいればそれでいいの! ママなんていらない!」
「パパは、ママが欲しいんだ」
「パパはあたしのこと、嫌いになっちゃったの?」
「好きだよ。昔のママがいたときと同じさ。お前もママも愛してる」
おかしい。何かがおかしい。とにかく前とは決定的に違う。ただ単に、本当のママじゃないとか、そういうことではなく、とにかく何かがおかしいのだ。ああ、確かにおかしいよな、この状況。でも菜沙にはちょっと難しい。
「あたしはイヤ! 絶対にイヤ!」
「どうして? 菜沙ちゃんは、わたしのことが嫌いなの?」
悲しそうに翠が言った。パパも翠の肩を優しく抱き寄せながら、寂しそうな目で一人娘を見下ろした。
「どうして嫌なんだ? パパは菜沙が好きだ。菜沙がパパを嫌いになっちゃったのか?」
「違う! 違う違う!」
菜沙は大きく首を振った。パパは好き。大好き。いいなぁ、「パパ大好き!」な娘。
「とにかくイヤなの! 帰ってよ! 自分のおうちに帰ってよ!」
菜沙は泣きながらそう叫ぶと、突き飛ばすように翠を押した。パパが慌てて翠を抱きとめて、もう片方の腕で菜沙を抱きしめた。
「菜沙、パパが悪かった。ちゃんと菜沙に相談しなかったのは悪かった。でも……」
「帰って! 帰ってよ!」
菜沙はパパにすがりつきながら、わんわん泣いた。いや、犬じゃないぞ?
パパは何も言わなかった。翠も何も言わなかった。
少し落ち着いて目を開くと、翠の足が見えた。それが微かに震えていたから、菜沙は不思議に思って翠を見上げた。
一つ年上の女の子は小さく下唇をかみながら、睫毛を濡らして立ち尽くしていた。
ああ、きっとパパと一緒になれないことを悲しんでいるんだ。菜沙は直感的にそう思った。だが、違った。
「わたし……わたしには、もう……」
パパが止めた。見上げる翠に向かって静かに首を横に振り、それから菜沙を低い声で叱った。
「とにかくもう決めたんだ。あんまりわがままを言うと、菜沙のこと嫌いになるぞ?」
「パパ……」
二人きりで暮らすようになってから、こんなにも傷付いたことがあっただろうか。愕然となって見上げると、パパはもう翠のことしか見ていなかった。
そのときパパは、翠をかばうのに必死だった。一度に二人の女の子を気遣ってやれるほど、パパは出来た人間ではなかった。
菜沙もまた、そんなパパの気持ちを酌むには幼すぎた。本当にパパに嫌われたと思い、その悲しみや翠への嫉妬で頭の中がぐちゃぐちゃになり、バターになってしまった。
いや、バターにはならないけど。
「もういい! パパなんて大っ嫌い!」
菜沙は大好きなパパを突き飛ばし、大声で泣きながら自分の部屋に駆け込んだ。パパは「菜沙!」と声を上げたが、追いかけてはくれなかった。
そこで翠を優先してしまったことが、この先の菜沙と翠の関係をより悪化させることになるなど、子供たちはもちろん、パパにも予想できなかった。
その夜、菜沙はご飯も食べず、お風呂にも入らなかった。一度だけトイレに行ったが、声をかけてきた二人には見向きもせず、さっさと自分の部屋に戻った。
ドアの向こうでは、親子のような歳の差の夫婦の話し声がした。何を話しているかはわからなかったけれど、翠は悲しそうな声で話し、パパは何度も「大丈夫」と言っていた。
菜沙はぽつんと一人机に座って、静かにめそめそ泣き続けていた。ぼやけた視界に入ったカレンダーの今日の日にちに、赤色のペンで大きく「×」を書いた。
ベッドにもぐって枕を濡らすと、いつの間にか眠ってしまった。
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