1.翠がいるので、パパがいなくても菜沙は寂しい思いをせずに済む。
2.翠がいるので、ご飯の用意をしなくても済む。
まるで書類のような書き方の小説だ。菜沙はこの2つを挙げ、それは誤解だと訴えた。菜沙はもっとパパといたかったし、翠と二人きりの生活は苦痛だった。
もちろん、後者はパパには言わなかったが、パパは困った顔をした。
「じゃあ、なるべく早く帰ってくるようにするよ」
パパが嘘をついたとは思わないが、それからもパパの帰りはあまり早くならなかった。
ある時、学校で何気なく菜沙がそのことを言うと、片岡君がからかうように言った。
「そりゃあ、家政婦さんに払う給料を稼いでるんだろ」
「ううん、パパはミドリちゃんにお金なんて渡してないよ」
「ばーか。家政婦さんの食い物や学校の金だよ」
ああ、どうして気付かなかったのだろう。パパは翠のせいで、たくさん働かなくてはいけなくなったのだ。パパの帰りが遅くなって、一緒にいられる時間が少なくなった。つまり、パパといられないのは翠のせいだ。
その日、友達の家から帰ると、翠がテーブルに座ってため息をついていた。ひどく疲れた顔をしていたが、菜沙を見ると元気に笑って見せた。まるで頭痛薬のコマーシャルに出てくる母親のように。
「おかえり、菜沙ちゃん」
菜沙は何も答えなかった。しばらく翠を睨み付けてから、感情を爆発させるように声を張り上げた。
「ミドリちゃんのせいだから!」
翠は困ったように首を傾げた。けれど、何も言わなかった。頬が赤い。吐く息が熱い。
菜沙はそんな翠の異変にまったく気付きもせず、容赦なくたたみかけた。
「パパの帰りが遅いの、ミドリちゃんのせいだから! パパはミドリちゃんを学校に行かせるために働いてるの! 昔のママは、学校なんて行ってなかったし、ご飯を作ったりしながら働いてた!」
翠は大きく息を吐くと、テーブルに両肘をついて頭を抱えた。そして、熱っぽい声でぽつりと言った。
「ごめんね……」
「謝ったって、パパは早く帰ってきてくれないもん! ミドリちゃんが来たせいだから!」
翠は固く目を閉じた。眉間に皺が寄る。肩が上下に揺れる。
「わたしは……やっぱり幸せになっちゃいけないの……?」
うわ言のように呟く。もはや声になっておらず、菜沙には聞き取れなかった。
「えっ?」
「誰にも望まれてないの? やっぱり戻らなくちゃいけないの……?」
「何を言ってるの?」
ゆっくりと、夢遊病者のように翠は立ち上がった。だがすぐによろめき、テーブルの端に手をつく。
その手がずるっと滑った。翠は力なく床に倒れ、そのまま起き上がらなかった。
「……ミドリちゃん?」
菜沙は恐る恐る翠に近付いた。翠は真っ赤な顔で荒々しく呼吸していた。身体は小さく震え、額には冷たい汗が浮かんでいる。その額に手を置いて、菜沙はたじろいだ。
「あ、ああ……ミドリちゃん……ミドリちゃんが死んじゃった!」
いや、死んでないから。
菜沙はしばらく辺りを駆け回ってから、とにかく寝かせなくてはと思い、翠をパパの部屋まで引きずって行った。翠の身体は自分よりずっと軽かった。
ベッドに寝かせると、昔ママがしてくれたみたいに、洗面器に氷水を入れて、タオルを浸した。それを絞って、翠の額に乗せる。
「ミドリちゃん、大丈夫?」
心配そうに尋ねたが、翠からの返事はなかった。
菜沙は昔のママを思い出しながら、今度は体温計を持ってきた。38度を越えるような熱だと、パパが車で病院に連れて行くのだ。
翠の服の中に手を入れて、脇に体温計を挟む。そしてカップラーメンを前にしたかのように時間を待つと、ドキドキしながら体温計を抜いた。
ちなみにドキドキしていたのは、「ミドリちゃんが死んでくれるかもしれない」という期待からではない。そこまで薄情ではないので誤解のないよう。
体温計の指した数字を見て、菜沙は卒倒しそうになった。思わず悲鳴を上げてのけ反る。
パパに電話をしなくてはいけない。緊急の時にしかかけてはいけないと言われていたが、今は緊急だ。
パパはすぐに飛んできた。すぐと言っても、タオルを20回ほど取り替えるくらいの時間はかかった。
血相を変えて帰ってきたパパを見て、菜沙は安心して思わず泣き出した。
「ちゃんと看病していてくれたんだな。偉いぞ、菜沙」
パパは菜沙の頭を撫でてから、すぐに翠の様子を見た。菜沙がしたのと同じように体温計を突っ込み、カップラーメンを前に……もういいや。翠の熱を見て、パパはすぐに車のキーを持ち出した。
「病院に行って来る。今日は帰ってこないかもしれないから、ちゃんと戸締りをして寝るんだぞ?」
「ヤだ! あたしも行く!」
翠を心配したのではない。パパが来たから、翠はもう大丈夫だ。単に、こんな心細い夜を一人で過ごしたくなかったのである。
パパは翠にコートを着せながら即答した。
「ダメだ! お前は家にいろ!」
この時パパはひどく慌てていた。いつもならもう少し菜沙にも気が回っただろう。「風邪がうつるといけないから」という一言で、菜沙を納得させられただろう。だが、その一言すら出ないくらい焦っていた。
菜沙は心細さに突き放された悲しみが程よくブレンドして、癇癪を起こした。
「パパの意地悪! パパはあたしのことが嫌いになったからミドリちゃんを連れてきたんだ! あたしなんてもういらないんだ! いらないアヒルの子なんだ!」
それはきっと「みにくいアヒルの子」だな。
「何をバカなことを言ってるんだ! 怒るぞ!」
「ほら、すぐ怒る! ミドリちゃんが来てから、すぐ怒る! ミドリちゃんには優しいのに!」
「とにかく家にいろ!」
「イヤっ! ミドリちゃんよりあたしが好きなら連れてって! あたしの方が……」
「いいかげんにしろ!」
ついにパパの雷が菜沙の小さな身体を貫き、菜沙は哀れ、死んでしまった。
「パパは聞き分けのない子は嫌いだ。なんでパパが翠には優しいのか考えろ!」
それは無理ってもんでしょ、あなた。案の定、菜沙は驚いた顔をくしゃくしゃにして、大きな声で泣き出した。
「やっぱりミドリちゃんの方が好きなんだ!」
菜沙は駆け出した。玄関で靴を履き、そのまま外に飛び出す。
「菜沙!」
パパの声がした。しかし、追いかけてはくれなかった。翠が初めてこの家に来た、あの時と同じように。
冬が近い。冷たい空気が薄着の菜沙を凍えさせた。それでも気にせず、菜沙はアスファルトを蹴って駆け続けた。
やがて、疲れ果てて顔を上げると、人と車の多い場所にいた。駅前だ。随分走ってきた。
まだそれほど遅くないから、小学生の女の子が歩いていても不思議がる人はいない。
菜沙は据え付けられたベンチに腰かけて、通り過ぎる人の波を見つめていた。
何かしなくてはいけない。何か考えなくてはいけない。けれど、何をすればいいのかわからない。何も思いつかない。
(ここにいれば、きっとパパが迎えに来てくれる……)
菜沙はいつまでも座っていた。身体が冷える。爪先が冷たい。人々は小さな女の子に無関心で、誰も話しかけてこない。交通標識はたくさんあるが、小さな子供の道しるべはない。
じっと待った。そしてついに、菜沙の瞳が見知った人の姿を捉えた。反射的に立ち上がり、数年ぶりに大きな声で呼びかけた。
「ママ!」
路上を歩いていた、まだ三十前の女性が足を止め、驚いた顔をした。
「菜沙……」
←前のページへ | 次のページへ→ |