小学1年生の秋、パパとは違う男性と腕を組んで歩いているママを見て、小さな菜沙はショックを受けた。ママはパパのことも自分のことも嫌いになってしまったのだと思った。
実際に、それっきりママの姿は見なくなった。パパはママをかばっていたけれど、ママが自分たちを見捨てたのだと直感的にわかった。少ししてから、不倫というものを漠然とだが理解した。
長いこと離れていたから、嫌悪感が薄れていたわけではない。むしろ、色々なことを知るにつれて、どんどんママのことを嫌いになった。
にも関わらず、菜沙は嬉しそうにママに駆け寄ると、数年ぶりにその胸に飛び込んだ。
きっと、追いつめられていたのだ。読者の方々も翠の味方だろうが、菜沙は菜沙なりにショックを受け、本当にパパを取られそうな不安と毎日戦っていた。翠にばかり優しいパパに打ち拉がれていた。
「助けて、ママ。パパを取られちゃう」
「ちょっと落ち着きなさい、菜沙。恥ずかしいでしょう。人が見てるじゃない」
菜沙が身体を離して見上げると、ママはかなり複雑な顔で周囲を見回していた。それから強引に菜沙の手を引っ張って、人気のない路地裏に入る。
「久しぶりね、菜沙。元気だった?」
そう言ったママの表情には、懐かしい人と再会した温かみなどかけらもなかった。あたかも、こういうシーンではこう言わなくてはいけないという義務を果たしただけのように思える。
しかし、それに気付くような余裕は、菜沙にはなかった。
「パパが女の子を連れてきたの! ミドリちゃんって言うの! パパはミドリちゃんばかり可愛がって、もうあたしのこと好きじゃないみたいなの!」
それを聞いて、ママは驚いたようだが、すぐに嘲笑を浮かべた。
「ふーん。俊一、私にあんなこと言っておきながら、自分も女連れ込んでるんだ」
「ママ……?」
菜沙は不安げに眉をゆがめた。絶対にママなのに、ママじゃない気がする。
幼い菜沙にわかろうはずがなかったが、この2年でママは若さを取り戻し、妖艶になっていた。元々19歳で菜沙を産み、まだ三十前なのである。
早くに結婚して、得ることのできなかった独身女としての楽しみを、今満喫していたのだ。
「ごめんね菜沙、私は力になれないわ」
「どうして? だって、ママはあたしのママでしょ?」
「今は違うから。あんたにはママはいないの」
その時菜沙が心に受けた衝撃は、とても言葉では言い表せない。だから略。
菜沙は震えながら、この2年で味わってきた劣等感の数々を思い出した。
例えば授業参観。みんなママが来るのに、菜沙だけパパだった。
交通安全の旗持ちも、ママがいないから自分のうちだけ番が回ってこないことも知っている。
それから毎朝会う、お友達のママたち。あの惨めな瞬間を思い出して、菜沙は思わず涙をこぼした。
「でも、でも、ママはママでしょ? だって、あたしのこと……」
「好きだったわ。でも今は違うの。もう好きじゃないの」
「でも、でも、でも……」
「私、元々あんまり子供って好きじゃないのよ。ホントよ?」
菜沙は信じなかった。ママはちょっと鬱陶しそうな顔をしてから、思い付いたようににんまりとイヤらしい笑みを浮かべた。
「私ね、菜沙。自分の子供を捨てたことがあるの」
「子供……?」
「そう。誰にも秘密。好きでもない人の子供ができちゃってね。堕ろせなかったのよ。お金もなかったし、相談する人もいなかった。まだ高校生で、病院に行く勇気もなかった」
「…………」
「だから産んだの。自分で。お風呂で。血がどばーって出たわ。赤ちゃんは真っ赤っかで、本当に赤ちゃんだったわ。可愛いなんて思わなかったわよ? やっと解放されたと思った。でね、その赤ちゃん、まだ生きてたのよ」
菜沙は、心拍数が120を越えるくらい鼓動が速く打つのを感じた。足が震えて、壁にもたれた。そのまましゃがみ込んで顔を上げると、髪の毛を風になびかせるママが化け物のように見えた。
「どうしたと思う? さすがに殺せなかったわ。だから捨てたの。4月よ。桜が咲いてたわ。スポーツタオルに包んで、ポイって捨てたの。ぎゃーぎゃー泣いてたけど、私は解放された喜びでいっぱいだった」
怖い。途方もなく怖い。
菜沙の心はずたずたに切り裂かれた。恐らく一生のトラウマになるだろう。それが、ママの狙いだった。
娘が十分打ち拉がれるのを見て、ママは軽く手を振って笑った。
「嘘よ。子供なんて一人で産めるわけないし、大体自分の子供捨てるなんて犯罪よ。あら? 大丈夫? 立てる? 怖くてお漏らししちゃった?」
ママはそう言ってからからと笑った。そして不意に大通りの方に目をやって、低い声で呟いた。
「でも、俊一は俊一なりに楽しんでるって聞けたのは良かったわ。結局あの人が一番良かった。今さら言っても遅いけどね。出会うのが早過ぎた。そうとしか言いようがない」
こういう台詞って、作者が書くのではなく、キャラが書かせるんだなぁと思う。すごい台詞だ。
でも菜沙には難しいし、そもそも聞こえていなかった。腰が抜けて、立てそうにない。息苦しくて、自分が呼吸しているかも疑わしかった。頭が痛い。吐き気がする。苦しい。
「パパ……」
割れそうな頭を抱えた。
ママはしばらく感慨深げに娘を見下ろしていたが、やがて目を細めて小さく首を横に振った。
「怖がらせてごめんね。でも、嫌われた方が楽なときもあるのよ。いつかあんたにもわかるから……。さよなら。元気でね」
ママは返事を3秒だけ待ったが、菜沙は何も言わなかった。言えなかった。だからママは、儚い微笑みを浮かべて立ち去った。
それが母子の今生の別れとなった。
イルミネーションにはまだ早い。しかし、クリスマスシーズンは、この辺りの街路樹はキラキラ光る電球に彩られる。
等間隔に並ぶ駅前の街路樹の下を、菜沙はとぼとぼと歩いていた。人通りは随分少なくなっている。閉店間際の写真屋さんの時計を見たら、すでに8時を回っていた。
パパが心配している。
そう思って、首を振る。
心配なんてしていない。今頃病院で、翠に付きっきりだ。今日は帰ってこない。自分が家にいてもいなくても、パパには同じ。この世の中にいてもいなくても、パパには同じ。
(消えたい……)
なんてこと、小学3年生の女の子が考えるかどうかは知らないが、とにかく菜沙はそう思った。
車道をタクシーが走り抜け、その後ろに乗用車が3台続いた。軽トラックが来て、後ろにバスが見える。
「あれー? 菜沙ちゃん」
いきなり明るい声で呼びかけられて、菜沙はゆっくりと振り返った。自転車に乗った保奈ちゃんが、不思議そうな顔で立っていた。
自転車のカゴには小さなカバンが入っている。どうやら塾の帰りらしい。
保奈ちゃんは菜沙の顔を見て表情を険しくした。
「泣いてるの? 何かあったの?」
「ううん……」
「ウソ。だって、目が真っ赤だよ? 一人なの? パパは?」
保奈ちゃんは自転車から降りて、安心させるように菜沙の肩に手を置いた。その触れ合いは確かに効果があったらしい。菜沙の目に生気が戻ってきた。
「パパはいないの。ミドリちゃんが熱を出して、病院に連れて行って、今日は帰ってこないの」
その説明で、保奈ちゃんは大体の事情を理解した。二人の仲が悪いのは知っているし、菜沙がパパを翠に取られたと思っていることも知っている。
さしずめ、パパが翠に付きっきりなのを悲しんで、家を飛び出してきたのだろう。泣いていたのもそのためだ。
まあ、最後のは誤解だが、本当のことは5年生の保奈ちゃんにも重すぎるから、誤解したままでいてもらおう。
「じゃあ、うちにおいで。ご飯は食べた? まだだったら、私を食べて」
お前はアンパンマンか。
菜沙は迷った。保奈ちゃんは問答無用で菜沙の手を握り、歩き始めた。
ぎゅっと、菜沙もその手を握り返した。保奈ちゃんの手は温かかった。
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