ベッドの上で半身を起こして小さく震えている半姉(それは競馬用語)を見上げながら、菜沙も身体を起こした。そして、初めて翠と会った日のことを思い出した。
一目見た瞬間、菜沙は翠に見覚えがあった。あれはママや自分だったのだ。それが証拠に、送り迎えのママたちにも実の姉妹かと聞かれたし、パパも保奈ちゃんのパパも翠が菜沙に似ていると感じていた。
これ以上の裏付けがあるだろうか。動かぬ証拠というヤツだ。
いつもならまず物事を疑ってかかる翠ですら、疑わなかった。そうであったらいいという願望を排除したとしても、状況や時期は一致しているし、自分と菜沙の顔立ちは似すぎている。
翠は思い切り菜沙を抱きしめると、身体を震わせて嗚咽を漏らした。それから、堪えきれないように大きな声で泣き出した。
「どうしたの? ミドリちゃん、ミドリちゃん……」
心配そうに声をかける菜沙に、翠は何度も首を振った。
「違うの、違うの。嬉しいの。わたし、嬉しくてたまらないの」
菜沙はあまりの出来事に、もうドキュメンタリーのことなど忘れていた。代わりに翠の書いたという短冊が、頭の中でひらひら揺れる。
翠は泣き続けていた。こんなにも激しく感情を露にする翠を、かつて見たことがあっただろうか。しかもそれが喜びによるものだなんて!
「良かった! ホントに良かった。生きてて良かった。あの時、死ななくて良かった……」
あの時っていつだろう。捨てられたときだろうか。それとも、もっと別の日?
菜沙は一瞬考えたが、翠の泣き声を聞いている内に、嬉しいやら悲しいやらわからなくなって、一緒になって泣き出した。
翠の夢の叶った瞬間だった。
二人はこのことをパパには言わなかった。パパが本当にママを愛していたのは間違いない。
そのママが、菜沙を身篭る前に、他の男の子供を産んでいたことなど、言わない方がいいに決まっている。
もっとも、小さな子供二人がいつまでも隠し通せることではなかった。だいぶ先になって、ひょんなことから菜沙がそのことを口にしたとき、パパはしばらく黙り込んだ。
翠は青ざめ、追い出されるのではないかと心配したが、パパは翠の頭を撫でながらこう言った。
「だからパパは、翠のことを好きになったのかもしれないな」
ひょっとしたら、パパは本気にしなかったのかもしれない。本当のところはわからないが、それからもパパは同じように菜沙も翠も愛し続けた。
感動の夜が明けると、帰宅したパパは確かに驚きに目を丸くした。元々仲のよい二人だったが、醸し出す雰囲気が明らかに昨日までとは違っている。
その答えは翠の笑顔にあった。こんなにも晴れやかな翠の笑顔を見たことがあっただろうか。
「俊一さん、またわがままを言ってもいいですか?」
にっこりと笑う翠に、俊一はどぎまぎしながら頷いた。ちょっとロリコンかもしれない。
「わたし、新学期から学校に行きます」
万事は上手くいった。
再び学校に通い始めた翠は、もう以前のようにいじめられることはなかった。
もちろん、依然として偏見は残り、時にはからかわれ、時には同情されたが、翠はまったく気にしなかった。
自分には血のつながった家族がいる。ママが誰かもわかったし、妹は自分のそばで自分を好きでいてくれる。もう引け目を感じることなど何もない。
自分を抑制する習慣は少しずつ改善され、元々自由奔放な母親の血と程よく混ざり合っていい感じになった。なんだそりゃ。
菜沙は母親の血に押され気味だったが、善悪を知っている姉が時に誉め、時に叱ることで真っ直ぐに成長した。パパには時に反抗的だったが、翠には従順だった。
翠は感謝の気持ちを忘れることなく、常にパパと菜沙のために尽くした。それは決して苦痛ではなく、二人の喜ぶ顔を見るのが翠の何よりの楽しみだった。
月日は流れ、菜沙は中学生になった。もう使うことのなくなったランドセルは、業者に出して小さなランドセルに加工してもらうことにした。まあ、それはどうでもいいが。
ピカピカの制服を着て、1年ぶりに翠と二人で登校する。街路の桜が満開だった。
ある日、学校の帰り道、翠に手を引かれて連れて来られたのは、大きな公園だった。桜が咲き乱れる下を、子供たちが元気に走り回っている。
翠は、今ではすっかり見ることのなくなったあの切ない笑顔で、ある一本の桜の木の下に立った。そしてその樹皮に手を当てて、感慨深く呟く。
「今日、誕生日なの」
「うん、知ってる。お父さんがケーキを買って帰ってくるって」
パパからお父さん。きっと娘が可愛いのはここまでだな。はぁ……。
「わたし、この木の下で泣いてたんだって。すごく大きな声で。『誰か気が付いて! わたしを助けて!』って言ってるみたいだったって、拾った人が言ってたんだって」
翠がすっと手を差し出した。菜沙はそれをぎゅっと握った。
「色んなものを恨んできた。一番、お母さんのことを恨んだ。でも、すごく幸せになれた。『まほうのことば』も要らなくなった」
「あなたは、この地球に一人しかいない、とっても大切な人です?」
「なつかしいね」
翠は笑った。瞳に涙が浮かんで、太陽の光に煌いた。
「だから、やっと言える」
澄み切った、心からの笑顔で。
「産んでくれてありがとう」
菜沙も泣きそうな顔で笑った。
つないだ手がとても温かかった。
Fin
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