あれから翠は2日間入院した。過労による肉体の衰弱との診断だったが、翠は精神的なものだと自覚していた。料理は好きだったし、家事はそれほど苦にならなかった。それよりも、菜沙や学校での付き合いの方がずっと大変だった。
翠が病院から戻ったとき、もう菜沙には翠と仲良くしようという気はなくなっていた。もっとも、冷たく当たろうという考えもなくなっていた。パパが優しくしてくれるようになったからだ。
保奈ちゃんのパパの予想の通り、病院で翠がパパに、菜沙に優しくするよう頼んだのだが、もちろん菜沙はそれを知らない。パパは翠が菜沙のことを本当に好きでいてくれるのだと思い、感動した。
しかし、翠の本心は違った。もちろん菜沙のことは好きだったが、この時は単に、パパが自分よりも菜沙を見てくれれば、もう菜沙に冷たく当たられることはないと考えたのだ。
実際、それはその通りになった。もっとも、まだ菜沙との距離は感じていたし、不器用なパパはあまり翠のことを見てくれなくなったけれど、翠は満足していた。翠もまだ子供だから、たくさん欲しいものがあったが、同時には手に入らない二つのものに優先度をつけることが、翠には無意識にできた。
翠がまた学校に行くようになってから1週間ほど過ぎたある日、菜沙は偶然、学校でショックな場面に遭遇した。
中庭の隅の方に4年生の一団があり、何やら声を荒げていた。その中に翠の姿もあったので、気付かれないように近付くと、いきなり心を突き刺す一言が耳朶を打った。
「本当のことだろ? こいつが親がいなくて、島内ん家で住み込みで働いてるって。島内が言ってんの、弟が聞いたんだ」
「なあ、そうなんだろ、沢村。お前、飯作って金もらってるんだろ?」
男の子たちの揶揄に、翠は始終俯いて立っていた。女の子たちが目をつり上げて反論した。
「『沢村』って呼ばないでよ! 先生も翠ちゃんのことは『島内』って言ってるでしょ?」
「そうよ! 働いてるんじゃなくて、おうちの仕事を手伝ってるだけよ! ねえ、翠」
翠は少しだけ顔を上げて、力なく頷いた。視線は落としたままだった。
「嘘つけ。3年の奴ら、みんなこいつのこと、『家政婦』って呼ぶんだぜ?」
「大体、『沢村』って呼んでくれって言ったの、沢村本人じゃねーか」
「家政婦なんだろ? それとも、お前の妹が嘘ついたのか?」
翠は俯いたまま顔を上げない。頷きもしないし、否定もしない。
菜沙は飛び出して行って、翠をかばおうと思った。しかし、嘘つきになるのが怖くてできなかった。心の奥底には、翠に自分を肯定して欲しいと願う、卑怯な思いもあった。
「言ってたでしょ? 翠ちゃんたち、ケンカしてるって。菜沙ちゃんも、わざと翠ちゃんを悪く言っただけよ! それは嘘って言わないの!」
「でも、妹は料理もしなきゃ、家事もしないって言ってたぜ? 全部沢村が一人でやるって」
「家政婦なんだろ? お前、島内の家に行って、頼んだんだろ? 『ここで働かせてください』って」
「あー、『千と千尋』だ! ここで働かせてください!」
「なあ、言ってみろよ。『ここで働かせてください』って!」
マニアか、お前ら。
「いいかげんにしなよ、あんたら。翠が可哀想でしょ!」
「へー。可哀想な子なんだ。やっぱり親がいないから」
「大変だなー、沢村。俺が雇ってやろうか? 100円で」
「高ぇよ。50円だな。ここで働かせてください!」
「ここで働かせてください! あははっ!」
菜沙は、ずっと翠を見つめていた。菜沙が泣きそうになった頃から、翠はうっすらと笑っていた。いつもの微笑みだった。
菜沙はやっとわかった。ああ、翠は悲しいときに笑うんだ。なぜかはわからないけれど……。
「へらへらしてんじゃねーよ!」
誰かが翠の肩を強く押した。小さな悲鳴とともに翠の身体が砂埃を立て、味方の女の子たちが声を張り上げた。
見ていられなくなって、菜沙はその場を立ち去った。涙が止めどなく溢れてきて、干からびて死んでしまった。
その夜は、パパの帰りが遅くなった。お皿を洗い終えてエプロンで手を拭いている翠の背中に、菜沙は小さな声で聞いた。
「ねえ、ミドリちゃん。パパに、働かせてくださいって、頼んだの?」
翠はピタリと動きを止めた。振り返らなかった。少し肩をすぼめたその背中に、菜沙は繰り返して尋ねた。
「パパは、ミドリちゃんがうちに来るのに反対だったって、保奈ちゃんのパパが言ってた。ミドリちゃんが頼んだの? 働かせてくださいって」
「…………」
「パパもママも死んじゃって、帰るところがなくて、だからパパに、働かせてくださいって頼んだの?」
言いながら、菜沙は鼻をすすった。
もし翠が肯定したらどうするのだろう。逆に否定したら? 菜沙は先のことは考えていなかった。ただ、「本当のこと」が知りたかったのだ。
長い長い沈黙の後、やはり背を向けたまま、翠が小さく首を振った。
「違うよ。わたしは、そんなこと頼んでない」
「でも、パパは反対だったって。保奈ちゃんのパパが嘘をついたの?」
「頼んだのはわたしじゃないの」
翠は振り返ってそう言った。その瞳は今にも泣き出しそうに潤んでいたが、顔には微笑みを浮かべていた。
「ミドリちゃんじゃない? じゃあ、誰?」
当然の疑問だったが、翠ははぐらかした。菜沙が本当に知りたいことが、言葉通りのことではないとわかったから、たとえ知られる日が近いとわかっていても、今は言わなかった。
「もちろん、わたしも置いてほしいって思った。でも、わたしはそんなこと言わなかった。その人が俊一さんにお願いしてくれたの。それにその人も、『働かせてやってくれ』なんて頼んだんじゃない」
「ミドリちゃんのパパとママが頼んだの? パパもママも生きてるの?」
「見てたんだね? 今日の、学校の」
申し訳なさそうに菜沙は頷いた。翠はあきらめたようにため息をついてから、小さく笑った。
「悲しんでくれるの? わたしのために?」
「だって……」
純粋に、翠がいじめられるだけで悲しい。しかもそれは、自分が3年生の教室で言いふらしたことが原因なのだ。
「ありがとう、菜沙ちゃん。でも、わたしは平気。助けてくれるお友達もいるし、それに男子が言ってたことは本当のことじゃないから」
「あたしが、嘘をついたから……」
「菜沙ちゃんには家政婦でいいって、わたしが言ったの。だから別に、菜沙ちゃんも嘘はついてないよ」
それが翠の本心か、それともそう言った方がこの先のことが上手くいくと、10歳にして心得ていたのかは読者の想像に委ねよう。
とにかく、さんざん罪悪感に苛まれていたところを、さらにかばわれたことで、菜沙はとうとう「謝らなくてはいけない」とわかった。謝りたいと思った。
「ごめんね、ミドリちゃん。あたし、あたし……」
あたし、まさか自分が言ったことがあんなふうに広まって、ミドリちゃんがそのことでいじめられるなんて思ってなかったの。そんなつもりじゃなかったの。ただ落ち込んでたから、だれかに愚痴を言いたくて。別にミドリちゃんを陥れようと思って言ったんじゃないの!
というようなことを言いたかったが、菜沙は上手く言葉にできずに、翠に抱きついてわんわん泣いた。
翠は1つ下の娘を優しく抱きしめ、その背中をそっとさすってやった。
「いいよ。ありがとう、菜沙ちゃん。わたしは菜沙ちゃんのこと、怒ってないから」
菜沙は泣きながら頷いた。翠は大きな瞳から涙を一筋こぼし、少しだけ震える声で聞いた。
「菜沙ちゃん。わたしはまだ、家政婦じゃなくちゃ、ダメ?」
「ううん!」
菜沙は即座に首を振り、自分と同じくらいの大きさの肩に顔を埋めたまま言った。
「あたし、ママがほしいの。ミドリちゃん、あたしのママになって」
翠は、菜沙に気付かれないように、安堵の息を漏らした。
本当は知っていたのだ。菜沙が「ママ」を欲しがっていることを。入院中にパパから聞いていた。
しかし、いざ退院しても、菜沙から一向にそういうアプローチがない。ひょっとしたらパパの勘違いなのではないかと考え、菜沙と仲良くなれるかも知れないという期待は、すっかりしぼんでしまった。
だから今、勇気を出した告白に菜沙が答えてくれたことで本当にほっとした。とても嬉しかった。
「よかった……」
小さく呟くと、堪え切れなくなって涙があふれた。ここに来てから初めての……いや、翠が記憶する限り、人生で初めての嬉し涙だった。
菜沙はそれに気付かず、ずっと泣いている。「ママ、ママ」と何度も言いながら。
翠は自分も泣きながら、しかしいつもわずかに残ってしまう心の冷静な部分で思った。
(どうして菜沙ちゃん、急にママがほしくなったんだろう……)
もちろん、聞かなかった。自分がまだ菜沙には話せないこと、話したくないことがあるように、菜沙にも言いたくないこともあるだろう。
慌てることはない。とにかく今、ようやくこれから二人が心を通わせていく道のりの、スタートラインに立ったのだから!
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