保奈ちゃんのパパが菜沙のパパに言ったことは少なかったが、それがすべてを網羅していた。
「あの子が単に礼儀正しくて大人しい女の子だなんて思うなよ。いつも笑っているのも、そのくせ絶対に心から笑わないのも、全部悲しい出来事の裏返しさ。あの子は常に怯えてるんだ」
翠を救えるのは、愛情から培われる信頼しかない。それが二人の父親が出した結論だった。
それらを、パパは菜沙には話さなかったが、一つだけお願いした。ただ、翠を好きになってほしいと。
「もちろんだよ。あたし、ミドリちゃんのこと、大好きだよ!」
むしろむきになるくらい力強くそう言った菜沙に、パパは目を細めて頷いた。
翠は菜沙が学校で自分の代わりにいじめられてはいないかと心配していた。しかし、それは杞憂だった。翠が学校に来なくなったことで、初めて子供たちは、自分たちが翠を苦しめていたことに気が付いたのだ。
無意識の悪というのはひどく恐ろしいものだが、逆に悪だとわかればやめる場合も多い。今回はそれだった。すっかり翠の話も出なくなり、菜沙は今なら大丈夫だと思って翠に学校に来るよう誘ったが、翠は困った微笑みを浮かべながら首を振った。
「行きたくないの。ごめんね、菜沙ちゃん」
菜沙はパパの言った「焦っちゃいけない」という言葉を思い出し、それ以上何も言わなかった。
冬休みの間に二人の仲はさらに深まった。翠は菜沙の言う「まほうのことば」が書かれたノートを見せた。「子どもの権利ノート」という、児童養護施設で配られる絵の入った冊子だった。
興味深そうにめくる菜沙を見ながら、翠は蔑むような笑みを浮かべて言った。
「ほとんど嘘だよ。ぶたれたし、嫌だって思うこともいっぱいされた。いやらしいこともされたし、守られなかった。でも、ほらここ。この最初に書いてある言葉がすごく好きなの。だから、何回も何回も読んで覚えたの」
「ミドリちゃんがずっと言ってたやつだね?」
「うん。『このメッセージは、あなたを応援する大人たちからのものです』って書いてあるでしょ? だから、たとえ施設の中にはいなくても、きっとどこかにわたしのことを応援してくれる人がいるんだって。そうやって、自分を励ましてたの」
「保奈ちゃんのパパは? ミドリちゃんのこと、応援してくれなかったの?」
「啓二さんはすごく優しくしてくれた。でも……」
でも、結局わたしのことをわかってくれなかった。やっぱり「他人」だった。
翠はその言葉を飲み込んだ。菜沙はなんとなく翠の言いたいことを理解して悲しくなった。
冬休みに入ったばかりの頃、菜沙はパパに虹ノ丘学園の話をせがんだ。その時パパが教えてくれたことが、幼い菜沙の胸に刻み込まれていた。
「七夕のときに、みんなで短冊を書いたんだ。翠の短冊を見たとき、パパは思わず泣きそうになった。大人のパパが泣くなんて可笑しいだろ? でも、それくらい悲しかったんだ」
「ミドリちゃん、何をお願いしてたの?」
「たった3文字、『かぞく』って書いてあった。もしあれを見てなかったら、パパは翠を引き取ってなかったかもしれない」
菜沙はその時のことを思い出しながら、翠の横顔を見つめていた。そして、どうしたら自分は翠が心を許せる「家族」になれるのだろうと、幼心に悩んだ。
平和な日々が失われたあの日と同じように、それは唐突にやってきた。
年が明けて仕事始め早々、パパが夜勤になると電話をかけてきた。小学生の二人はたちまち不安になった。翠は気丈にママを演じていたが、菜沙はずっと翠にしがみついていた。
場を明るくしようと思ってかけたテレビで、出産のドキュメンタリー番組をやっていた。子供が見るものではない。普通なら親がチャンネルを変えてしまうが、生憎その場に保護者はいなかった。
翠は自分ではしなかったが、「いけないこと」に慣れていた。だから、興味もあったのでドキドキしながら番組に釘付けになった。
テレビの中で赤ん坊が泣き声を上げると、翠はその力強い生命に感動し、思わず感嘆のため息を漏らした。菜沙がぎゅっと強く翠の腕をつかんだのはその時だった。
「お願い、ミドリちゃん。テレビを消して」
「どうしたの? 怖いの?」
「うん。お願い、消して」
翠がテレビを消すと、菜沙は翠の胸に顔を埋めて、めそめそと泣き出した。翠はそんな菜沙を優しく抱きしめながら、自分も泣きそうな顔で謝った。
「ごめんね、菜沙ちゃん。怖がらせちゃってごめんね」
菜沙はもちろんすぐに許した。しかし、心の中の恐怖は決して消えることはなかった。
その夜は、二人でパパのベッドに入った。パパが夜勤のときはいつもそうして二人で寝ているのだ。そうすると菜沙も安心して眠ることができたのだが、この夜は違った。
先ほどのドキュメンタリーが頭の中で繰り返される。胃がむかむかして、吐き気がした。頭が痛くて、翠が痛がるほど強く抱きついた。
「ごめんね、菜沙ちゃん。本当にごめんね」
翠が何度も謝ると、菜沙は首を振りながら、「違うの!」と絞り出すように声を出した。
「ママ……」
翠の脳裏に、菜沙と仲良くなった日の記憶が鮮明に蘇った。最近は母親と姉の中間的立場で安定していたので、すっかり忘れていたが、一時期菜沙がママを切望していたことがあった。
「昔のママを思い出したの?」
「違うの。違うの……ママ……」
菜沙は泣いた。ひとしきり泣くと、翠が身体を起こしてそっと菜沙の髪を撫でた
「菜沙ちゃん、何かあったらわたしに話して。力になってあげるから。わたしは菜沙ちゃんのママなんだよ?」
その一言で、菜沙は決意した。元々、小学3年生の女の子が一人で抱え込むには重すぎたのだ。
すべてぶちまけた。翠が熱を出して倒れた日の夜、駅前で昔のママに会ったこと、そのママに、「あんたにはママはいないの」と言われたこと。それに、ママが子供を産んで捨てたという、恐ろしい話もした。
菜沙が最後まで話し終えたとき、翠はもう菜沙の髪を撫でていなかった。
長い間悩んできたことをすべて吐き出して、幾分すっきりして菜沙が顔を上げると、翠は何かに取り憑かれたように、じっと一点を見つめていた。
「どうしたの? ミドリちゃん……」
菜沙は恐る恐る尋ねたが、聞こえていないようだった。翠の薄い唇がかすかに動いた。
「まさか、そんなこと……。でも……」
「どうしたの? ミドリちゃんも、ママの話が怖かったの?」
不安げに、少し大きな声でそう言った菜沙の顔を、翠はじっと見つめた。瞳が大きく、目鼻立ちの整った愛らしい顔をしている。きっとママは美人だったのだろう。
だが、今はそんなことはどうでもいい。毎日見ている菜沙の顔を凝視したのは、可愛いことを再確認するためではなかった。
「わたしの名前、乳児院でつけられたんだって……。施設の人が言ってた……」
熱にうなされるように、翠が言った。菜沙は少し「怖い」と思った。翠は焦点の定まらない目で、独り言のように続けた。
「わたしの名前は、はじめは『桜』だったんだって。わたしは桜の木の下に捨てられていたの。ちょうど桜が満開で、わたしが入れられていたカゴの中に、落ちた桜の花びらがたくさん入ってたんだって」
翠の手が菜沙の髪を撫でた。視線が合ったが、翠は呆然とした表情のままだった。
「だからわたしは、名前を付けた人の苗字と一緒に、『沢村桜』って名前になった。でも、すぐに名前は変えられた。どうしてだと思う?」
菜沙は答えられなかった。けれど、翠がちゃんと自分に話しかけているのだとわかって安心した。
「その時乳児院には、『さくら』って名前の子が、2人もいたの。だからわたしは『翠』になった。わたしが、緑色のスポーツタオルにくるまれていたから」
「えっ……?」
菜沙がびっくりして声を上げる。
「じゃあ……ママの話は本当で、ママが捨てた子供が、ミドリちゃん……なの?」
翠は驚く菜沙の瞳を覗き込んだ。そして、菜沙は自分の発言の意味することを理解していないのだと悟った。
次に声を出したとき、翠は動揺を抑えられないように、早口になっていた。
「わからない。でも、話が合いすぎるから。その時菜沙ちゃんのママが高校生だったってことも……」
「ミドリちゃんが……ママの子供……?」
「わからないの? 菜沙ちゃん、それがどういうことか、わからないの?」
じれったそうに翠が言った。こんなに興奮する翠を見るのは初めてだ。菜沙はぼんやりとそんなことを考えていたが、次に言った翠の言葉で、ようやく翠がどうして興奮しているのかを理解した。
「もしわたしが菜沙ちゃんのママから産まれたのなら、わたしと菜沙ちゃんは、本当の姉妹だってことなんだよ?」
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