まだ朝早い。ようやく明るくなりかけたばかりの空の下を、そんな花々の香りに紛れて小走りに村から遠ざかると、目の前に小さな森が見えてきた。
村の人たちが“ピューエルの森”と呼ぶその森はまだ薄暗く、木々は深い緑色をして、ざわざわと風にざわめいていた。
今日はいつもより、少しだけ風が強い。
あたしは足を止めずにその森の中を駆け抜けた。
朝の空気が冷たく身にまとわりついて、とても心地よい。
「んん……」
森を抜けたところで立ち止まり、あたしは大きくのびをした。
足下には急斜の崖が遥か下まで続いていて、眼下には人間たちの世界が広がっている。
って言っても、実際に見たわけじゃないけれど、村のおじさんたちからそう教わったから、たぶんそうなのだろう。ここからでは小さすぎてよく見えない。
点々と茶色や緑に彩られた大地をずっと先まで目で辿ると、やがて真っ白な空と交わる。いわゆる地平線がそこにはあって、今は眩しく輝いている。
民話でしか聞いたことのない“海”は、ここからでは見えない。その民話によると、海とは果てしなく大きな大地の穴にたまった、青く輝く水たまりだとか何とか。
もし本当なら、一度その青い色をした水というものを見てみたい気もするんだけれど、残念ながらあたしにはその許可が与えられていない。いや、実際はあたしだけじゃなく、この村の者すべてに。
あたしたちの村の中で、あの眼下の大地に足を踏み入れたことのある人は、今から5年ほど前に掟を破って村から飛び出した少年ただ一人だ。
あたしは崖に腰を下ろして、遥か遠くの地平線に目をやった。
先程まで白くたなびいていた雲が今は赤く染まり、空の輝きが増してくる。
そしてゆっくりと昇ってくる朝日。溢れんばかりに射し込む光。
崖下から風があたしの前髪を吹き上げた。
「朝だぁぁっ!」
あたしは大きな声でそう言って、ばっと立ち上がった。
真っ赤な朝日が、あたしの影を森の方へ長く伸ばす。
何事もないけれど、とても平和な一日の始まり。あたしはかつて見た中で、最も美しいこの光景の中、そんなありふれた、しかし確実な幸せを噛みしめた。
「気っ持ちいい〜!」
直立姿勢から両腕を横に伸ばして、あたしは大きく胸を反らせた。
そのまま空を見上げると、いつの間にか澄んだ青空があたしを見下ろしていた。
「あらあら、エルフィレム。今日も上機嫌ね」
突然背後から話しかけられて慌てて後ろを振り向くと、そこにはあたしと同じくらいの背丈の女の子が、木桶を持って立っていた。
お友達のクリスィアだ。
「ク、クリスィア。ひょっとして、ずっと見てたの?」
一人だと思って結構バカなことをしてしまったから、もしそうだとするとかなり恥ずかしい。
あたしがそんなことを考えながら尋ねると、クリスィアはそんなあたしの心をよく知った上で、にこにこして頷いた。
「ええ。少なくとも『朝だぁぁっ!』って叫んだ時にはいたわよ」
「そ、そう……」
あたしは苦笑いした。
「大きな声で。鳥たちが驚いて、みんな発ってしまったわ」
「あ、あはは……」
あたしが乾いた笑みを浮かべると、クリスィアも可笑しそうに笑った。
「ねえ、クリスィア」
あたしは話を逸らすようにクリスィアの手を取った。
「良かったらこれからあたしの家に来て。今日はお母さんがパンを焼いたの。焼きたてのパンをクリスィアにもご馳走するよ」
「ええ、ありがとう。でも私、これから川に水を汲みに行かなければいけないの。また後で寄らせてもらうわ」
クリスィアは手の木桶を少しだけ持ち上げて微笑んだ。
「うん。じゃあ家で待ってるね」
「ええ」
そうしてあたしはクリスィアと別れて、駆け足気味に村に戻った。
基本的には農業を営んで生活しているこの村の朝は早い。
あたしが村を出たときには、もう起きて働き始めていた人がいたくらいだから、あたしがクリスィアと別れて村に戻ったときにはすでに、村はすっかり目を覚まして活動を開始していた。
「おはよう、バンスロッタのおじさん」
「ああ、おはよう、エルムちゃん」
近所の……って言っても、村中が近所なんだけど、知り合いのおじさんたちに声をかけながら、あたしは自分の家に帰った。
「ただいま〜」
家の中からはパンの焼ける香ばしい匂いがして、あたしのお腹が小さく鳴った。
「あっ、お姉ちゃん、みっともな〜」
にやにやとそう言う弟はとりあえず無視して、あたしはテーブルについた。
テーブルの上には、すでに焼けたパンとマーガリンが置いてあった。
「いっただっきま〜す」
「おい。なんか反応しろよ」
悔しそうに弟が言いながら、あたしの横に座る。
「んぐんぐ。あ〜、おいし」
「お姉ちゃん!」
「うっさいわねぇ!」
あたしは怒鳴った。
「なん……」
「朝食くらい黙って食べれないの!?」
何か言いかけた弟を遮って、さらにたたみかける。
「ケンカがしたいなら後からどんだけでもしてあげるから、ちょっとは静かにしてなさい。せっかく今日は焼きたてのパンが食べられるのよ? 少しは味わおうって気にはならないの?」
「うっ……」
圧勝。
「あっ、そうだ、お母さん」
あたしは横で悔しそうにパンを頬張っている弟を放っておいて、思い出したように言った。
「なぁに?」
調理台でまだおかずを作っているお母さんが、振り返らずにあたしに聞き返す。
「うん。あのね、今日、後からクリスィアが来るから」
「へぇ。クリスィアちゃんが」
「へぇ。クリスィアちゃんが」
弟がお母さんの真似をする。
「あんたはいいの。だから朝ご飯、悪いんだけどクリスィアの分も作ってくれないかなぁ」
「別にいいわよ。それくらい」
「わぁ。ありがとう」
あたしは微笑みながら、パンを口に運んだ。
ところが、どれだけ待ってもクリスィアは姿を現さなかった。
太陽はすでに森よりも高く、空から村に陽を投げかけている。
「クリスィア、どうしたんだろう」
心配になってクリスィアの家に行くと、あたしはそこでクリスィアがまだ戻ってないことを聞かされた。
(クリスィア、まさか森で何かあったんじゃ……)
ピューエルの森は安全なことで有名で、よほどのことがない限り事故などは起こらない。
けれど、あれから家に帰ってない以上、ひょっとするとクリスィアの身にその『よほどのこと』が起きたのかも知れない。
あたしはクリスィアの家から真っ直ぐ村を出て森に走った。
(クリスィア……)
ピューエルの森の深いところに、小川が流れている。その川は何もクリスィアだけが使っているわけではなく、村の生命を支える貴重な水資源だったが、ただクリスィアだけが、他の村の人たちとは違うところで水を汲むのだ。
もちろん、それも朝だけ。つまり、クリスィアもあたし同様、毎朝晴れた日はあの雄大な朝日を見に来るのである。
あたしは両側から木々が覆い被さっている細い小道を走った。
「クリスィアァァァァッ!」
大きな声で呼んでも、あたしの声が森の中にこだまするだけで返事はない。
「クリスィア! クリスィアァァッ!」
そうこうしている内に、あたしは小川までやってきた。
森の中の少し開けたところに、小さな川が美しく澄んだ水を湛えて流れている。
「あっ! あれは……」
あたしはふとその小川の傍らに、見覚えのあるものを見つけて駆け寄った。
それは木製の手桶だった。
「これはクリスィアの……」
地面にかがんでそれを手に取ったその時、突然あたしの周りが影に包まれた。
「えっ?」
雲?
最初はそう思ったけれど、かがんだまま振り向き様に顔を上げて、あたしは恐怖に身を硬直させた。
「あ、ああ……」
声にならない声をあげ、あたしは目を見開いた。
驚くなという方が無理である。あたしの後ろ、そこにいつの間にか男の人が立っていた。しかも1人じゃない。20人くらい。あたしのクリスィアを呼ぶ声を聞いて隠れていたのだ。
ゆっくりと一人の男が近付いてきて、あたしの喉元に刃物の先を当てた。
「ひっ」
あたしは青ざめたまま、その男を観察する。
痩せ気味で背が高い。顔は醜く、あたしの身体をイヤらしい目つきでジロジロと見ている。そして、髪の色が……。
(ま、まさか……人間!?)
その男だけじゃない。周りにいるすべての男の髪が、あたしたちのような深緑色じゃなく、焼けた土のような濃い茶色をしていた。
(どうして、ここに……)
「お前もリナスウェルナの人間だな?」
そうあたしに聞いてきたのは、後ろに控えていた大男だった。
ちなみに、リナスウェルナというのは確かにあたしたちの村の名だけど、あたしたちは人間じゃない。
しかし、そんなことを訂正するような余裕はどこにもなかった。
ゴクリと唾を飲み込んで、小さく一つ頷くのが精一杯。
ゆっくりと男が近付いてきて、いきなりあたしの顎をつかんで顔を近付けてきた。
「い……いやぁ……」
あたしは唇を震わせながら、喉の奥から声を絞り出すようにして呻いたけれど、目の前の大男はまるで動じずに、にやりと品のない笑みを浮かべた。
「顔には恵まれたようだな。可愛い顔つきをしてやがる」
冗談でも礼を言う余裕などない。あたしは相手の目を見ているだけで失神してしまいそうになるのを必死に堪えて、視線を逸らせた。
「この顔なら、さっきの女よりは使い道がある。こいつは連れて帰ってじっくりと教育してやろう」
言ってることはよくわからなかったけど、こいつらがクリスィアに何かしたのは今の言葉から確かだった。
「ク、クリスィアに何をしたの!?」
ようやく大きな声でそう言えたけど、次に男の口から出た言葉にあたしは愕然となった。
「クリスィア? ああ。ここにいた女なら、村の構造とあれの在処を白状させ次第、殺したが」
「えっ……?」
今……なんて?
「殺した? 誰を……?」
あたしが呆然として問うと、男はにたにたとイヤらしい笑みを浮かべたまま、
「クリスィアを、だが」
嫌みったらしくそう繰り返して、いきなりあたしの胸を鷲づかみにした。
「ほう。胸もそこそこ発達しているようだな」
「い……いやあぁぁあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
あたしは泣きながら絶叫した。
けれど、それは声にならなかった。
あたしが口を開いた瞬間、男がすぐにその口を布で塞いだのだ。
布からは何か甘ったるい香りがして、あたしはすぐに頭の中が真っ白になっていくのを感じた。
「よし。こいつは縛っておけ。楽しむのは帰ってからにして、とりあえず今は……」
だんだん男の声が遠ざかっていって……。
……あたしは、気を失った。
真っ黒な闇と真っ白な意識の中で、男たちの喊声がした。
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