もはや逃げられはしない。森は完全に包囲されている。ならばいっそここで団結し、あわよくば一点集中突破を謀った方が良い。
晴れた夜空には数多の星が散りばめられて、光の川を織りなしていた。それを遮る雲一つない。
そんな美しい空を、小屋の小さな見張り台から見上げながら、彼、アルハイトは自虐的な笑みを浮かべた。
「俺もここまでか……」
そんなアルハイトを横目に、彼の隣でやはり同じように夜空を見上げる大男、カザルフォートが溜め息混じりに呟いた。
「若ぇ者が、そんな簡単に諦めんじゃねぇ」
バサッとカラスが一羽、羽音を立てて飛び去った。
アルハイトはうつむき加減に目を閉じて、首を左右に二度振った。
「いいや。さすがに今度ばかりは無理だろう。確かに今までいくらも修羅場を乗り越えてきたが、さすがに今回は相手が悪い……」
「そうさな……」
台の手すりに両肘をつき、カザルフォートが遠い目をした。
「まさか……あれがリーリス王女とはなぁ……」
見上げる夜空に星が二つ、細い流線型を描いて流れ落ちた。
「一度に二つの流れ星……。最大の凶兆だな……」
カザルフォートがそう、非科学的神秘を笑い飛ばしたまさにその時、森の四方八方から一斉に鬨の声が上がった。
オォオオオォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォ……。
大地を揺るがすような低い音のような声。鳥たちが一斉に飛び立ち、空を黒く覆い尽くした。
「さて、行くか……」
二人はゆっくりと見張り台を後にした。
赤は血の赤、炎の紅。鬱蒼たる森に響きし剣戟、怒号、断末魔。木々は燃え、辺りは炎の海と化す。
アルハイトはそんな森の様子を小屋の窓から一瞥し、そのまま地下室へと駆け下りた。敵はまだここに辿り着いていないが、包囲網はじわじわと縮まってきている。この小屋が燃え上がるのももはや時間の問題だ。
小屋の地下には小さな牢が５つほど並んでいた。アルハイトはその内の一つの前で立ち止まり、中を覗き込んだ。
牢の中には２０歳ほどの、長い朱色の髪をした美しい娘が、あられもない姿で幽閉されていた。白く細い足首には木製の枷が付けられており、うっすらと血が滲んでいた。
娘は悲しそうに項垂れていたが、アルハイトの存在を知ると怯えたように彼を見上げ、奥の壁に背をつけて肩を震わせた。
「な、何ですか……？」
娘の美しく澄んだ声は恐怖でかすれていた。もちろん、またアルハイトが自分を犯しに来たと思ったからだ。
ところが、アルハイトは蔑むような、しかしまた、同時にどこか同情するような目で娘を見下ろしただけで、彼女の想像するようなことはしなかった。代わりにゆっくりと口を開いて、小さく呟く。
「リーリス……」
リーリスは、ソリヴァチェフ王国国王ウェインクライトの娘、第一王女の名。今彼の目の前にいるみすぼらしい格好をした娘こそ、今度のすべての元凶たる、リーリス第一王女だった。
「な、何ですか……？」
名を呼ばれ、王女はもう一度そう繰り返す。不安と恐怖は拭い切れない。彼に名を呼ばれるだけで、大きな手の平で体中を貪られるおぞましい感触が蘇って、怖気が走った。
アルハイトはそんなリーリスを見つめ、恐ろしいほど冷静にこう告げた。
「喜べ、リーリス。お前の弟が、俺たちを滅ぼしに森に攻め寄せてきやがった。これで盗賊連合の中核が潰れ、この界隈も平和になるだろうよ」
それは皮肉だった。それが証拠に、リーリスは彼の言葉に顔色を変え、先程の比ではないほど動揺して、牢の中からアルハイトに駆け寄った。
そして、自分を何度も犯した男をすがるように見上げて涙を流した。
「お、お願いします！ 助けて下さい。お願いします！」
アルハイトはただ同情するだけの眼差しで、そんなリーリスを見下ろしていた。
ソリヴァチェフ王国国王ウェインクライトには、三人の子供がいた。一番上が長女リーリス。今年で２１歳になる。
今回森に攻め寄せてきた長男リークレッドは１８歳。権力を武器に、人々に恐れられている野心家で、かなり評判の悪い男だった。
そして、一番下の次女セリスはまだ１５歳で、身体が弱く、寝込みがちな娘だった。
すべては盗賊連合の中核、カザルフォート率いる盗賊団の下っ端が、お忍びで街に出ていた王女をただの市民と間違えて誘拐したことから始まった。
美しい娘を連れ去り、慰み者にした後、観賞用奴隷として闇市場に流す。それは、彼らにとっては常日頃から行っていることだったが、自分たちがさんざん犯した娘が実は王女だったと知ったときは、さしものカザルフォートも顔色を変えた。
「どうする……」
カザルフォートと、彼の片腕であるアルハイトは毎日のように議論を交わしたが、何らかの手を打つには気が付くのが少し遅かった。自分の姉をさらったのが、大盗賊カザルフォートだということがリークレッド王子の耳に入ったのだ。
リークレッドはすぐに兵を集め、彼らの森を攻め立てた。それは決して姉を助けるためではなく、盗賊連合を叩き潰し、同時に盗賊団の仕業にして姉を殺すためだった。
ソリヴァチェフ王国では、男女を問わず、最年長の者が王位に就くことになっている。それ故リークレッドにとって、姉リーリスの存在は邪魔者以外の何者でもなかった。
そして、弟が自分を疎ましがっていることを、リーリスもまた知っていた。だからリーリスは、王女としてのプライドも、女としてのプライドも、すべてをなげうってアルハイトにすがりついたのだ。
「お願いします……お願い……」
泣きながら何度も何度も頭を下げるリーリスを見ていて、アルハイトは表情を歪めた。
カザルフォートに彼女はここに置いていくよう言われていたが、足枷を付けられ、牢に閉じこめられたまま、炎と煙の中で苦しみながら死んでいく彼女を想像すると、アルハイトはいたたまれなくなった。
（どうせ一人で逃げても二人で逃げても殺されるんだ。いざとなればそこで捨てればいいし、助けてやるか……）
アルハイトは何も言わずに牢を開けた。リーリスは一瞬驚いたように彼を見上げたが、彼の気が変わらない内にと、急いで牢から這い出した。
「あ、ありがとう！」
アルハイトは嬉しそうに顔を上げるリーリスの足枷を外してやった。目の前の娘は、牢から出られたことで助かったと思っているのだろう。所詮は世間知らずの王女様だ。
アルハイトは胸中であざ笑ったが、無垢な笑顔で自分を見上げる王女の姿に、悪い気はしなかった。
「ついてこい」
彼女に背中を向けて、アルハイトは階段を駆け上がり小屋を出た。リーリスもまた、裸足のまま慌てて彼の後を追った。
小屋の外にはカザルフォートがアルハイトを待って立っていたが、彼が置いてこいと言ったリーリスを連れて戻ってきたのを見て、声を張り上げた。
「おい、アルハイト。そいつは置いてこいと言ったはずだぞ！」
カザルフォートが細い目で彼女を睨め付けた。リーリスはびくりと肩をすくませて固く目を瞑った。
カザルフォートとも幾度か夜を共にしている。所詮はアルハイト共々、彼女にとっては恐怖の対象でしかなかった。
アルハイトはそんなすっかり怯えているリーリスの髪を撫でてやりながら、先程の自分の考えをカザルフォートに述べ、
「だからまあ、本当に危なくなったら置いて逃げればいいだけのこと。もし三人とも助かったら、きっとこいつが役に立つ時がくるぜ」
最後にそう付け加えた。
カザルフォートは仕方なさそうに溜め息を吐き、諦めたように告げた。
「わかったよ。だがな、これだけは覚えておけ。本当に危険な時は、容赦なく娘を切り捨てろ。俺たちさえ助かれば、盗賊連合は不滅だ。俺とお前さえいればな」
アルハイトはこくりと一つ頷いた。リーリスは不安げに二人を見つめている。すでに自分の生命は自分のものではなくなっていた。
「じゃあ行くぜ。遅れるなよ、王女様」
カザルフォートがそう言って走り出し、続いてアルハイトが王女の手を取ってそれに続いた。
リーリスは自分の生命のすべてを燃やして、彼らに遅れまいと息を切らせた。
カザルフォートとアルハイト。この二人さえいれば、盗賊連合はいつでも復活できる。そう断言するだけあって、実際二人は強かった。
相手もまた、リークレッドの選りすぐりだったが、二人はそれと互角以上に戦い、少しずつだが森から抜けかけていた。
背後から斬りかかってきた男の剣をアルハイトが払いのけると、カザルフォートががら空きになった男の胴に細身のダガーを突き刺した。
刃はずぶりと心臓を貫き、そこから血を迸らせて男は絶命した。
リーリスは、初めは血を見る度に吐き気をもよおしていたが、今では疲れと足の痛みのために、吐いている余裕さえなくなっていた。
靴を履いていない足の裏は血で真っ赤に染まり、ほっそりとした白い足には、木々に傷付けられた赤い線が幾筋も入っていた。
それでも彼女は懸命に駆けた。少しでも遅れれば自分は殺されてしまう。それだけは嫌だ。妹を一人にするわけにはいかない。それに、自分とてまだ死にたくはない。たとえ何があってもだ。
もはや前すら見えていなかった。
「はぁ……はぁ……」
少しずつペースが遅くなっているような気がする。
（頑張らないと……頑張らないと……）
何度もそう自分を励まして、リーリスは駆けた。
不意に、そんなリーリスの頭上に剣が閃いた。
「あっ！」
鈍色に光る刀身は、そのままリーリスの小さな頭を叩き割るべく振り下ろされた。
「くそっ！」
慌ててアルハイトが引き返し、それを受け止める。すぐ横から別の剣が繰り出され、アルハイトの腹部を軽く剔った。
「きゃっ！」
リーリスが両手を口に当てて、小さく悲鳴を上げる。
「ちっ！ あのバカ！」
慌ててカザルフォートが二人の許に駆け戻り、敵を打ちのめす。それから、腹部を押さえて苦しそうに喘いでいるアルハイトを怒鳴りつけた。
「バカ野郎！ いざとなればその女は捨てろと言ったはずだ！ さあ立て。それくらいの怪我、どうってことはないだろう」
「あ、ああ、すまねぇ」
アルハイトはよろよろと立ち上がり、ちらりとリーリスの方を見た。
彼と目が合い、リーリスは力なく頭を下げた。
「さあ、行くぜ」
アルハイトが元気にそう言って見せたが、カザルフォートは険しい顔をしたままその場を動かなかった。
「どうした？ カザルフォートさんよ」
「……囲まれたようだ……」
ぽつりと呟くと、四方の木々から彼らを取り囲むように６人ほどの男が現れて、剣を向けた。
「ようやく追いつめたぞ、大盗賊カザルフォート！」
すべての者が軽装で、右手にショートソード、左手にマンゴーシュを持っている。
「王子の……親衛隊か……」
カザルフォートが唸った。
王子リークレッドの親衛隊は１５人ほどいて、皆王国内では１、２を争う名うてと聞いている。その内の６人が今自分たちの目の前にいる。
（ここまでか……）
さしものカザルフォートも、心の中で諦めたその時、
「リューイスですね。私です。リーリスです！」
突然隣でリーリスが、敵の一人に叫ぶようにそう言った。恐らく敵に知り合いの姿を見出したのだろう。
けれど、無駄なことだ……。カザルフォートは胸中であざ笑った。
そんな彼の心など知る由もなく、リーリスは続けた。
「助けて下さい、リューイス。私をセリスの許に帰して下さい！」
王女の懇願に、リューイスと呼ばれた男は、にやりといやらしい笑みを浮かべ、とぼけたように言った。
「何のことですか？ 王女。あなたは盗賊カザルフォートに殺されたのです」
「！！」
リーリスは驚き、悲しみながら、それでも必死に懇願した。
「私はまだ生きてます！」
「ならばここで死んで下さい」
男たちが一斉に剣を構えて三人に襲いかかった。
「行くぞ、アルハイト」
「ああ、カザルフォートさん！」
二人は決死の覚悟で剣を構えて……。
その時、風が唸った。
グゥン……。
風は三人と親衛隊の間に一瞬見えない壁を作って、彼らを弾き飛ばした。
「な、何だ！？」
驚いて９人が顔を上げると、かくしてそこには、月を背景にして、一人の少女が宙に浮かんでいた。まだ１５、６歳くらいだろうか。深緑色の髪を風になびかせて、冷酷に地面の９人を見下ろしていたが、まだあどけなさの残る顔立ちには迫力のかけらも感じられなかった。
少女はゆっくりと地面に降り立ち、それからカザルフォートの方を見て言った。
「王女って、その娘のこと？」
ちらりとリーリスの方を見る。リーリスは何者であれ、同性である彼女の出現にわずかに期待する眼差しでじっと彼女を見つめていた。
「そうだが、お前は？」
カザルフォートが不信感を露わにしながら、それでも空に浮かんでいた不思議な少女に逆らうことも出来ずに聞き返す。しかし少女はその問いかけには答えず、カザルフォートを見つめたまま尋ねた。
「それじゃあ、大盗賊カザルフォートっていうのは、あなたのこと？」
「あ、ああ」
「そう……」
少女は小さく呟いた。その時、ないがしろにされていた親衛隊の一人が、顔を真っ赤にして怒鳴りつけた。
「おいっ！」
少女が不機嫌そうに振り返る。
「何？」
「貴様何者だ！？ 邪魔をすると容赦……」
そこまで言って、彼は言葉を失った。
ビュッと風を切る音がして、それから彼の頭部がごとりと地面に転がった。
「ひっ！」
思わずリーリスが目を背ける。
彼の身体が血を撒き散らしながら崩れ落ちた。
少女は転がってきた男の頭部を靴の踵で踏み付けて、再びカザルフォートの方を見た。カザルフォートとアルハイトはもはや言葉を失って、呆然と少女を凝視している。
そんな二人を楽しげに見ながら、少女が言った。
「あたしは風使いエルフィレム。もしその王女をあたしにくれて、さらにあなたたちがあたしに協力してくれるなら、とりあえずここから助けてあげた後、あなたたちに素晴らしい世界をプレゼントしてあげようと思うんだけど、どう？」
貧弱な語彙だと、アルハイトは妙に冷静にそんなことを考えていた。
二人……いや、三人に選択の余地はなかった。
カザルフォートがこくりと一つ頷くと同時に、親衛隊リューイスが怒鳴った。
「先程から聞いていれば貴様！ あまりわたしたちを舐めるなよ！」
５人が怒りの言葉を吐きながら、一斉にエルフィレムに刃を振り下ろした。
「死ねっ！」
「くらえっ！」
そんな呪いの言葉が、そのまま彼らの最期の言葉となった。
「……死ね」
すっと右手を上げたエルフィレムの周りに風が渦巻いた。
否、それは風などという代物ではなかった。
強いて言うなら空気の刃。
彼らは皆一瞬のうちに、首、両腕、両脚、五体をバラバラにされて肉塊と化した。返り血と幾つかの肉片が、彼女の真っ赤な衣に飛び散った。
「うっ……」
そのあまりに凄惨な光景に堪え切れず、リーリスがその場に膝を折り、胃の中のものをすべて吐き出した。
血の海に足を踏み入れ、エルフィレムが哄笑した。
「あーっはははははははははははははははっっ！！」
笑い続けるエルフィレムを見ながら、カザルフォートとアルハイトは何も言えずに互いに顔を見合わせた。
自分たちの選択が誤っていたのか否か。目の前の少女が何者なのか。そして、彼女に協力するというのは、一体何をすれば良いのか。彼女の言う、「素晴らしい世界」とは……。
一度にそれだけの謎を解決する術はどこにもなかった。ただ二人は、一つだけ確かなこと、つまり、「自分たちは生きている」というそのことだけを確認し合い、深く頷き合った。
『リーリス第一王女を連れ去ったカザルフォート盗賊団は、昨夜ソリヴァチェフ王国新鋭団の攻撃により壊滅。首領カザルフォートは逃走し、現在行方不明。幽閉されていた王女リーリスは、不幸にも盗賊たちの手にかかり、死亡』
翌朝、リークレッド王子から正式にその報告が市民になされ、その数日後、深い悲しみの中、盛大に彼女の葬儀が執り行われた。
王国歴３０５年、早春のことだった。
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