■ Novels


悲しみの風使いたち

第1部 古の風の民

第2話 『人間』 1

(お風呂に入りたい……)
 ずっとそんな思いを巡らせながら、エルフィレムはよろよろと道なき道を進んでいた。
 あれから丁度1日が過ぎ、キルケスの町から逃げ出してきた彼女は、右も左もわからずに、ただ自分の進む先にリナスウェルナがあることだけを信じて歩いていた。
 昨夜の雨は昼頃には上がり、今は綺麗な夕焼けが遥か西の空に広がっていた。
 エルフィレムはしばらく虚ろな目で歩いていたが、やがてはたと立ち止まり、そんな夕焼けに目を遣った。
 彼女の黒に近い、髪と同じような深緑の瞳が、うっすらと涙で潤んで西日を受けて光を帯びた。
(お風呂に入りたい……)
 へなへなと彼女はしゃがみ込み、そっと足を押さえた。
 彼女の靴を穿いていない足は傷つき、赤く腫れ上がっていた。今は貫頭衣の裾を破いた布を巻き付けてあるが、それさえも血で真っ赤に染まっている。
「どうしてあたしがこんな目に……」
 膝を抱えてエルフィレムはしばらく嗚咽した。もう何度こうして泣いたろうか。喉の奥がきりきりと痛んだ。
 昨夜雨に濡れた布切れ一枚の服が、すえた匂いを発していた。髪も身体も随分汚れている。
「お風呂に入りたい……。何か、食べたい……」
 エルフィレムはお腹を押さえて立ち上がった。
 座っていても仕方がない。どんなに苦しくても、歩かなければ先には進まない。
 彼女は再び歩き始めた。

 そうしてようやくエルフィレムが小さな人間の町に辿り着いたのは、翌日の夕方だった。これで彼女は丸二日間、何も食べていないことになる。
 いよいよ限界を感じて彼女は町に入った。
 コーバリスという名のその町は、緑の中に人が住んでいるような、そんな町だった。もっとも、一見森の中に作ったように見えながら、実はそれは人間がそのように木々を植えたに過ぎないのだが、少なくとも人々は緑と共存していた。
 エルフィレムは町を歩きながら、人々の冷たい視線をそこら中から感じた。
 素足に薄汚れた服、汚い髪と肌。
 偏見かもしれないが、男ならまだしも、こんな格好をした女はそうそういない。しかも彼女はまだ15になったばかりだ。
 そして何より、この町でもやはり皆無な深緑の髪と瞳。皮肉にも彼女は、人々の注目を一身に浴びる要素をすべて備えていた。
(イヤだ……。あたし、見せ物みたい……)
 彼女は泣きたいのを必死に堪えた。
 もう少しの辛抱だ。腹を満たして服を着替えて風呂に入れば、後はもうこんな思いをしなくて済む。
 彼女は何度も何度も心の中で自分にそう言い聞かせながら、胸元から小さな袋を取り出した。
 リュースロットが彼女に渡したものだ。中にはいくらかの金が入っていたが、エルフィレムにはそれらの価値がまったくわからなかった。
(でも多分、パンくらいは買えるよね? ピカピカ光ってるし……)
 空が赤く染まり始めたくらいの時間で、丁度市が立ち並んでいる。
 エルフィレムはとにかくパンを買った。店員からも変な目で見られ、指先が触れるのさえ嫌がられ、挙げ句の果てにパンを買い次第店を追いやられたが、エルフィレムはおいしそうにそのパンを頬張った。
 店員の態度は冷たかったが、焼きたてのパンは温かかった。
 あっという間にパンを食べ終えると、エルフィレムは再び町を歩き始めた。
 腹は満たされたが、容姿にはまるで変化がないので、人々の視線は相変わらずだった。
(お風呂はどうしたら入れるんだろ……。公衆浴場みたいなのがあるのかなぁ)
 エルフィレムはとにかく風呂に入りたいと思ったが、人間にそれを尋ねる勇気はなかった。キルケスであのような目に遭ったばかりで、なるべく人との接触は避けたかった。
 町を歩いている内に衣服類を扱う店を見つけたので、エルフィレムは先に服と靴を買った。風の衣とはまた違う服の感触に、彼女は少しだけ新鮮な気持ちになった。
 そしてその衣服店の主人に、「女の一人旅にはこれくらいは持っておいた方がいい」と、小さな短剣を持つよう勧められ、それも買った。刃物を持つのは初めてだったが、逆に安堵感が強まった。
 そうこうしている内に夜になり、気が付くとエルフィレムは一人で道に取り残されていた。
(今夜も野宿かな……。この世界では旅人はどこで寝るんだろ……)
 道をうろうろと行ったり来たりする内に、彼女は疲れ、木の陰に腰を下ろした。
 大きく息を吐くと、今までの疲れがどっと押し寄せてきて、エルフィレムは目を閉じた。すぐにでも眠れそうだった。
 彼女がそうして暗闇の中でうとうとしていると、
「おやおや。こんな若い娘が天下の往来で野宿かい」
 と、太い男の声がして、エルフィレムは慌てて目を開けた。
 見るとそこには、30半ば程の小太りの男が、優しそうな笑みを浮かべて立っていた。
「あっ、これは……その……」
 エルフィレムは寝顔を見られた恥ずかしさに気が動転してしまった。
 男はそんな彼女の仕草を楽しそうに見ながら、
「泊まる場所に困ってるならうちに来な。ベッドくらいなら貸してやるぜ」
 と、片目を瞑って彼女を誘った。
 エルフィレムは男の親切を断る理由もなく、
「ありがとう」
 と嬉しそうに言って、彼についていった。

 男はカルレスと名乗り、彼女を古い二階建ての家に案内した。
「汚いところだけど入ってくれ」
 エルフィレムは一度頭を下げて家の中に入った。
 家の中は外見よりずっと綺麗で、テーブルや食器類、衣服や農耕用具もきちんと整えられていた。
「カルレスさんは一人で住んでるんですか?」
 エルフィレムが聞くと、カルレスは「ああ」と頷いただけで、それ以上何も言わなかった。
「こっちだ」
 それからカルレスが彼女を招いた部屋は二階の一室で、中には小さなベッドが一つ置いてあった。壁には窓が付いていて、月明かりがほのかに射し込んでいる。
「疲れてるんだろ? 今日はゆっくりと休みな」
「うん。ありがとう」
 エルフィレムは喜んで、数少ない荷物を棚に置いた。
 カルレスは何も言わずに部屋を出ていった。
 彼女は服を着たままベッドに寝転がり、すぐに眠りについた。

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