■ Novels


悲しみの風使いたち

エピローグ

 遥か眼下に広がる森は生き生きとした美しい緑に染まり、以前と変わることなくそこにあった。その向こうに目を遣ると、赤茶けた大地が広がり、やがて空と交わる。
 うっすらと朝の光に照らし出された空は、ところどころに柔らかな雲をたずさえ、静かに大地を見下ろしていた。
 やがて太陽をその身に抱き、夜へ送り届けるために、少しずつその色を変えながら雄大に広がっている。
 この壮大な自然は、矮小な人間たちが殺し合い、その身を血に染めている間にも、変わらずそこにあったのだ。
 時には優しく彼らを抱き、時には冷たく突き放し、自分たちの生きる長い長い年月から見たらほんの一瞬の短い人生を、精一杯生きようとする生き物たちを見守っている。
 涙の向こう側が朱に染まった。
 朝の光に照らされた美しい空。そこに朝陽が溶け込もうと、地平線から背伸びしている。
 幾度も幾度も繰り返された光景。あの日々と変わらない、冷酷なほど何一つ変わらない朝に、私は思わず涙をこぼした。
「ほら、朝よ、エルフィレム……」
 ピューエルの森を抜けたところにある、私とエルフィレムだけの聖域。そこに立てられた一本の木片が、背後に長く影を伸ばした。
 エルフィレムの墓標。彼女の一番好きだった場所に、たった今私が立てた。
 爽快な朝に似つかわしくないくぐもった風が、足元から吹き上げた。
 何年か前、このリナスウェルナの地が滅ぼされてからずっと淀んでいる風。もしも私たち風使いがいなくなり、“大いなる風の力”を維持できなくなれば、いつかこの世界の空気は汚れ、この世は人の住む地ではなくなるだろう。
 いや、もしくは風が淀むのに合わせて、人間もまた、その風に順応できるようになっているかも知れない。
 未来はわからない。
「恋人がいたんだ……」
 不意に、私の後ろに立っていた風使いの青年が口を開いた。
 私はそちらを振り返らずに、じっと朝陽を見つめたまま小さく頷いて先を促す。
 まるで風に溶け込ませるように、静かにゆっくりと彼は続けた。
「シャナリンという名の娘で、人間界で路頭に迷っていた俺を助けてくれた子だった。俺は彼女と、ささやかだったが幸せな生活を送っていた」
「それを……この子が滅ぼした?」
 決して責めるようにではなく、彼が話しやすいようにそう聞いた。彼が頷いたのが気配でわかった。
「俺はエルムを恨んだ。まさかフォーネスの館から救い出した少女に、自分の恋人を殺されるとは思わなかった」
「だから、殺したの?」
「……ああ」
 後悔している声ではなかった。もちろん、後悔なんてして欲しくなかった。彼が後悔していなかったから、私はこんなにも冷静でいられるのかも知れない。
 あるいは、私が感情を失くしてしまっただけかも知れない。
 私は一度エルフィレムのお墓に目を落とした。ここには墓標しかないけれど、確かにここに彼女がいる気がした。
 私がここから見る光景には、いつも彼女が立っていたから。
「あの日、お前と再会した夜、俺は悩んだ。お前の言葉を聞いて、もしかしたら俺のしようとしていることはとても虚しいことなんじゃないかって……。俺もエルフィレムと同じことをしようとしてるんじゃないかってな……」
「それでも、やっぱり許せなかった?」
「ああ……」
 自責の念。ただそれだけが彼にはあった。
「許そうと思っていた。事実を話して、エルムが俺に謝ってくれたらそれで終わりにしようとな。だけど、あまりにも嬉しそうに笑っているエルムを見たら、どうしてもやるせなくなって……。シャナリンが死んだっていうのに……彼女を殺したっていうのに……」
 悔しそうに彼は呻いた。
 けれど、そこにはもう、エルフィレムに対する恨みはないようだった。ただひたすらやり場のない怒りを、自分の中に押し込めようとしている。
 強い人だと、私は思った。
 エルフィレムにはそれができなかった。だから彼女は、その怒りを世界中の人間全部にぶつけた。それが憎しみを広げ、結果的に自分の生命を失うことになった。
「お前は……エルムを殺した俺を恨んでないのか?」
 まるで恨んで欲しいと言わんばかりの口調だった。きっと、恨まれた方が楽だったのだと思う。
 けれど、私は残酷だった。
「恨んでないわ」
 はっきりとそう告げた。
「人間を恨んだエルムがフォーネスを殺し、恋人を殺されたあなたがエルムを殺し、そして友人を失った私があなたを恨む。私はあなたを殺して、そしていつか誰かに殺される」
 身体ごと向き直り、私は彼の目を見つめた。
「まっぴらよ、そんなこと。私はあなたを恨みたくないし、実際にそういう想いもないわ。それはエルムを愛してなかったからじゃないし、殺されて悲しくないからでもない」
 一度言葉を切ったのは、胸が詰まる思いがしたから。悲しみがまた涙になって、胸の奥から外に出たがっている。
 私はこれ以上悲しみを広げないために、彼から視線を逸らせて目を伏せた。
「もしあなたが殺していなくても、この子はいつか誰かに殺されていた。この子はそれだけのことをしてしまった。だから私は、この結末を恨んでいない。最期に笑ってたから……。私の旅は、多くの罪を犯してしまったこの子に、最期に笑ってもらうためだったんだって……今、そう思ってる」
「そうか……」
 すべてを納得してくれたように、彼は頷いた。そしてゆっくりと歩き、私の横を通りすぎると、エルフィレムのお墓の前に立った。
 彼はそこで手を合わせて、深く目を閉じた。
 自分で殺した少女に対してではなく、きっと、風使い少女に対して、仲間として。
 私は彼のその行動を好意的に受け止めて、彼の横でそれに倣った。
 まぶたを閉じていてもわかるほどの強い日差しが大地を照らし出していた。
 一つの時代が終わり、新しい幕開けを祝福するように、太陽が眩しく大地を照らす。
「これからどうするんだ?」
 いつの間にか、彼が目を開けて私の横顔を見つめていた。憑き物が取れたような、晴れた表情をしている。
 私は穏やかな気持ちで微笑んだ。
「もちろん、生きていくわよ」
 何故エルフィレムが自殺しなかったのか、私は少しだけ考えたことがある。
 それはもちろん、彼女に自分の生命を断つ勇気がなかったこともあるけれど、きっと彼女は彼女なりに、絶望の淵で希望の光を探していたのだと思う。
 それがセリスという少女だった。人間を恨みながら、その一方で人間を愛そうとしていた。
 元々生命の輝きの強い子だった。
 だから私も生きていく。
 どんな絶望的な状況に立ったとしても、あの子が決してあきらめなかったように、私も希望を追い続けたい。
 私は空に風を撒いた。
 淀んだ空気を吹き散らし、胸の奥に安らぎをもたらす清らかな風。
「私は風使いの生き残りとして、世界のためにこの能力を伝えたい。人の世界で誰かを愛し、子を授かって、その子に風の尊さを教えたい」
 森から鳥たちが新鮮な空気を求めるように集まってきた。ここにも生きようとしている者たちがいる。
 風は生命を司るもの。私たちはその風を支配する、誇り高き風使い。
 いつか彼に言った言葉を、私はもう一度胸を張って言った。
「私は、ずっと風使いでありたい」
 呆れたように彼は苦笑した。そして、幼い頃人間界への憧れを語ったあの眩しい瞳で私を見る。
「クリスを見ていると、自分の考えていたことがバカバカしく思えてくるよ」
 彼が何を考えていたのか。それはわからなかったけれど、恐らくひどく自虐的な、ろくでもないことだったのだろう。
 恋人を失い、その恨みを晴らした彼は、フォーネスを殺した後のエルフィレムと同じだった。ここに来るまでの間、ずっと虚無感に包まれたような目をしていたのもそのためだ。
 けれど、考え直してくれたのなら過去はもういい。彼が明るい未来を思い描いてくれたなら。
 エルフィレムを殺したからといって、もうこれ以上誰も不幸になることはない。彼が幸せになることを、あの子の一番の友達だった私が赦す。
「前に、自分の目的のためには味方だってだますのが人間だと言って、俺はアレイやお前をだましてエルフィレムを殺した。すっかり人間に毒されちまったけど、もしまだ風使いとして生きていいなら、俺もお前と同じ希望を見てみたい」
 彼が同じように風を撒くと、鳥たちが嬉しそうに羽ばたいた。
 白い羽がふわりと空に舞い上がる。
 私は笑って手を差し出した。
「もちろんよ」
 ギュッと手を握り返して彼は頷いた。
「それじゃ、戻るか。またあの世界に」
「ええ」
 私は元気に返事をしてから、一度エルフィレムのお墓を振り返った。
「じゃあ、行ってくるね。私はあなたの分まで生きて、きっと幸せになるから。そしていつかそこに行くから、約束通り待っててね」
 もう振り向かなかった。見るのは未来だけでいい。
「行こう、リュースロット」
 眩しいほど輝く空を背景にして、私は力強く歩き始めた。
 風使いの誇りを胸に。
 人間たちの住む場所へ。
 そこにある、明るい希望を求めて。
Fin
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