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悲しみの風使いたち

第3部 混沌の風の姫

第5話 『勇者』 1

 前王リークレッドが死んでから三度目の春が訪れた。草木は緑に色づき、穏やかな陽気が大陸を包み込んでいる。青い空はどこまでも澄んで広がり、大地に生命が戻った。
 しかしその生命は、冬のそれと比べると確かに明るく輝いたものだったが、年々確実に弱くかすんだものになっていた。
 風が淀んでいた。
 時には轟々と泣き叫ぶように吹き下ろし、時にはまるで死んでしまったかのようになりをひそめる風。
 もしも誰か正常な人間がいれば、恐らく気付いたことだろう。
 風が病んでいることに。そして、自然が泣いていることに。
 けれど今この世界に、それに気が付けるような正常な人間は、誰一人として存在しなかった。
 人々はもっと明確な恐怖の中にあったのだ。
 リークレッドが死に、第一王女リーリスが国を治めるようになってから、街に盗賊が横行するようになった。彼らは平気で略奪を行い、女を犯し、人を殺した。
 国家はそれを黙認するどころかむしろ奨励し、反抗する者はすべて処刑された。
 それだけではない。
 リーリスはカザルフォート以下、盗賊連合を率いて次々と隣国を滅ぼし、あるいはその支配下に治めていった。そして、それらの国にも混沌を植え付け、世界全体を恐怖に陥れた。
 当然、国家規模での謀反や反乱、戦争は頻繁に起きたが、それもことごとく鎮圧された。強大な力を持った盗賊連合と、不思議な風を操る少女によって。
 今や大陸に、ソリヴァチェフ王国に逆らう力を持った者は誰もなかった。そして人々は、ある者は恐怖の中で細々とした暮らしを続け、ある者は欲望のままに盗賊になった。
 放火、強奪、殺人……。
 狂気が大陸を包み込んだ。
 果てなき苦渋の中で人々は気付き始めていた。
 世界を壊したのはリーリスではなく、そのリーリスをも壊した者の存在に。
 大盗賊カザルフォートさえも傘下に治めた一人の少女の存在に。
 彼らは姿さえ見たことのないその少女のことを、畏怖と軽蔑を込めてこう呼んだ。
 『混沌の風の姫』と……。
 大陸は血の涙を流していた。

 春の香りと死臭の漂うソリヴァチェフの王宮に、嬌声が響き渡っていた。王宮の中央、王の間の赤い絨毯の上で、一人の女性が数人の若い盗賊たちに手込めにされていた。
 いや、手込めではなく、女性も同意の上だろう。彼女は恍惚とした表情で、口元から涎を流し、悦に浸ったように喘ぎ声を洩らしていた。
 齢24にして、未だにその美しさにも肉体にも衰えを見せない彼女は、ソリヴァチェフの王女、リーリスその人だった。
「はぁ……あ、ああっ!」
 もう何年もこんな光景が続いている。すでに子供を産めない身体にされたリーリスは、毎日のようにこうして盗賊たちの相手をさせられていた。
 初めは死ぬほどに嫌がっていた彼女も、与え続けられた薬によって、今では自分から求めるまでになっていた。そして、仕事がないときはこうして盗賊たちの前で裸になって腰を振っていた。
 そんな変わり果てた王女の姿と、血走った目で犯し続ける盗賊たちを、エルフィレムは王座からぼんやりと眺めていた。深緑色の髪は背中まで伸び、すっかり大人びた顔身体をしている。
 しかし、その瞳には生気がまるで感じられなかった。もっとも、血色はよかったし、体つきも並みの女性より美しく整っていたのであまりそれを感じさせなかったが、もしも昔の彼女を知る者があれば、恐らく別人に写ったろう。
「あ、あっ! ああぁぁぁっ!」
 やがて、リーリスが大声を上げて床の上にぐったりと崩れ落ちるのを見届けて、エルフィレムは腰を上げた。
「お部屋に戻られますか?」
 近くにいた中年の男が問いかける。アルハイトの手下らしいが、彼女は彼の名前を知らなかった。
 小さく頷くと、彼女はやはり無表情のまま王の間を出た。そしてそのまま一直線に向かった先は、ソリヴァチェフの第二王女、セリスの部屋だった。
「セリス、入るね」
 声をかけて、彼女はドアを押し開けた。
 部屋の中にはリーリスと同じ朱色の髪をした少女が、ベッドに腰かけて本を読んでいた。そしてエルフィレムを見て笑顔を見せる。
「本を読んでたんだ、セリス」
 エルフィレムはそっとセリスの隣に腰かけた。セリスは無言で頷いて本を閉じた。
 彼女は喋ることができなかった。元々身体が弱かった上に、大好きな姉の死の報告を受けた際に、そのショックで喋れなくなってしまったのである。
 それは、姉が戻ってからも変わらなかった。
 エルフィレムは何も言わずに横になると、セリスの太股の上に頭を乗せた。そして長く息を吐く。
「ちょっと、疲れちゃった。休んでていい?」
 エルフィレムが目を閉じて問いかけると、セリスは大きく頷いて、優しく彼女の髪を撫でた。
 セリスはエルフィレムのことが好きだった。
 三年前、リーリスの葬儀が執り行われリークレッドに幽閉されたあと、ただ一人遊びに来てくれた少女。もっとも、リークレッドの死後もセリスの幽閉は解けなかったけれど、それでも彼女は、エルフィレムが遊びに来てくれればそれだけで満足だった。
 彼女は世界のことを知らなかった。
 この世の中で最も純粋にして、最もエルフィレムを愛する少女。そして同時に、エルフィレムが素顔を見せる唯一の相手。
 二人は惹かれ合っていた。
 やがてエルフィレムが子供のような顔で小さな寝息を立て始めると、セリスはくすっと笑った。彼女がこんな顔をするのはセリスの前だけだったのだが、もちろんセリスはそんなことは知らない。
 指で梳かすように長い緑の髪を撫でていると、不意に扉がノックされた。
 セリスはその音にビクッと肩を震わせた。エルフィレム以外の者がこの部屋に来るのは食事の時だけだったが、今はまだその時ではない。自分に会いに来たのだろうか。しかしそれはエルフィレムが禁止しているはず。
 セリスが不安がっていると、扉の向こうから声がした。
「エルフィレムさん。こちらですか?」
 セリスはほっと胸をなで下ろした。そして自分の足の上で眠っている彼女を起こす。
 エルフィレムは寝ぼけ眼でセリスに笑いかけてから、「また来るね」と早口に言って部屋を出た。廊下に立っていたのは先程の男だった。
「どうしたの?」
 できるだけ男をセリスの部屋から遠ざけるように、歩きながら彼女が聞くと、男は神妙な面持ちでこう言った。
「実は、少し良くない噂を耳にしまして」
「良くない噂?」
「はい……」
 彼女の耳元に口を寄せて、男がぼそぼそと囁いた。
 同時に、みるみるその表情を険しく歪めていくエルフィレム。
 そして男の話が終わるや否や、彼女は鋭い目で男に言った。
「王の間にカザルフォートを呼んで。すぐにね!」
「はっ!」
 半ば冗談めかして敬礼して、男が走っていった。
 その後を追うように、ゆっくりと彼女も王の間へと歩き始めた。

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