振り返ると、連れの少女が茶褐色の美しい瞳を輝かせて俺を見上げていた。これは喜んでいるときの顔だ。
「私、ずっと同じ街にいるの、いけないと思う。やっぱり、旅っていいよね」
妙にたどたどしい喋り方でミランが声を弾ませた。
少女と言ってもミランはもう17だ。使い古された武道着から覗かせる四肢は日に焼け、まるで少年のようだが、適度に膨らんだ胸と引き締まったウエストはすっかり大人のそれである。
年の割に言動が幼いが、決して頭が弱いわけではない。それどころか、五街道都市エルザーグラのミランと言えば、習得が極めて難しいとされる黒魔法の学院を最年少、しかも首席で卒業した天才である。
確かに頭の回転は速いし、時に俺では考えもつかないことをいともあっさりと提案してくるので、彼女の才能は本物だろう。
にも関わらず、日頃の言動はあたかも基礎教育を受け始めたばかりの子供のように幼いのだ。
自然にそうなるのか、それとも何か狙いがあってわざとやっているのか、一介の凡人には考えも及ばない。
半分呆れながら見つめていると、彼女はやにわに瞳を曇らせて俯いた。
「エリアスはここに来るの、初めてじゃないから、つまんないんだ」
今度はいじけ出した。靴の先で地面に意味不明な模様を描いている。何かはわからないが、なかなか達者だ。
俺は溜め息をついて拗ねる少女の頭をぽんぽんと叩いた。
「いや、俺も楽しいぞ?」
これほど白々しい言葉もないと思ったが、実際に楽しくないわけではない。
自由都市マゼレミン市街の昼下がり。周囲は活気と喧騒に満ち溢れている。
いくつもの街道の交わるエルザーグラも、朝から晩まで祭りのような賑わいだったが、より海に近いこの街もまた独特の活気に包まれている。海から渡ってくる珍しい品物が最初に届けられるのが、この街なのだ。
エルザーグラにいたときは、生活のほとんどを誰もいない森の中で過ごしていたので、久々に触れる街の喧騒は胸に心地よかった。
大通りの両脇に立ち並ぶ市。赤を貴重とした坂のある町並み。行き交う住民と旅人。
俺は周囲をゆっくり一度見回してから、ミランの方に視線を戻した。
すると、先程まで機嫌が悪かったのにいつの間に直ったのか、少女は笑顔で立っていた。そして爪先でコツコツと地面をつつく。何やら得意げな表情だ。
なんだろうと思って地面を見ると、先ほど描いていた意味不明な模様が、複雑な絵柄になっていた。
「これは魔法陣か?」
何か意味があるのだろうと思って尋ねると、ミランは首を振って笑った。
「エルハール国の紋章」
「…………」
俺はもう一度地面を見下ろした。
言われてみればそう見えなくもないが、王国の紋章は複雑で、本来靴の先などで描けるようなものではない。
本当に合っているのかどうかはわからないが、こういうものをスラスラと描いてしまうのはやはりすごい。
もっとも、拗ねながら靴の先で紋章を描き始める精神構造はまるで理解できないが。
「こんなもの、よく覚えてるな。すごいもんだ」
半分疑いつつもそう誉めてやると、ミランは嬉しそうに微笑んで俺の手を引っ張った。
「街を見て回ろ」
まるで子守りだ。
それから俺たちはブラブラと街を見て回りながら、マゼレミンの探検家ギルドに向かった。
探検家ギルドとは探検を生業にしている人間の組み合いのことで、これに所属している者は街を訪れた際、顔を出していくのが通例となっている。
探検家とは各地に点在する遺跡の探索が主な仕事だが、街で起きている厄介事を解決することもある。そういう仕事の情報はすべてギルドに寄せられるのだ。
俺は観光ガイドよろしくミランに色々と説明しながら歩いていた。
「あそこに見える建物は、300年前の有名な白魔法師フラウレンが建てたもので、この街一番の白魔法協会だ」
得意げに俺が言うと、ミランはその建物の方を見ながら無感情な声で言った。
「フラウレンは子供の命を助けるために、白魔法を使いすぎて死んじゃったんだって。赤の他人のために犠牲になる気持ちは私にはわからないけど、そういう人間だったから聖人だって崇められたんでしょうね」
ごく普通の話し方だった。内容よりもそっちの方が気になったが、彼女の横顔を見ていたら突っ込む気力が失せた。とても真剣だったから。
「まあ、俺たち……俺のような凡人には関係ない話だな」
ミランは凡人ではない。慌てて言い直したのだが、それがとても気に障ったらしく、ミランはふてくされて俺を睨め上げた。
「非凡なのはフラウレンみたいな人のことで、私なんてどこにでもいるごく普通の人間よ」
ムキになってそう言ったミランに、俺はすぐに謝った。
俺に言わせてみればミランは非凡だ。17にして恐るべき魔力を秘めているし、ものの覚えは早い。それに体術も独学で学び始めてまだ1年足らずだが、すでに街道の追いはぎくらいはあっさりと倒してみせる。
けれど、どれだけ頭脳明晰で運動神経が抜群でも、ものの考え方や性格はどこにでもいる女の子のそれである。
だから彼女にとって非凡とは、他人を救うために自らの生命をなげうったフラウレンのような人間を指し、単に才能があるだけの自分は凡人だと言うのだ。フラウレンは、白魔法師としての能力は高くなかったという。
俺はその考えに納得してなかったが、彼女がそういう価値観を望んでいることを知っていたから、逆らわずにそれに合わせていた。
ミランが凡人だろうと非凡だろうと、俺にはどうでもいい話だった。
俺がすぐに謝ったからか、ミランはむすっとしていた顔を元に戻して前を向いた。俺もほっと息を吐いて、同じように前方を見る。
すると、少し前から一人の少年が歩いてくるのが見えた。歳は12、3だろうか。背は俺の胸くらい。紺色の髪はボサボサだが、なかなか凛々しい顔立ちをしている。
何気なく歩いているように見えるが、俺はすぐに彼がスリだと気が付いた。目の配り方や身のこなしが普通の子供ではない。
彼は本当に一瞬だが、ミランの方を見た。正確にはミランの腰というべきだろうか。貨幣で膨らんだ袋が下げられている。
外から見たら金貨か銀貨かわからないだろうが、あちらさんには幸いなことに、入っているのは金貨だった。エルザーグラでこれでもかというほど儲けた後なので、俺もミランもかなりの大金を所持している。
「ミラン、あの子供に気を付けろよ」
俺が小声でそう言うと、ミランは何食わぬ顔をしたまま頷いた。さすがは聡明な少女だ。俺より先に気付いていたらしい。
だったらひょっとして俺が気付いてないかも知れないから教えろよと思うのだが、口喧嘩をするには少年との距離が近付き過ぎていた。
接触まで約5歩。その時、少年はまさかの行動に出た。ミランの前を歩いていた長身で恰幅の良い中年のおっさんを、足払いをかけて後ろ向きに転ばせたのだ。
「きゃっ!」
さしものミランもその攻撃は躱し切れず、おっさんともつれ合うようにして転んだ。
「だ、大丈夫!?」
少年が素早くミランに駆け寄る。まだ声変わりする前の高い声だ。
俺は彼をミランに近付けないように、しゃがみこんだ少年を蹴る勢いで間に割って入った。
「うわぁ!」
少年が大袈裟に驚いて飛び退いてみせる。と、同時に彼は走り始めていた。
まさかと思ってミランを見ると、すでに立ち上がっていたミランの腰に先程まであった袋がなくなっていた。もちろん、金を一箇所に所持するほど愚かではないが、一つの袋だけでもかなりの額になる。
「ミラン!」
俺が言うより先に、ミランは動いていた。
少年が走り始めてからすぐ、瞬く間に彼女は少年に駆け寄り、強烈な蹴りを放った。
大人気ない。俺はあれをまともに食らって悶絶する少年の姿を思い浮かべたが、少年はなんと後ろに目でもついているかのようにそれをしゃがんで躱したのだ。
「な、何するんだよ!」
大きな声で少年が叫ぶ。その顔は泣きそうなものになっていた。
ミランは自分の蹴りがあっさり避けられたことに呆然となっていたが、すぐに気を取り戻して言った。
「お金を返しなさい」
一気に間合いを詰めて拳を繰り出す。グーだ。当たったら顔の形が変わるだろう。
俺はさすがに少年が可哀想に思えたが、彼は大袈裟に叫びながらそれを躱した。機敏な動きだ。
「や、やめてくれよ! だ、誰か助けて!」
道行く人々が少年を見てから、怒った目でミランを睨みつける。少女は思わずたじろいだが、すぐに自らの信念を貫くべく少年に飛びかかった。
「お金を取ってないって言うなら、そこで大人しくしなさい!」
そう言われて、少年は不機嫌そのものの顔で仁王立ちになった。そして、勢い良く飛びかかったミランのほんの一瞬の隙をついて足を払ったのだ。
「きゃっ!」
ミランは思わず転びそうになったところを、身体をねじって持ち応えた。関節の柔らかい者でないとできない動きだ。
けれど、それ以上に少年の動きは鋭い。確かにミランは荒削りだが、それでも人並み以上である。そのミランの攻撃をいともあっさり躱し続けているのだ。
少年は睨みつけるミランを真っ向から見据えて、胸を張って言った。
「僕がお金を盗ったって? 変な言いかがりはやめてくれよ」
周りの人間が何事かと二人の方を見る。「女子供」と一括りにされる二人の喧嘩だが、どちらかというと「子供」を弁護する数の方が多いようだ。
ミランは苦々しい顔をしながら、少年に近付き、彼の身体を調べた。少なくとも彼は袋の類は持ってなかったし、身体のどこにも、ミランの金を入れているような膨らみはなかった。
ミランは彼の懐にも手を忍ばせたが、どうやら金は見つからなかったらしく、少しずつ顔を険しくゆがめ始めた。
逆に少年の方は勝ち誇ったような顔になり、怒ったような声をミランに叩きつけた。
「お姉ちゃん、子供に言いがかりつけなきゃいけないほど金がないのか? それに暴力まで振るって。これ以上するなら、僕にも考えがあるよ?」
そう言って、少年はミランの手を払い除けて強い瞳で睨め上げた。周囲からミランに対する批難の声が飛ぶ。
少女はどうしてよいのかわからず、肩を震わせて悔しそうに少年を見下ろしていた。そしてじわりと滲んだ涙が零れ落ちて、それを袖で拭う。
俺はそっとミランのところまで歩くと、軽くその肩を叩いて少年に謝った。
「連れが失礼なことをした。すまん」
ミランが驚いた目で俺を見た。
「エリアスまで私を疑うの!?」
悲痛な叫びを洩らしたミランに、俺は叱るような強い口調で言った。
「お前の勘違いだ。この子は何も持ってないじゃないか!」
もちろん、嘘だ。少年はミランの金を盗み、何らかの方法でそれを隠した。ひょっとしたら仲間がいて、気付かない内にそいつに渡したのかも知れない。
けれど、なんにしろ証拠がない。この場を丸く収めるには謝る以外に手はないことを俺は知っていた。
もっとも、少女はそうではなかったらしい。
「ひどい! 絶対にこの子がお金、盗ったんだもん! エリアスのバカ!」
俺の考えなどまったく理解してもらえなかったらしく、あふれる涙を拭いもせずにそう吐き捨てて、群集を割って走って行ってしまった。
俺はしばらくの間その背中を見つめていたが、もう一度「すまない」と謝ってから、周りに見えるように少年に銀貨を握らせた。
「金で解決させて悪いが、これで手を打ってくれ」
少年は、自分が金を盗った張本人であると俺が気付いてないと思ったのか、素直に頷いて頭を下げた。
「うん。僕の方も熱くなってごめんなさい。さっきのお姉ちゃんに謝っておいてください」
賢い子供だと思った。この状況にあって、たとえ芝居だとしても相手を気遣う言葉をかけられるのは並みじゃない。
俺は大きく一度頷き返すと、ミランの駆けていった方へ走り始めた。
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