つい先日までいたエルザーグラには、元々あまり長居する予定ではなかったのに、気が付くと半年以上もいた。
今回も何があるかはわからないので、値段と雰囲気が適度に良いところを選ぶ。
俺としては後者はどちらでも良いのだが、ミランはやはり女の子らしく、不清潔な宿は嫌がった。
3軒ほど回ってようやく決定したその宿は、無機質な赤レンガ造りだが、内装には木がふんだんに使われ、人工と自然がほどよく調和した感じの良い部屋だった。
いつもならばはしゃぐミランだが、さすがに今日はそういう気分ではなかったらしく、何も言わずに服を脱ぎ捨てるとさっさとベッドに潜り込んでしまった。
先程の大通りでの一件が相当応えているらしい。一応俺の誤解は解いたのだが、それでもすべてが解決したわけじゃない。
「私、あんな悔しい思いをしたの、初めて……」
抱きしめた枕に顔を押し当てているのか、ミランがベッドの中からくぐもった声を洩らした。
彼女は良い家の育ちだ。詳しい過去は聞かされていないが、幼くしてその才能を開花させられるだけの環境を与えられたのだから、家はなかなかの金持ちだろう。
どれだけ魔力が強くても、学院に入ることができなければ魔法を使えるようにはならない。学院で学ぶにはそれなりの金が必要なのだ。
それに出会ったとき、少女はかなり高価な魔法師のローブを着けていた。体術を学び始めたと同時に売り払ったので、価値は確かだ。
その少女が、あんな大通りで一般の人間から敵意の眼差しを向けられたのだ。罵声も浴びせられたし、逆に憐れみも受けた。それも無実の罪で。
自分よりもずっと小さな子供に体術がまったく通用しなかったことにも、少なからずショックを受けているだろう。
ミランはさらに何か言いかけたが、言葉にならなかったらしく、ただ嗚咽を洩らして肩を震わせた。
俺と出会ってからも成功ばかりしてきた娘だ。ひょっとしたら彼女の人生で初めての挫折かも知れない。もちろん、この程度の挫折でいちいちへこたれていては探検家は勤まらないが。
「ミラン。相手の方がやり手だっただけだ」
俺は彼女のベッドの端に腰かけると、少女の髪を後ろで結んでいる紐をほどいて、そっとその髪を撫でてやった。
少女は納得いかないらしく、震える声に怒気を孕んで吐き捨てた。
「あんな子供に……。エリアスも恥ずかしくないの?」
そう言って、少女は初めて俺の方を見た。睨むようなその瞳は、ずっと泣いていたせいか真っ赤に腫れ上がっていた。
恥ずかしくないかと言われたら答えは難しいが、悔しいかと聞かれたらそうでもない。
もちろん、いくら金を盗まれたのはミランだと言っても、実質は俺たちパーティーが盗まれたに等しい。しかも少年がスリだと気が付いていながら、金を取り返すことができなかったのだ。
本来であれば悔しくてもおかしくないのだが、俺はあまりにも鮮やかな少年の技術に関心さえしていた。あそこまで見事にやられると、怒りも湧いてこない。
ミランとて、悔しいのは公衆の面前で恥をかいたことであって、その発端が少年なのでそれを怒っているのだろう。盗まれた額はかなりのものだが、金に頓着しているようには見えない。
「あの年であれだけの技術力を持っているなんて、相当幼い頃からスリをしてきたとしか思えない。そうしないと生きていけないような貧しい家の子なんだろう」
「そんなの関係ないじゃない。じゃあエリアスは、貧しい子を見たらいちいちお金を渡して歩くの?」
「そういうことを言ってるんじゃない。ただ、お前よりもずっと大変な人生を歩んできてるんだと言いたいんだ。自分より年下だからって、人生経験まで下とは限らない。だから、恥ずかしがることはない」
「…………」
ミランは納得したのか、それとも反論するのをやめただけか、再び俺と反対の方向に身体を向けて押し黙った。
たぶん、理屈ではわかっていても感情がついてこないのだろう。
「私、早くこの街を出たい……。もう来たくない……」
俺は深く溜め息をついた。これがつい先程まではしゃいでいた少女だろうか。
もっとも、あれだけ目立ったことをしてしまったのだ。仕方ないだろう。
「気持ちはわかるが、やられっ放しってのも癪だ。それに盗られた金は大きいし、取り返すまではこの街にいるぞ?」
もちろん、何の行動もせずに取り返せるはずがないので、それはつまり取り返すために動くという意味である。
「あれだけの大金だ。使いたくたって一気に使えるものじゃない。多少減っていたとしてもほとんどそのまま取り返せるだろう」
俺がそう言うと、かすかに布団の擦れる音がした。頷いたのだろう。
どんな顔をしているのかはわからないが、あまり怒った顔をしていないと嬉しい。復讐はものすごい力を生むが、その力が物事を良い方に導くことはほとんどない。
とりあえず今日はミランを休ませようと思ってベッドから立ち上がると、不意にコンコンとドアがノックされた。
店の主人だろうかと思ってドアまで行き、確認すると、向こうからしたのは若い男の声だった。主人のものではない。
「リッジェルトと言います。大通りでの一件を見てました。探検家の方と見て、お願いしたいことがあります」
俺がちらりと室内に目を遣ると、ミランも何事だろうと半身を起こしていた。肌着一枚と言うあられもない格好だ。
俺は先程彼女が脱ぎ捨てた服を指差して、それを着るよう促した。
そして、ミランが服を着終わるのを確認して、ゆっくりとドアを開ける。
そこに立っていたのは黒髪の青年だった。歳はミランと同じくらいだろうか。
なかなか利口そうな顔立ちをしており、眉は太く、瞳には強い意志がうかがえる。背は俺より少し低いくらいだが、年齢を考えればまだこれから伸びても不思議ではない。
腰に長剣を佩いているが、腕はほっそりとしている。ちらりと手の平を見てみたが、剣を持つ者とは思えないほど綺麗な手をしていた。
俺はとりあえず相手に敵意を感じなかったので中に通すことにした。先に彼を入れ、ドアを閉めながら問いかける。
「昼の一件を見ていたなら、俺たちを間抜けな探検家と思うはずだが。依頼するにしても、もっとましな探検家がギルドにうじゃうじゃいるだろうよ」
別に自虐癖があるわけではなく、冷静に考えた上でのことだった。それに、普通民間人からの依頼はギルドに対して行われるのに、直接俺たちを選んだ理由も知りたかった。
ミランが入れた紅茶を少しだけ飲んでから、リッジェルトは温和な笑みを浮かべて答えた。
「理由は簡単です。あまりにも簡単だから、きっとあなたは聞いてびっくりしてから、なるほどと思うと思います」
なんだか変な男だ。
俺は無言で彼の向かいの椅子に座った。四角のテーブルだったが、ミランが俺に近い方に腰かけて彼を見る。
リッジェルトは恥ずかしそうに頭を掻きながら言った。
「僕もあの少年に盗まれたんですよ」
「ああ、なるほど」
俺が思わずそう口走りながら頷くと、隣でミランがくすっと笑った。俺がリッジェルトの言った通りの言葉を吐いたのが面白かったのだろう。
少しムッとなったが、まあようやくミランが笑ってくれたのでよしとした。
「本当は僕が自分で取り返せればいいのですが、生憎僕は魔法も使えなければ剣も大して上手くない。特別な能力もないし、挙げ句は探検家でもないと来て、もう、笑っちゃいません?」
いきなり問いかけられて、俺はどもりながら「どうだろう」と答えた。まさか「笑っちゃいます」とは答えられない。
ふと隣を見ると、ミランは何やら楽しそうにリッジェルトを見つめていた。こういう変な人間が好きなのかも知れない。ミラン自身が変だから。
別に彼女のことを異性として好きだとか、そういう感情は持ち合わせてないのだが、柔らかな笑顔で青年を見つめるミランを見て少し彼に嫉妬した。
「それで、何を盗まれたんだ?」
まだ正式な依頼を受けていないので、話してくれるかどうかわからなかったが、意外にも彼はすんなりと話してくれた。
「指輪です。大きすぎて親指にも入らないからお金と一緒に袋に入れていたら、袋ごと盗まれてしまいまして。あの少年も、袋の中から指もないのに指輪が出てきてびっくりしたと思います」
「はぁ……」
よくわからないが、俺なら指と一緒に出てきた方がびっくりする。
「それで、お金も一緒に盗まれたみたいだけど、成功報酬は? 少年が盗んでいった金が報酬だったら、すでに存在しない可能性もあるぜ?」
俺は念のために聞いてみた。念のためにと言っても、大事な話である。
探検家は無償で人助けをしているわけではないので、仕事に対してはそれなりの報酬をもらわなくてはいけない。
青年は「大丈夫です」と言ってから、テーブルの上に小さな布の袋を出して中身を机の上に出した。
もちろん金である。金貨数枚と銀貨がその5倍くらい。銀貨と言っても1メルセ硬貨と、それより少し大きい10メルセ硬貨、だいぶ大きい50メルセ硬貨の3種類あるが、10メルセ硬貨が多いようだ。
「前金として500メルセ、成功報酬は金貨2枚でどうでしょう?」
決して悪くない額である。
ちなみに石の填まっていない女性用の装飾品としての指輪は、1つ50メルセほどで購入できる。そう考えると、青年の盗まれた指輪はかなりの価値のものなのだろう。あるいは何らかのマジックアイテムかも知れない。
「報酬はそれでいい。あとは、よかったらその指輪について詳しく聞かせてもらえないか? かなり価値のあるもののようだが」
あまりプライベートなところまで踏み込むのはよくないが、興味本位で尋ねてみた。青年は気を悪くすることなく話してくれた。
「太さは僕の親指より二回りも三回りも大きいものです。石は填まってないのですが、青銀色をした綺麗な指輪です。何かの魔法がかかっているらしいのですが……僕がその指輪に固執するのは、魔法のせいではなくて、単に家宝だからです」
「家宝?」
普通家宝など持ち歩くのだろうか。そう思って聞き返すと、彼は「今旅をしてるんですよ」と笑った。
「旅の途中にこの街によって、あの少年に盗まれてしまったってわけです」
「一人旅なんですか?」
初めてミランが口を挟んだ。横目で見ると、やはりどこか嬉しそうな表情をしている。
確かにリッジェルトは俺よりも美形だが……まったく女ってやつは。
これでリッジェルトが嫌なやつなら大人気なく敵意も剥き出しにするが、生憎青年は人当たり穏やかな男だった。
「今は一人ですね。あなたみたいな綺麗な方と旅ができる人が羨ましいです」
お世辞がどうかはわからないが、言い方に刺がないので嫌味ったらしく聞こえない。
「羨ましいって。よかったね、エリアス」
にっこり微笑まれて、俺は釈然としない気持ちで「ああ」と頷いた。
「わかった。依頼を受けよう。俺はエリアス、こいつはミラン。ギルドに所属する探検家だ」
俺は自己紹介して手を差し出した。最後の台詞は、相手を安心させるためのものである。
探検家の中には、金を払うのが嫌でギルドに所属しないヤツもいるが、一般人から見ると、やはりギルド所属の探検家の方が安心できるらしい。
「わかりました。エリアスさんとミランさんですね。それでは、よろしくお願いします」
リッジェルトはそう言いながら、俺の手を握り返した。
やはり剣など持ったこともないような手の平だった。
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