小さな舞台にはエルフの笛吹きが軽快なメロディーを奏で、一曲終えるごとに拍手を浴びて、酔った客に酒を振る舞われていた。
俺はカウンターの端に座って、エリアから奪った金でちびちびとワインを飲んでいた。もともと明るい雰囲気は嫌いではないし、むしろ落ちぶれる前は他の客と喧嘩になるほど騒いだものだが、今はとてもそういう気分にはなれなかった。
あれから数日過ぎたが、エリアの泣き顔が今でも頭の中にこびりついて離れなかった。
なりたくて悪人になったのではないのだ。それに、今からだってやり直せるならやり直したい。
俺はどこか入れそうなパーティーはないかと周囲を見回したが、どのパーティーもすでに十分な人数を確保しており、仲間を探しているような連中は見当たらなかった。
「なあ、マスター。最近、メンバーを探してるようなヤツはいなかったか?」
背が低く、たっぷりとした茶色の髭をたくわえたマスターに話しかけると、マスターは俺の顔を覗き込みながら首を横に振り、低い声で尋ねてきた。
「見たところ、これから冒険者になりたいってわけじゃなさそうだな。仲間を亡くしたのか?」
「いや、死んだわけじゃない。よくある仲違いさ。別に報酬でモメたとか、そんなんでもない。理想の相違ってやつかな?」
「なるほどな。お前は何ができるんだ?」
鎧もなく、厚手の服に剣が一本という出で立ちの俺に、マスターが興味深そうな顔をした。
「基本的には剣を使うが、精霊魔法も覚えている」
「“コントロール・スピリット”は?」
「使える」
俺が頷くと、マスターは驚いた顔をした。
「それじゃあ、なかなか大したもんじゃないか。お前さんなら、すぐに仲間も見つかるだろう」
「だが、運がないときはあっさり落ちぶれるもんさ。今じゃ、この有り様だ」
俺が苦笑すると、マスターが真面目な顔付きをした。
「一応確認しておくが、お前さん、金はあるか?」
「おいおい」
俺は大袈裟に驚いて見せてから、持っている金の内のほんの少しを見せた。
「大丈夫だ。二週間は泊まれるよ。前の冒険で手に入れた最後の金だ」
「おお、疑って悪かったな。これは俺のおごりだ」
マスターは弁解と言わんばかりに空になったグラスに安いワインを注いだ。
俺がそれを半分ほど飲むと、不意にマスターが顔を上げて、にんまりと笑って顔を近付けてきた。
「店に若い娘が入ってきたぜ。一人だし、なかなか可愛い子だ。あれはどうだ?」
「ほう」
俺は振り返り、娘を見た。長い金髪に愁いを帯びた瞳。紋章の入った革鎧。
エリアだ。
俺はすぐに前を向いた。気付かれなかっただろうか。
「女は何かと面倒だからな。抱くのは好きだが、パーティーを組みたいとは思わない」
適当な嘘をつきながら周囲を見ると、自分の二つ隣の椅子が空いているのに気が付いた。このままでは、エリアはそこに座るだろう。
「悪いが部屋に戻るぞ。元々酒は強くなくてな」
マスターは怪訝そうな顔をしたが、引き止める理由がないからか、特に追求してはこなかった。
素早く代金をカウンターに置くと、エリアに背を向ける格好で階段へ急いだ。もしもいることがバレて、この場ですべてを暴露されたらおしまいだ。これだけの数の冒険者の中を逃げ出す自信はない。
階段を上りながらふと見下ろすと、エリアは俺が座っていたカウンターに腰かけ、マスターと話をしていた。使い魔の猫は見当たらない。ひょっとしたら、死んでしまったのかも知れない。
俺はやり切れない気持ちになったが、すぐに首を左右に振って部屋に急いだ。
(宛てのある旅じゃないんだ。明日はまたロマールに戻ろう)
このままファンドリアの方へ歩けば、エリアと行程をともにすることになる。それだけは避けたかった。
しかし、ロマールには俺を悪い意味で知っている人間がたくさんいる。元々冒険者として落ちぶれ始めたのはロマールにいた時だった。俺はまったく知らない土地で新しくやり直したいと考えている。
(やっぱりファンドリアか……)
部屋に戻るとすぐにベッドに横になり、頭の後ろで手を組んで考え込んだ。
改めてエリアを見て、あの時の光景がくっきりと浮かんでくる。柔らかい肌と、歯を食い縛って恥辱に堪える顔、乱れた髪、涙と土で汚れた頬、血まみれの太股。そして、人形のように生気のない瞳で樹にもたれて座っていた彼女の姿を思い出したとき、俺は大きく首を振ってその光景を追い払った。
(やっぱりロマールだ。これだけの金があればロマールでもやり直せる)
罪悪感に押し潰されそうになりながら、俺はロマールに戻ることを決意した。
そのまま横になっていると、急に睡魔がやってきて、いつの間にか眠りに落ちていた。
夜中、俺は殺気を感じて目を覚ました。
半身を起こすと、扉の向こうに人の気配を察知した。俺は音を立てないようにして素早く起き上がると、布団の中に枕を詰め込み、人がもぐっているように仕立て上げた。
そして俺自身は剣を取り、“インビジビリティ”をかけて姿を消す。
ドアには鍵がかけてあったが、カチャッと小さな音を立てて開かれた。盗賊技能ではない。“アンロック”の魔法だ。
(エリアか……)
俺の予想は的中し、忍び足で入ってきたのは金髪の少女だった。酒場で俺のことに気付いていたらしい。冷淡な表情で、瞳にはあからさまな怒りがこもっていた。
エリアは静かにドアを閉めると、小さなスタッフを置き、腰から剣を抜き放った。そしてベッドの前まで来ると、それを両手で握って切っ先を真下に向ける。
俺はどうするべきか迷ったが、ベッドに穴を空けたくなかったので動くことにした。とにかく、俺が疑われることも、エリアが刺客に間違われることもしたくない。
“サイレンス”の魔法をかけると、エリアが驚いた顔で振り返った。集中が切れて“インビジビリティ”の魔法が解けたのだ。
けれど、エリアが動くより先に俺はエリアを後ろから羽交い絞めにし、剣を取り上げてベッドに押し付けた。
エリアは暴れながら何か叫んだが、音のない空間に声はかき消された。もちろん、俺もエリアに言葉を伝えることはできない。
俺はエリアを押さえ付けたままロープを取ると、身体を縛り上げた。そして口に猿ぐつわを噛ませて、魔法が解けるのを待つ。
エリアはじたばたともがいていたが、その内観念したのか、涙で滲んだ瞳で俺を睨み付けてきた。
やがて俺のかけた静寂の魔法は解けたが、俺はエリアに何を言っていいかわからなかった。
何やら呻き声を上げるエリアを眺めていると、ふといい案を思い付いて俺は口を開いた。
「なあエリア。お前の部屋はどこだ?」
こうなれば、エリアを部屋に戻して“シェイド”で眠らせ、その間に俺が宿を出てしまうのが一番丸く収まる。そして、もう二度と会うこともないだろう。
もう一度尋ねたが、エリアは何も答えようとはしなかった。こうなれば仕方ない、俺の部屋で眠らせるかと思ったその時、俺は突然膨れ上がった殺気に振り返って身構えた。
静かにドアが開けられ、入ってきたのは銀色の髪をした背の高い男だった。黒ずくめで覆面をしているので顔はわからないが、刺客然とした姿と言いシチュエーションと言い、警戒を要する相手に違いない。
男は静かにドアを閉めると、投擲用のナイフを取り出して低い声で言った。
「大人しく娘を差し出せば、お前に危害は加えない」
「エリアを狙っているのか……」
俺は急速に自分の記憶を手繰り、誰かに恨まれるようなことをしたかと考えていたが、狙っている相手がエリアだと言われて納得した。
エリアは親族に疎んじられているのだ。刺客を差し向けられてもおかしくない。
ちらりと目だけで振り返ると、エリアは蒼ざめた顔で震えていた。男を知っているのか、それとも自分が刺客に狙われているという事実に怯えているのか、それはわからない。
俺は抜き身の剣を油断なく構えたまま言った。
「断る」
刹那、男のナイフが閃いた。俺が素早く身を翻すと、ナイフは壁に突き刺さった。
男はダガーを抜いて切りかかってきた。この狭い部屋では剣は不利だと考え、男に体当たりをかますと、エリアの縄をほどいてスタッフを渡した。
「死にたくなかったら手伝え」
エリアは猿ぐつわをほどき、スタッフを握ったが、迷っているようだった。俺は応戦しながら再びエリアに呼びかける。
「魔法を使え、エリア!」
実際、男の腕前は俺の剣技を凌いでいた。いや、広い空間なら勝つ自信があったが、ここでは無理だ。
ようやく意を決したようにエリアが魔法を使う。“スリープ・クラウド”だ。
「バ、バカかお前はっ!」
“スリープ・クラウド”は空間にかける魔法だ。俺は頭がフッと軽くなり、そのまま倒れそうになった。顔を上げると、男も抵抗するのに苦しんでいるようである。
だが、男は魔法に抵抗して見せると、床を蹴ってエリアとの差を詰めた。
エリアは布団を跳ね上げ、ベッドから起き上がって男にスタッフを振り下ろす。
避けたところを、俺は斬りかかった。ガキッと音を立てて、ダガーと剣が弾ける。
男はあくまでエリアの命をあきらめていないようだったが、にわかに廊下がざわめき出して、ようやくあきらめたように窓を割って外に飛び出していった。
「おい、何があった!?」
血相を変えたマスターが部屋に顔を覗かせる。俺はエリアが余計なことを言う前に、「刺客に狙われたがもう大丈夫だ」と答え、もう二、三言やり取りをしてドアを閉めた。
部屋の中に向き直ると、少女はスタッフを持った腕をだらりと下げ、泣き出しそうな眼差しで床を見つめていた。
俺は溜め息をついてから、低い声で尋ねた。
「お前、俺もまとめて殺す気だったんだな? さっきの魔法は」
もちろん、“スリープ・クラウド”のことである。
ところが、意外なことにエリアは勢い良く顔を上げると、怯えた眼差しで大きく首を振った。
「ち、違うわ! ごめんなさい。咄嗟のことで、どうしていいのかわからなかったの……」
少しだけ声が震えていた。よく見ると小さな肩も小刻みに震え、少女はとうとう堪え切れなくなったように涙を零した。
「お前は、俺を殺しに来たんだろ? 気が変わったのか?」
油断なく構えながら尋ねたが、少女からの返事はなかった。エリアは膝を折り曲げると、スタッフを床に置いて両手で顔を覆った。刺客に狙われたのがよほどショックだったのだろう。
俺は少女に戦う意思がないのを確信したので、剣を鞘に戻して荷物をまとめた。こんな時、一体どうしたらいいのかわからなかったが、俺はこの娘を犯した挙げ句、金を奪ったのだ。今さら仲良くできるはずがない。
「お前に返した金貨だけで、冒険者も雇えるし、ファンドリアまでは十分行けるだろう。お前とはこれでお別れだ」
荷物を持って立ち上がると、少女は急に顔を上げて、表情を険しくして立ち上がった。
「わ、私はお前を許さない!」
涙でかすれた声でそう言い、スタッフで殴りかかってくる。しかしその動きは緩慢で、まるで素人の子供のようだった。
俺は足払いを食らわせてエリアを床に転がすと、スタッフを取り上げた。
「じゃあな」
再び背を向けると、少女は「待って!」と甲高い声を上げた。
驚いて振り向くと、エリアは親に置いていかれる子供のような顔で俺を見上げていた。それは恨んでいる相手に向けるものではなく、助けを乞う眼差しだった。
俺は静かに言った。
「お前は、お前に乱暴した俺に、何か用なのか?」
少女は息を飲み、俯いて唇を噛んだ。
スタッフを台の上に置き、今度こそ俺は部屋を出た。下に降りるとマスターがいて、俺がカウンターに座ると、エールを一杯注いでよこした。
「あの娘とどういう関係なんだ? 刺客はお前に来たのか? あの娘に来たのか?」
俺はエールを飲み干すと、宿代と壊れた窓や破れた布団の代金をカウンターに置いた。
「ちょっとした知り合いだが、俺を恨んでいるんだ。刺客の狙いは向こうだよ。マスター、明日あの子にファンドリアまで護衛をしてくれる、腕のいい冒険者を紹介してやってくれ」
マスターは大きく頷くと、それ以上の追求をせずに、ただ一言「お前は?」と尋ねた。
「俺はロマールに行く」
「そうか……」
宿を出ると分厚い雲が空を覆っていた。雨の降る風ではないが、月の姿は拝めそうにない。
歩き始めた俺の脳裏に、エリアの顔がよぎった。
泣いている顔、怒っている顔、怯えている顔。
考えてみれば、笑っている顔は見たことがない。整った顔立ちをしているから、笑うとさぞ可愛いことだろう。
「エリア・ミザルフか……」
少女の名を呟くと、胸にしこりが残った。そしてそれは決して拭うことができず、ついには不快感となって俺の胸を覆い尽くした。
「わかったよ」
誰にともなく呟き足を止める。
ファンドリアへ……。
革袋を担ぎ直すと、俺はロマールに背を向けて歩き始めた。
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