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悲しみの風使いたち

第3部 混沌の風の姫

第6話 『崩壊』 4

 床に亀裂を走らせながら、空気を切り裂く轟音が通り過ぎていった。
 ここが地上階でなければ、恐らく今の一撃で床は崩れ落ち、二人は瓦礫に飲まれていたことだろう。
 そんな、神すら真っ二つにするほどの風の刃を、二人は辛うじて躱した。その余波でフレアの弓は折れ、アレイは身体にいくつかの切り傷を負ったが、致命傷には至らなかった。
 すぐさまアレイはむき出しになった床を蹴り、剣を閃かせて躍り出た。風使いの少女は、今の一撃を放った疲労感に足をふらつかせている。どうやらアレイが想像していた以上に、“大いなる風の力”は疲労を伴うものらしい。
 足場の悪い床を踏みしめ、駆け抜ける途中、突然周囲の空気が希薄になり、息が詰まった。少女の能力の一つである。
 けれど、それすら気にせずにアレイは駆け、少女の頭上に思い切り剣を振り下ろした。
「くっ!」
 少女が悔しそうに歯ぎしりしながら剣を風で受け流し、そのままアレイの身体を吹き飛ばした。
 強く壁に叩き付けられたが、鎧のおかげで外傷はなかった。すぐに立ち上がると、周囲の空気は元に戻っていた。
 アレイは剣を握り直すと、再び少女目がけて床を蹴った。少女はすでに力を使い切ったように荒々しく肩で息をしている。
 アレイは勝利を確信した。消耗戦になれば分はこちらにある。敵の強力な一撃さえ受けなければ、いつか相手は疲れ果てるだろう。
 所詮、風さえ使えなければただの少女である。
 アレイの一撃を、少女は自ら動いて躱した。凄まじい速度で繰り出した次の太刀も、大きく後ろに飛んで避ける。その動きはアレイの予想を越えるスピードだった。
 しかし、結果は変わらない。
「もう風は使わないのか?」
 アレイは皮肉混じりに嘲笑した。確かに相手の体術は考えていたより上だったが、特殊な力さえなければ、肉弾戦で負けるアレイではない。
 油断なく剣を構え、嘲るように少女を見据えたが、彼女はそんなアレイの挑発には乗らなかった。
 一歩、二歩と後退すると、そのまま身を翻して走り出す。
「逃げるのかっ!?」
 アレイは反射的に叫んだ後、気が付いた。少女の行く先に、自分の姉が立っていることに。
 少女は弓を失くしたフレアを先に殺すつもりだ。
「待てっ!」
 慌てて走り始めたアレイだったが、少女はまるで翼でもあるかのような身のこなしで、あっと言う間にフレアとの距離を縮めた。
「くそっ!」
 アレイは思い切り剣を振り上げた。もはや唯一の武器を投げ付ける以外に、彼女を止める手立てはない。
 そう思った刹那、少女がピタリと足を止めて振り返った。その顔には冷酷な笑みが貼り付いている。
(謀られた!?)
 少女が両手を前に伸ばした。彼女は初めからアレイを狙っていたのだ。
 少女がすでに刃を放てる状態にあるのに対して、アレイはようやく足を止めかけたところだった。
(避けられない!)
 死を覚悟した。初めの一撃とまでいかずとも、少女の通常の刃すら避けられる体勢になかった。
 けれど次の瞬間、大きく身体を崩したのは少女の方だった。
 ズスッ!
 アレイも過去に何度も耳にした、人体に刃の埋まる音。
 一瞬苦痛に顔を歪め、憎々しげに背後を振り返った少女の背中に、一本のダガーが突き刺さっており、その周囲が真っ赤に染まっていた。
 フレアの投げたものだ。心臓は外しているようだったが、致命傷には変わりないだろう。
 完全な不意打ちだった。刃は少女の肉体を完全に貫いている。
「貴様ああぁぁぁぁっ!」
 少女が叫んだ。凄まじい気迫にひるむフレア。
 アレイは再び駆けたが、間に合わなかった。
 壁の砕ける轟音。立っているのさえやっとなほどの空気の振動。初めに少女が放ったよりももっと巨大で強力な刃が、真っ直ぐフレアに向かって走った。
「姉さんっ!」
 アレイは叫んだが、それで状況が変わることはなかった。
 恐怖と驚きに歪む顔。それを最後に、フレアの肉体はその残骸すら残らぬほど木っ端微塵に砕け散り、肉片と鮮血を辺りに撒き散らした。
 力を使い果たし両膝をついた少女を前に、アレイはただ立ち尽くした。
 革命に犠牲は必要だという考えは強く持っていたが、まさか自分の姉が殺されるとは思ってなかった。
 足から力が抜けていくのを感じたが、なんとか踏み留まった。
 少し離れた先で、少女が背中のダガーを抜き、ゲホゲホとむせ返っていた。口腔から真っ赤な血が溢れている。
 まるで瀕死の猫のようだった。アレイが剣を携えて近付くと、彼女は苦しそうにむせながら、それでも毅然として彼を睨み付けた。
 アレイはその瞳を真っ直ぐに睨み返すと、自分でも驚くほど静かに言い放った。
「その傷では助からないだろう。だけど、安心しろ。お前は俺が殺す」
 その言葉を聞いて、少女はゆっくりと立ち上がった。
 アレイは驚きを露にした。立てるはずのない怪我だったはずである。
 彼は風使いの生命力を知らなかった。知るはずがなかった。
 それでも、もうアレイの勝利を止めるものはなかった。
 揺るぎない勝利。多くの犠牲を払い、姉を失い、それでも、次の一撃で革命は成功する。
 虚しさがアレイの胸を覆った。
 少女は膝を震わせながら、自分の血で真っ赤に輝くダガーをアレイに向けていた。
「哀れだな……」
 同情心は湧かなかった。どんなに儚く写ったとしても、相手は世界中の人々を苦しめ、姉を殺した悪魔なのだ。
 相打ちを覚悟するように、何の策も持たずに走ってきた少女に向かって、アレイは思い切り剣を振り下ろした。
 いや、振り下ろそうとした。
「なにっ!?」
 それが彼の、人生で最後の言葉になった。
 アレイの剣は、彼女の頭をかち割る直前で、まるで巨大な軟体生物でも斬り付けたかのような感触に弾き返されたのだ。
 空気の塊。
 アレイは目の前の少女が最後の力でやったものだと思ったが、それは間違いだった。
 胸に走った焼け付くような痛み。
 痛みに見開いた目に、一人の女性が写っていた。
 今自分の生命を奪った少女と同じ深緑色の髪をした女性。旅の途中で仲間にした、クリスィアという名の女を……。
 少女がダガーから手を放すと同時に、アレイの身体はゆっくりと床に崩れ落ちた。

 アレイの身体が砂埃を上げるのを見届けてから、エルフィレムは膝を折った。
 背中の傷はひどく痛んだが、風使いを死に至らしめるには不十分なものだった。
 それが途方もなく悲しくて、彼女は虚ろな瞳に涙を浮かべた。
 すべてを失った彼女は、アレイと心中するつもりでいた。
 生まれ育った村も、大切な友人も、両親や弟も、そして築き上げてきた国も、部下の盗賊たちも、最愛の王女も、そして彼女からそれらを奪い取った憎むべき相手も、すべて失ってしまった。
 もはや生命に未練はなく、むしろ死にたいと願っていた。
 それが、目の前に倒れている男は何故か彼女を殺さなかった。殺す気があれば確実に殺せた間合いだったはず。
 彼は、彼女を最も苦しめる方法を知っていたのだろうか。そのために、自ら死を選んだのだろうか。
 孤独……。
 自分を知る者も、自分の知る者もいない無の世界。そんな世界に強制的に身を委ねさせること。彼が謀らずも彼女に与えた最後の呪い。
 エルフィレムは鳴咽を洩らした。
 何故生き延び続けるのだろうか。また独りで生きていかなくてはいけないのだろうか。
 絶望的な心境だった。
 背中を丸め、膝を抱えるようにして泣き続けた。
 もう生きている仲間は誰もいなくなってしまったのか、ひっそりと静まり返る城内が彼女の孤独感をいっそう高めた。
 ただ崩壊していく音だけが断続的に聞こえてくるその空間に、一つの声が染み渡った。
「エルム……」
 高くて穏やかな女性の声。それが春風のように彼女の胸を撫でていった。
 しかしエルフィレムは、その声の主を思い出せなかった。有り得るはずもない声だったから仕方ないことだろう。
「誰……?」
 期待や不安があったのかは定かでない。どちらかというと、名前を呼ばれて反射的に振り向いたという感じだった。
 わずかな背中の痛みとともに振り返った先に、二人の男女が立っていた。二人とも自分と同じ深緑色の髪をしている。
 風使いの証。
 男はいつかフォーネスの館から自分を助けた男だった。今改めて見て、彼が遥か昔、リナスウェルナの村から飛び出していった少年だとわかった。
 リュースロット。
 そうとは知らずに刺した傷は大丈夫だったのだろうか。一瞬遠い記憶が蘇ったが、彼はただ無表情に彼女を見つめていた。
 そしてそのリュースロットよりも数歩前に立つ女性。
 風の衣を身にまとい、髪と同じ深い碧の瞳で優しく自分を見下ろしている彼女は、紛れもなく、あの日フォーネスに殺されたはずのかけがえのない友達だった。
「クリスィア……?」
「エルムっ!」
 エルフィレムの声に、弾かれたようにクリスィアが駆けてきた。そしてそのまま傷付いた友人の身体を抱きしめると、涙を流して泣いた。
「会いたかった! 会いたかった、エルフィレム!」
 日頃冷静でおっとりとしたクリスィアでは考えられないほどの、激しく感情を吐露した泣き方だった。
 彼女もエルフィレムと離れ離れになってから、ずっと孤独と戦ってきたのだ。それは、少なくともセリスという味方が身近に存在したエルフィレム以上だったかも知れない。
「クリス……」
 まだ夢を見ているような感覚に捕らわれていたエルフィレムだったが、自分を抱きしめる確かな温もりと、疼き続けている背中の痛みに、だんだんそれが現実だとわかり始めた。
「クリスィア……本当にクリスィアなの? 生きていたの?」
「ええ! エルムも、生きていてくれて本当に良かった。ありがとう……本当にありがとう……」
 クリスィアの温もりに、あの日からずっと凍り付いていた心が溶けていくのがわかった。
 当たり前のように存在した温もり。
 母の温もり。
 父の温もり。
 リナスウェルナの人々の温もり。
 優しさ。
 安らぎ。
 エルフィレムの目から、大粒の涙が零れ落ちた。
「あ、あたしも……だって、ずっとクリス、死んじゃったんだって思ってたから……」
 戦いの疲労がまだ著しく残っていたが、それでも強く、生命の力でクリスィアの身体を抱きしめた。
「クリス……良かった。あたし……もう、ずっと独りなんだって……もう、ダメなんだって……。ありがとう。ありがと……っ……」
 二人はただ抱きしめ合ったまま泣き続けた。
 再会の喜び。
 もはや巡り合うはずのない二人が、今こうして生きて再び出会えた奇跡。神がエルフィレムに与えた最後の希望。
 ひとしきり泣いてから、二人は身体を離し、見つめ合い、そして笑った。
「帰ろう、私たちの村に。もうみんないなくなってしまったけど、村、無茶苦茶になってるけど、また昔みたいにあそこで暮らそう」
「うん!」
 エルフィレムは元気に頷いた。ソリヴァチェフの悪政から解放され、喜び合っている世界中の誰よりも晴れた笑顔で、エルフィレムは強く頷いた。
 悲しいこともあったし、つらいこともあった。
 人間界に来てから初めて人を憎み、人を恨み、傷付け、傷つけられて、そして人生を呪った。
 けれど今、ようやくその試練が終わり、明るい未来が目の前に開けた。自分の生きている喜びを知った。
 生きていて本当に良かった。
 二人が穏やかな瞳で立ち上がると、ずっと黙って立っていたリュースロットがエルフィレムの前に歩いてきた。
 恐らくリュースロットと人間界で会うのが初めてだと思ったからだろう。クリスィアが慌てて紹介した。
「あ、こちらリュースロット。ほら、村からこっちに飛び出してきた……」
「うん、知ってる」
 クリスィアの言葉を遮って、エルフィレムはすっと手を差し出した。
「あの時は助けてくれてありがとう。それから、知らなかったこととはいえ、ごめんなさい。村の前で傷付けてしまったこと……」
 申し分けなさそうに言ったエルフィレムの手を握り返して、リュースロットは一度目を閉じて深く息を吐いた。
 そしてとてもゆっくりと、一言一言かみ締めるように言った。
「謝っても許されないことなのは、お前が一番良く知っているはずだ」
「……えっ?」
 グッと身体を引き寄せられたあと、胸に凄まじい衝撃が走った。
 リュースロットのもう片方の手。そこに一本のナイフが握られていて、その刃が見えなくなるほど深く、エルフィレムの心臓を貫いていた。
「え……?」
 呆然とするエルフィレム。
 リュースロットはただ冷酷な瞳のまま、彼女の心臓からナイフを引き抜いた。
「お前はフォーネスと同じことをした。今更幸せになることは、神が許しても俺が許さない」
 胸から真っ赤な血を濁流のように迸らせて、エルフィレムはその場にうずくまり、そのまま音もなく床に倒れた。

「エルムっ!」
 絶叫して、クリスィアは慌ててエルフィレムに駆け寄った。
 胸から泉のように血を湧き上がらせている彼女は、もはや生命の輝きを失っていた。
 それでも即死に至らず、最後にクリスィアと話す時間を得ることができたのは、風使いの強さよりもむしろ、誰かがこの少女を哀れんだからかも知れない。
「クリス……ごめんね……」
 弱々しく伸ばした手を、クリスィアは強く握った。
 彼女は死ぬ。
 今ここでどれだけ泣いても、リュースロットを責めても、その事実だけは決して変わらない。
 ならば今、自分は何をするべきだろう。
 神が与えたこの最後の時間に、何を伝えるべきだろう。
 まるで力の入っていない、冷たくなりかけた手を握りしめながら、クリスィアはじっとエルフィレムを見つめていた。
 エルフィレムはそんな友達に微笑みかけて、微かな声で呟いた。
「海……」
「えっ?」
 思わず顔を近付けて聞き返す。
「海、見に行けば良かった……」
 もはやいつかも思い出せないほど遠い昔、エルフィレムは人間界にある“海”に強く惹かれていた。
 そのことを思い出して、クリスィアは目を細めて頷いた。
「こんなことせずに……海見に行けば良かった……」
「エルム……」
「あと、パン……」
 記憶の断片を辿りながら、エルフィレムは言葉を吐く。
 迫り来る死を時々振り返りながら、心に浮かんだことをそのまま伝えるために。
「パン、一緒に食べよって……。そう言って、別れたんだっけ……」
 あの日、フォーネスがリナスウェルナに押し寄せてきたとき、クリスィアは川で水を汲んだ帰り道だった。
 彼女もエルフィレムの母の焼くパンが大好きで、早く村に帰るのを楽しみにしていた。
「パン、一緒に食べられなかったね……」
 残念そうに呟いたエルフィレムに、クリスィアは力強く言った。
「ううん、エルム。一緒に食べよ」
「クリス……」
 エルフィレムはうっすらと開いた目を彷徨わせていた。もはやその目がクリスィアの姿を写しているか疑わしかったが、彼女が大切な友人の姿を見つめようとしているのは確かだった。
 クリスィアはなるべくエルフィレムを安心させるように、落ち着いた声で言った。
「みんな待ってるから。エルムのお父さんも、お母さんも、村の人たちも、みんな待ってるから。だからエルム。悲しまないで。悲しまずに、みんなの所へ行って」
「クリス……」
 まなじりから涙があふれ、こめかみから耳の方へ光が伝った。
「クリスは? クリスも……来てくれる?」
 不安と安堵の入り交じった声。
 クリスィアは大きく頷いた。
「ええ。少し遅くなっちゃうかも知れないけど、必ず行くから。だからエルム。あなたは先に行って待っていて。お母さんにパンを焼いてもらって、そしてまた、やり直そう。時間の止まったあの日から」
 それは、クリスィアがまだ自分の生命をあきらめていない言葉。
 まるで自分に言い聞かせるように、はっきりと、力強く、大切な友人との再会を信じて……。
「約束だよ……。今度は……ちゃんと……」
「ええ。約束……」
 目を閉じ、微笑みを浮かべたエルフィレムの手を、クリスィアはしっかりと握った。
「絶対に行くから。だから、待っていて」
「ありがとう……クリスィア……」
 一度鼻をすすって、すっかり冷たくなった手でギュッとクリスィアの手を握り返して、エルフィレムは泣きながら笑った。
 最後にかつての無邪気な笑顔を取り戻して、確かな愛に包まれたまま彼女は静かに息を引き取った。
 とても穏やかで、安らいだ笑顔だった。

 王国歴308年5月1日、解放聖戦終結。
 この戦争により、王女リーリス、セリスは死亡し、ソリヴァチェフ王国は滅亡。
 また、彼女たちを支配していたカザルフォートとアルハイトも戦死して、頭領と仲間の多くを失った盗賊連合は事実上壊滅した。
 戦争を指揮したキルケスの勇者アレイとフレアもまた名誉の死を遂げ、指導者を失った世界は、アレイがそれぞれの街に残した仲間たちの手によって復旧活動が進められた。
 長い長い夜が明けて、世界は以前のような平和な時代へと、ゆっくり移り変わっていった。

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