「遅かったな、ユウナ・アドレイル」
「タンズィ……」
呆然と呟いたユウナの目に写っていたのは、まだ赤々とした血を流して倒れている小さな3つの死体だった。ディオルも、自分が何をされたのかわからないように、大きな目を見開いたまま事切れている。
闇に飲まれるような絶望感に襲われるユウナに、タンズィが一度ゆっくり瞬きしてから言った。
「俺のミスはな、ユウナ。今回の計画をお前一人が企てたものだと思ったことだ」
その声には、深い憤りと後悔が感じられた。この男も、ノーシュの計画が成功して人生が終わった一人なのだ。
ユウナはいつもならば皮肉の一つも言ってやったろうが、今はショックのあまり言葉が出なかった。タンズィは続けた。
「俺はノーシュを信じていた。それに、サレイナにもこんな大それたことをする度胸があるとは考えてなかった。お前を拷問にかけた日に気が付いていれば、この城も守れたかも知れんな……」
深く溜め息をついてから、吹っ切るように顔を上げる。その目にはもはやユウナに対する憎しみしかなかった。
「だが、それはもういい。今俺はかつてない怒りに満ちている。ユウナ・アドレイル、お前を殺す!」
タンズィは床を蹴って短剣を閃かせた。
ユウナは一瞬反応が遅れたが、それでもタンズィの攻撃を避け切った。身体を動かすと少しずつ感情が蘇ってきて、ようやく自分の助けるべき子供たちが目の前の男に殺されたのだと言う実感が湧いた。
(結局……私のしてきたことって、なんだったんだろう……)
タンズィの剣を避けながら、ユウナは思わず涙をこぼした。
ユウナは子供たちを助けることだけを考えてきた。ノーシュほど徹底できなかったのは、単に彼女の性格的問題であり、子供たちへの思いが足りなかったわけではない。
孤児院が倒産し、その時からユウナは彼らの姉役と母親役を務めてきた。子供たちへの思いは決して半端なものではなかったのだ。
だが、そんな彼女の愛するすべては失われた。ランドスもドッシもディオルも、みんな死んでしまった。
タンズィの剣がユウナの肩をかすめ、そこから真っ赤な血が噴き出した。タンズィはそれを見て狂ったように笑った。
「俺に勝てるなんて思うなよ! お前の剣と魔力では、決して俺には勝てない。じわじわとなぶり殺しにしてやる!」
切っ先が胸をかすめ、それから太股を切り裂く。ユウナは泣きながら痛みに堪えていた。
(これはディオルの痛み……死んだ子供たちの痛み……)
全身血まみれになり、ついにユウナは自分の血で足を滑らせて床に尻をついた。タンズィは嬉々として笑い声を上げると、いびつに顔をゆがめた。
「終わりだな、ユウナ。お前を殺したら次はサレイナだ。ノーシュだって逃がさない」
タンズィはユウナの柔らかな腹に剣を突き下ろした。ズスッと肉を裂く音がして、ユウナの口から血が溢れこぼれる。剣はさらに深く差し込まれ、とうとう切っ先がユウナの身体を貫いた。
ユウナは痛みと悲しみに涙を流し続けていたが、ようやく身体を起こすと、剣をわざと自らの腹に突き入れて、そのまま柄を握るタンズィの手を取った。痛みと出血のために意識が朦朧としていたが、すぐに死ぬほどの怪我はしていない。それをユウナは自覚していた。
「な、なんだ?」
タンズィは怪訝な顔をしたが、今さらこの死にそうな少女が何かできるとは思ってなかった。ユウナは口を開きかけたが、喉に血が詰まって声を出せなかった。仮に声を出せたとして、この男に何を言えばいいのだろう。
(もういいや。殺そう)
ぐっとタンズィの手を握ると、静かに目を閉じた。いつかノーシュが言った言葉が脳裏をよぎる。
「タンズィより強くなれば殺される」
ユウナはあの忠告を、今日の今日まで守り通してきた。決して自らの魔力を解放せず、シンシア・アドレイルの血を抑え付けてきたのだ。
だが、もうそれも終わりだ。
一瞬だった。
いつかタンズィがユウナに使った“麻痺”の魔法。全魔力を解放したユウナのそれは、もはや人間の肉体に堪えられる威力ではなかった。
「ぁ……」
身体を折れるほど仰け反らせ、喉からわずかな息を吐くと、タンズィはその格好のまま床に崩れ落ちた。
ブラウレスの特殊部隊にすべてを懸けた男の、呆気ない最期だった。
左手に難攻不落のブラウレス城、右手に明るいブラウレスの街が見えた。街が起きているのは、城の騒ぎが伝わったからである。もちろん街にも守備する兵士が大勢いたが、頭を潰されれば為す術がなかった。
今城は赤々と燃え、ブラウレスの敗北は確実だった。如何に堅固な城と言えど、内から城門を開かれては守り抜けるはずがない。ましてや攻撃はまったくの不意打ちだったのだ。
「終わったな……」
城を見下ろす丘に立ち、静かにノーシュが呟いた。傍らにはエリスが無表情で寄り添い、その少し離れたところに、全身を血で真っ赤に染めた少女が立っていた。
「サレイナは無事かしら……」
ユウナは心配そうに呟いた。アイバールとは途中で一緒になり、すでに別れを告げた後だったが、サレイナの姿は見ていない。
ノーシュは小さく笑って首を振った。
「わからない……わからないけど、あいつはお前を置いて死んだりしないよ」
ユウナはサレイナの顔を思い出して、寂しそうに笑った。
サレイナは本当にユウナのことを愛していた。ユウナもまた、いつしかその想いに応え、サレイナを愛するようになっていた。
子供たちを失った今、ユウナに残されたのはサレイナ一人だった。けれど、ユウナはもはや彼女と会うつもりはなかった。
「本当にいいのか?」
ノーシュが神妙な面持ちで尋ねる。ノーシュは二人が如何に惹かれ合っていたかを知っていたので、ユウナの悲壮な決意が理解できなかった。
ユウナは一度自分の右手に目をやった。そこにはいつかアルブランスで買った指輪が填められていて、美しい銀色に輝いていた。
「お母さんは自分の両親も大切な人も救えなかった。私も結局、子供たちを誰一人として助けられなかった。私のこの血は、愛する人を不幸にするのよ、きっと……」
「あれは仕方のなかったことだ。それに、もう誰もお前たちを脅かすことはない。過去は過去じゃないか」
ユウナは静かに首を振った。
「サレイナだけは不幸にしたくないの。それに、サレイナには家族がいるわ。きっとあの子はみんなを助けられたと思う。これからは家族と暮らすのよ。タンズィに捕まる前のように……」
ノーシュはそれ以上の説得をあきらめた。ユウナの人生だ。もはや何も言うまい。
「アルブランスには?」
「やっぱり行かない。王様は、きっとわかってくれる……」
ノーシュは大きく息をついて頷いた。
ノーシュはこれからエリスと二人でアルブランスへ行くことになっていた。仕官するわけではなく、そこで土地と少々の金をもらって事業を始めようと考えていたのだ。
その時に、ノーシュはヨハゼフと会い、ユウナのことを話す約束していた。
「もう誰も傷付けたくないの……。私は、お母さんを探す旅に出る。きっとどこかで生きていて、私のことを心配してくれていると思うから」
「そうだな……」
ノーシュはユウナと向き合うと、すっと手を差し出した。
「じゃあ、ここでさよならだ、ユウナ。必ずシンシアを見つけて、一度でいいから、二人でアルブランスに来てくれよ」
ユウナはその手をしっかりと握って、力強く頷いた。
「もちろんよ。きっと会いに行くわ。エリスさんも、ノーシュとお幸せに」
ユウナが微笑むと、エリスは軽くユウナの身体を抱きしめてから、優しい眼差しを向けた。
「ノーシュを助けてくれてありがとう。ノーシュが、あなたがいなければこの計画は成功しなかったって言ってたわ。あなたも、お母さんを見つけてきっと幸せになってね」
「はい」
ユウナが大きく頷くと、二人は何度もユウナに手を振って、やがて丘の向こうへ消えていった。
ユウナは二人の背中が見えなくなってからも、じっとその場に立ち尽くしていた。
「すべて、終わったのね……」
小さく呟くと、無性に悲しくなって涙が溢れてきた。ユウナはそれを袖で拭うと、大きく首を振り、無理矢理明るい笑顔を作った。どうせ生きていかなければならないなら、明るくいよう。
「さあ、行こう!」
元気に振り返ると、そこに小さな人影が見えた。湿気をはらんだ風に長い群青色の髪をなびかせて、少女サレイナが微笑んでいた。
「サ、サレイナ、どうして……」
ユウナは思わず立ち尽くし、呆然となった。それからすぐに最悪の展開を予想して顔を曇らせる。
「まさか、家族を……」
サレイナは明るい顔で首を振ると、そっとユウナの手を取った。つながった手に二つの同じ指輪が輝く。
「みんなは助けられたわ。でも、今さら私がみんなと一緒に暮らせると思う? たくさん人を殺して、血にまみれた私が、昔みたいに一介の商人の娘として生きていけると思う?」
それは、子供たちを助けに行く前にユウナも考えていたことだった。はっとなって顔を上げると、サレイナは優しい瞳で笑った。
「それに、私はあなたが好きなの。私は自分の身は自分で守れるわ。あなたのお婆さんやお爺さんとは違う。心配しないで」
「一緒に……来てくれるの?」
小さな子供みたいに不安げな眼差しで尋ねると、サレイナは大きく頷いてから、ぎゅっとユウナの手を握った。
「もちろんよ。一緒に連れて行って、ユウナ」
「サレイナ!」
ユウナは思わずサレイナを抱きしめた。
すべてを失い、一人ぼっちになったと思っていた。これからは誰とも出会わず、知り合わず、仲間や友達もできないで、ずっと一人で生きていくのだと思っていた。
「ありがとう、ありがとう、サレイナ」
「いいのよ、ユウナ……。私、ユウナがそんなに喜んでくれるなんて、思ってなかった。ありがとう……」
一度唇を重ねると、二人は手をつないで空を見上げた。
どんよりと雲が覆っていた空はいつの間にか晴れて、輝く月の周りに無数の星が輝いていた。東の空はほのかに白み始めている。
苦しみもあった。怒りや憎しみのあまり眠れない夜も、恐怖に震えて泣いた日もあった。降り注いだ悲しみの一部は、まだ胸の奥に積もったままで、時に絶望感をもたらすこともある。
それでも、囚われの時代は終わったのだ。多くの犠牲を払って手にした自由が胸に輝いている。
明日、間違いなく燦々と輝く太陽が昇るように、明るい未来は必ず訪れる。
「行こう、サレイナ! 幸せになろう」
「ええ」
ブラウレスの空は赤い。けれどそれは希望の光だ。混乱の後、ブラウレスの国民はヨハゼフの下で幸せな日々を送ることになるだろう。
丘の上に風が吹いた。
東の地平が金色に輝いて、新しい朝に包まれた大地を、二人は力強く歩いて行った。
Fin
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