これが、ウィサン王国が公表した、最終的な事件の被害者数だった。
ルヴェルファスト歴507年6月22日。この日を、ウィサンの人々は『悪夢の日』と呼んだ。
事件からひと月が過ぎた夏のある日、王子エデラスは妹の幼なじみである青年サリュートを伴って、事件の現場を訪れた。5年前に建設され、以来いくつかの功績を残し、街の繁栄に貢献した魔法研究所は、南側に広がっていたウェリウム広場に倒れ、瓦礫の山と化している。
魔法研究所の崩壊。それが、『悪夢の日』に起きた事件だった。
他国には巨大な竜巻による天災として公表しているが、実態はそうでないことを、ウィサンの誰もが知っていた。
エデラスは研究所の入り口があった場所で足を止めると、残っている壁の一部に手を当てた。そこには、まるで鋭利な刃物で切り取られたような跡があり、この崩壊が決して竜巻などによるものではないことを物語っていた。研究所は、1階部分を強力な一撃で破壊され、土台を失った上階が広場の方に崩れ落ちたのだ。
「何度見ても、足が震えるな。これがたった一人の力によるものだなどと知られたら、大陸中で魔法使いの弾圧が始まるだろう」
エデラスが眉間に皺を寄せてそう呟くと、サリュートが薄く笑いながら答えた。
「誰も信じませんよ。実際、こんなことができる人間は世の中に5人もいないでしょう」
「……そうだな。俺たちは、この国にとって最も大切な人材の一人を、最悪の形でなくしてしまった……」
エデラスの言葉に、サリュートは「そうですね」とだけ答えて、それっきり何も言わなかった。入り口から遠くの広場に目をやると、城の兵士や街の人間が復旧作業に勤しんでいた。怪我人の手当てを優先させていたこともあるが、実際に復旧作業がほとんど進んでいないのもまた事実だった。
本来、こういう場面で活躍すべき魔法使いの大半が、事件によって失われたのである。幸いにも治癒能力のある少女リアと、所長のタクト・プロザイカは生き延びたため、二次的な死者を増やすことは抑えられたが、瓦礫の除去や広場の復興に尽力できるほどの魔法使いは誰も残っていなかった。
「ユウィルがいてくれたら……」
思わずサリュートが呟くと、エデラスが皮肉めいた笑みを浮かべた。
「やった本人に頼るほど滑稽なこともない」
どこかにまだ血の臭いが混じっているような、重苦しい風が吹き抜けると、後ろからエデラスを呼ぶ少女の声がした。
「エデラス王子、来てらしたのですか?」
「リアか……」
エデラスが振り返ると、そこにはすっかり憔悴し切った顔をした魔法使いの少女が立っていた。事件の日から今日までに、リアほど働いた人間は恐らくないだろう。自分の寝る間も削って、怪我をした人々の治療にあたっている。その生活は今もまだ続いていた。
「怪我人の様子はどうだ?」
エデラスが訪ねると、リアは笑顔で頷いた。
「はい、もう生命に危険のある人はいません」
「そうか……。全部お前のおかげだな。ありがとう、リア」
「い、いえ……」
突然王子に感謝され、リアは驚いて目を丸くした。それからすぐに首を振って、悲しそうに瞳を落とした。
「ユウィルは、私を助けてくれた子です。そのユウィルがしてしまったことに、私が自分にできるだけのことをするのは当たり前です」
リアの言葉に、エデラスは何も答えなかった。答えられなかった。
エデラス個人の感情は、もちろんユウィルの味方だったが、彼女に殺された人々のことを思うと、リアに慰めの言葉をかけるのも憚られる。
エデラスが何も言わないので、民衆を気にかける必要のないサリュートが、そっとリアの肩に手を置いた。
「僕たちは、誰もユウィルのことを責めたりしない。今一番苦しんでるのは、きっとあの子だ。大好きなシティアや君にも相談できずに、どこかで一人ぼっちで泣いている。そんなユウィルを、誰が責められるって言うんだ」
言いながら、サリュートは目頭が熱くなるのを感じた。リアは溢れる涙を抑えられずに、両手で顔を覆うと、その場にしゃがんで嗚咽を漏らした。
ウィサンの魔法研究所には、15歳から入ることができる。しかし、少女ユウィルはその才能と危険性のために、魔術師見習いという肩書きで、弱冠13歳で研究所の一員となった。
その後ユウィルは、あまり国民からの評判の良くなかった王女シティアと親しくなり、自由に城に出入りできるようになった。タクトにはもちろん、国王ヴォラードや王子エデラスにも愛され、特別な役職こそなかったものの、他の誰より優遇されていたのは明白だった。
もちろん、才能のある者が上に立つのは当然だったが、このことを他の研究員たちは快く思っていなかった。実際ユウィルは研究所で頻繁にいじめられており、それはユウィルの名が有名になるほどエスカレートしていたことを、やはり生き延びたユウィルの親友のである少女シェランが証言している。
今回の事件は、恐らくそう言った何ヶ月もの間いじめられ続けた鬱憤が一気に爆発したのだろう。
事件当日にユウィルをいじめていた魔法使いはすべて殺されているので、事実はユウィル以外の誰も知らなかったが、シェランは彼らがユウィルの家族をバカにしたか、あるいはこれに危害を加えるようなことをしたのだろうと予想していた。ユウィルは常にいじめを受け入れており、決して反抗せずに我慢していたが、家族のことを言われたときだけ大きな声で怒鳴ったり、手を上げたりすることがあったのだ。
そのユウィルの両親は、事件から1週間後、自宅で首を吊って自害し、このこととシェランの証言、そして魔法使いへの配慮から、ユウィルについては不問になった。事件はあくまで天災として処理され、ユウィルを糾弾する人間は、軍が弾圧した。もちろんそれは、ユウィルをかばうためではなく、これが人災だという発言は、世間に動揺を与えると考えたからである。
そして、この研究所を一撃で粉砕した張本人は、事件の直後から姿を消していた。その後の消息は誰も知らない。
リアはしばらく泣き続けていたが、やがて立ち上がって顔を上げると、赤い目をこすってエデラスを見た。
「シティア王女はどうしていますか?」
その質問に、サリュートはあからさまに暗い顔をし、エデラスは溜め息をついて首を横に振った。
「相変わらず塞ぎ込んでるよ」
「そうですか……」
リアは肩を落として項垂れた。
事件から3週間が過ぎたある日の午後、一度だけリアは城に招かれ、シティアと会った。その時シティアは、リアの方に顔を向けたが目は別のものを見ており、虚ろな表情のまま一言も口を利こうとしなかった。
聞くと、事件の直後は、シティアは泣くか喚くかのどちらかで、「ユウィルを探しに行く」と言って聞かなかったらしい。昔のシティアならば、そんなことを言う前に城を飛び出していただろうが、今では家族との交流があったので、両親とエデラスになだめられて城から抜け出すようなことはしなかった。
ただ、感情の第一波が過ぎると、今度はすっかり塞ぎ込んでしまい、誰とも会わず、何も言わなくなってしまった。口を開けばユウィルの名を呼び、悲しそうに涙を流した。
「このままじゃ、シティアまで病気になってしまう。だけど、シティアは王女だ。宛てもない旅に出すわけにはいかない」
サリュートが喉の奥から声を絞り出すように言った。その苦々しげな表情から、本心が容易に見て取れた。サリュートは、本当はシティアに城を抜け出して欲しかった。その方がずっとシティアのためだと思ったのだ。
それはリアも同感だったが、誰よりもそう思っているであろう実兄が我慢している前で、そんなことを言えるはずがない。
エデラスは、決して本心をぶちまけずに俯いて立ち尽くしている二人をしばらく見つめていたが、やがて、
「リア、今度またシティアの様子を見に来てくれ。あいつは、ユウィルの次にお前を信頼しているからな」
と、そうリアに声をかけて踵を返した。
リアは歩き去っていく二人の背中を眺めながら、たった今エデラスに言われた言葉を胸の中で反芻していた。
確かにシティアはよくリアに会いに来たが、それをリア本人は、ユウィルに会うついでだと考えていたし、シティアは立場的に自分に笑いかけてくれるのだと思っていた。
何故なら、リアはシティアを殺そうとした魔法使いの娘なのである。もしも自分がシティアの立場なら、とてもそんな女を愛することなど出来ない。
(シティア王女は、私をどう思ってるのかしら……)
シティアは決してリアに向かって、「好きだ」とは言わない。ユウィルには目で見えるほどの愛情を注ぎ、信頼を口にしていたが、リアには一切そういう素振りを見せなかった。
だが、そんなリアの疑問は、顔を上げて一歩足を踏み出した瞬間に解決した。
見るからに暑苦しい白い外套を羽織り、そのフードを目元まで下げた不審そうな人物が真っ直ぐリアのところに歩いてきて、足を止めた。そして顔を上げ、目が合った瞬間、リアは思わず小さく声を上げた。
「シティア王女!」
シティアは「しっ!」と口元に指を立ててから、いたずらっぽく笑った。
「もう限界。リア、一緒にユウィルを探しに行きましょう」
「い、一緒にって……私とですか?」
突然のことに呆然とそう尋ねると、シティアはきょとんとした顔つきになった。
「そうよ? 他に誰が私なんかと一緒に旅をするって言うの?」
「王女……」
シティアは、ユウィルもリアも同じように信頼していた。ただユウィルは幼いので、なるべく直接的な愛情表現をしていたのである。それがわかった途端、リアは思わず目頭が熱くなり、シティアの手を取って大きく頷いた。
「はい! ありがとうございます、王女。私で良ければ、どこまででもお供します!」
「ええ。じゃあ、すぐに用意をしてきて。タクトには一声かけてきていいわ。私のことも言って平気。きっとタクトも、ユウィルを心配してる。そして、今ユウィルのために動こうとする人間は、私しかいない」
ユウィルには友達がほとんどなかった。もちろん、研究所にはシェランのような女性もいたし、街にはミリムという女の子の友達もいたが、いずれもユウィルを探しに行くほどの力はなかった。彼女の両親は、人々の叱責と娘の罪の重さに耐え切れずに自殺してしまったし、もはや彼女を探しに行けるのはシティアだけだった。
もしも他に、ユウィルのために動く人間がいるとしたら、それは自らユウィルを研究所に招いたタクトだろう。だが、彼は研究所の所長としてしなくてはならないことが多すぎ、とても一個人として動くことなどできそうになかった。もっとも、それはシティアも同じだったが、シティアとタクトとでは民からの信頼が違う。シティアは、今こんな状況ですら、誰も自分を必要としていないことを自覚していた。だからこそ行くのだ。
リアは大きく頷いてから、ふと疑問に思ってシティアの顔を覗き込んだ。
「けれど王女、私たちはユウィルがエルクレンツの方に行ったのかも、ユルクの方に行ったのかもわかりません。本当に見つけられるのでしょうか……」
大陸は広い。もしもユウィルが行った方向と反対に向けて歩き出せば、恐らく見つけるのは不可能だ。
だが、シティアは絶対の自信を持って頷いた。
「ユウィルはまずマグダレイナに行く。何も考えられないなら、なおさらね」
「ああ……」
リアは、シティアがいかに聡明であるかを思い出した。マグダレイナはユウィルの出身地だ。人は本能的に家や故郷を恋しがる。もしも今、ユウィルが理性的にものを考えられない状態にあるならば、彼女はマグダレイナに行くだろう。たとえそこに住むべき家がなくても、マグダレイナはユウィルの故郷なのだから。
「わかりました。すぐに用意してきます!」
言うが早いか、リアは駆け出した。まるでこの時をずっと待ちわびていたかのように。
シティアはしばらくそんなリアの背中を見つめていたが、やがてふと顔を上げて呟いた。
「ユウィル……。あなたは、私にも相談できなかったほど追い詰められていたのね……。あなたは私を助けてくれた。だから、今度は私があなたを助けてたい……」
シティアの目から、涙の滴が光って落ちた。
残された研究所の壁にもたれて空を眺めていると、やがてリアが元気良く走ってきた。先ほどまで疲れ切った顔をしていたのが嘘のようだ。
それはきっと、シティアもだろう。
「さあ、行こう」
歩き始めたシティアの顔は、塞ぎ込んでいたこのひと月が嘘のように晴れ渡っていた。
同じように明るい顔で、リアはその隣に並んだ。もちろん、その表情の裏には、ユウィルを見つけるまでは帰らない決意があった。
(必ず見つけて、そして助けてあげる)
二人は心の中でそう誓いを立てると、ウィサン王国を後にした。
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