「おかえり、リア。心配してたのよ?」
本当に心配していたらしい。セリシスの頬には涙の跡があり、もう遅いのに服も外出着だった。恐らく、診療所まで迎えにきて、それからしばらく探し回っていたのだろう。
「ごめんなさい。少しユウィルのことで話があって、シティア王女のところに行っていたの」
そう話してから、そう言えば今日、ユウィルが大怪我を負って診療所にやって来たことを、シティアに話し忘れたと思った。だが、今ユウィルはなるべくシティアに頼らずに生きようとしているので、それで良かったのかもしれない。シティアは強靭な精神力と、持ち合わせる権力で、大抵のことは解決してしまう。それではユウィルはいつまで経っても強くなれない。
「ユウィル、大怪我をしたんだってね。診療所で聞いたわ」
「ええ。今頃家でどうしてるのかしら……」
リアは自分に起きたことなど忘れて、ユウィルが心配になってきた。いや、自分のことを忘れられたのはシティアに話したからである。リアはユウィルの件はともかく、自分のことでは心がすっきりしていることに気が付いて、胸の中で言った。
(シティア王女。やっぱり私は、あなたのおかげで助かりました。どうして、あんな悲しいことをおっしゃったんですか?)
リアが家の中に入ると、ふとセリシスが怪訝な顔をした。そしてリアを呼び止め、服に顔を押し当てる。
「な、何?」
リアは思わずたじろいだが、セリシスは数箇所服の匂いを嗅いでから、険しい表情でリアを見上げた。
「何か……あったの? それで遅くなったのね?」
胸が一度大きく打ち、リアは一瞬呼吸をするのも忘れた。
(どうして、わかったの……?)
リアは慌てて首を振った。
「何もないわ。どうしてそんなことを言うの?」
「それは自分の胸に聞いて。何もないって言うのなら、服を脱いで」
セリシスの語調はあくまで厳しかった。もちろんそれは、優しさから来るものだとわかっている。だがリアは、セリシスには知られたくなかった。あくまでシティアにだから話したのだ。シティアは、リアの過去を知っているから。
「何にもないけど、裸になるのはセリシスの前でも恥ずかしいわ……」
「いいから脱ぎなさい!」
セリシスに怒られて、リアは覚悟を決めた。太股の血は拭き取ったし、傷は治してある。恐らく気付かれないはずだ。
リアは服を脱ぎ、裸になった。恐る恐る胸や腹を見下ろしてみたが、白い裸体に男たちに吸われた跡や、爪で残された傷はない。ただ、男たちの汚らわしい液は、やや黄色く固まって付着していた。リアは一瞬顔をしかめたが、すぐに思い直した。
(大丈夫。セリシスに、これが何かなんてわかるはずがない……)
だが、リアの期待は呆気なく打ち砕かれた。セリシスは、初めからその匂いを嗅ぎ取っていたのである。
セリシスはリアの前に屈んだまま、頭を抱え込んだ。指でくしゃっと自分の髪を掴み、しばらくしてから大きく首を左右に振る。そして、目に涙を浮かべながら、急いで桶に水を汲んで持ってくると、丁寧にリアの身体を拭き始めた。
「セリシス……」
リアは思わず呆然と呟いた。この女性は、どうやら自分が何をされたのか全部理解しているらしい。
途端に、リアは自分が情けなくなり、無性に悔しくなってきた。
「見ないで、セリシス! やっぱり見ないで!」
リアは思わずその場に屈むと、両手で自分の身体を隠した。セリシスは零れ落ちた涙を拭うと、少し困った顔をしてそっとリアの身体を抱きしめた。
「ねえ、リア。話したいことがあるの。奥に行こっ?」
リアは、頷く他になかった。
セリシスはリアに服を着せると、寝室に入って、リアをベッドに座らせた。自分もその横に座り、軽くリアを抱きしめながら言う。
「教えて、リア。どうして、あんなに平気そうだったの?」
「……え?」
唐突な質問に、リアは思わず声を裏返した。セリシスはじっとリアを見つめながら、わずかに声のトーンを落とした。
「男の人たちに……乱暴されたんでしょ? 隠さなくていいわ。シティア王女のところでいっぱい泣いてきたの? だからあんなにも平気そうだったの?」
セリシスの言葉に、リアは先ほどのシティアとの面会を思い出した。
自分は淡々と事実を告げただけで、一度として泣いてなどいない。帰りに泣いたのも、シティアに見捨てられたような気分になったからであって、思えば犯されたことには一度として泣いていなかった。
「王女のところでも泣いてないわ。うん……本当はユウィルのことじゃなくて、この話をしに行ったんだけど……。別に悲しくないの。おかしい?」
リアが表情をゆがめて聞くと、セリシスはやや瞳を鋭くして頷いた。
「おかしいわ。悲しいことを悲しいと思えないのはおかしいわ。だって、力尽くで男の人に乱暴されるのは悲しいことよ?」
リアは床に視線を落とし、額を押さえて目を閉じた。セリシスの言うことはもっともである。理性的にはわかる。だが、どうしても悲しくならないのだ。
「私……自棄になってる?」
シティアに言われた言葉。
セリシスは少し首を捻ってから、「わからない」と答えた。
「わからないけど、今のリアは、乱暴された後には見えないわ。むしろ清々しい気分でいるようにさえ思える。シティア王女がその人たちを罰したって、乱暴されたことに変わりはないわ。悲しくないの?」
あまりにもセリシスが心配そうに言うので、だんだんリアはむしゃくしゃしてきた。おかしいと言われて嬉しい者はない。
「悲しくないわ。でも、それは人それぞれでしょ? セリシスだって、犯されてみたら案外悲しくないかもしれないわよ? 犯されたら悲しいはずだなんて、想像と実際は違うのよ!」
リアは思わずセリシスの手を振り解いて、立ち上がりながらそう怒鳴った。それでセリシスを傷付けたとしても、言わずにはいられなかったのだ。
セリシスは悲しそうに瞳を落として、静かに首を振った。そして、小さな声で呟くようにこう言った。
「私は、悲しかったわ。だから言ってるのよ……」
「セリシス……?」
目の前の、桃色の髪をした貴族の女性の突然の告白に、リアは頭の中が真っ白になった。セリシスはそんなリアを見上げて、今にも泣きそうな顔で話した。
「私、リアスのスラムで、あなたみたいに乱暴されたの。いつでも前向きに生きようって努力してるけど、時々思い出して悲しくなることがある」
「じゃ、じゃあ、セリシスも……」
リアは力が抜けて、再びセリシスの隣に腰を下ろした。セリシスはもう一度リアを抱きしめ、その肩に頬を寄せた。
「私、マグダレイナでフィアン王子に求婚されたの。でも、断ったわ。もう貴族じゃなかったこともあるけど……やっぱり引っかかったのよ、あのことが……。リアみたいになるのが正しいのかもしれない……。悲しくないって思えた方がいいのかな……」
リアは大きく首を振った。
「そんなことない! ごめんなさい! やっぱり私がおかしいのよ。私が、もうこの身体に、なんの愛着も持ってないから……」
リアは急に込み上げてきた涙を堪えきれずに、声を上げて泣き出した。そしてセリシスにすがりついてしばらく泣いてから、やがて涙声で話し始めた。
「私、去年の夏に、盗賊たちに捕まっていたの。その時に、毎日犯されていたのよ。4ヶ月間、毎日よ? 初めは悲しかったわ。でも、だんだん麻痺してきて、どうでもよくなってきて、言われる通りにして……。毎日されてみて? 妊娠だってするわ! 誰のかもわからない子供を作らされて、結局無理矢理堕ろさせられて……。どうでもよくなるわ! 犯されたって、なんとも思わなくなる! ねえ、セリシス! しょうがないでしょ? しょうがないよね?」
セリシスは頭を抱えた。ひょっとしたら、リアが過去にも犯されたことがあるのではないかとは思ったが、まさかそこまでひどい扱いを受けていたとは思わなかった。
「シティア王女は、それを知っているのよ……。だから、王女には話せるの」
「それは……やっぱり自分の身体が好きだから、他の人には話せないんでしょ?」
セリシスが悲しそうに尋ねたが、リアは首を振った。
「違うわ。心を守っているのよ。身体のことで心を傷付けられるのが嫌なの。身体はもう、どうでもいいの。月役はあるけど、子供だって作れるどうかわからないわ。ひどく痛めつけられたもの。なんとも思わない。今だって、やっぱり悲しくない。泣いたのは、心が痛いからよ」
「身体が傷付けられたから心が泣いてるのよ! リア、心と身体は分離しないわ! ねえ、リア。私はあなたの気持ちをわかってあげられる。支えてあげられる。反対に、私も辛いとき、あなたに支えて欲しい。我慢しないで。あなたは、無意識の内に我慢してるのよ。我慢することを、身体が覚えちゃったのよ」
リアはセリシスの泣き顔を見ていたら、少しずつ自分も悲しくなってきた。セリシスの言う通り、心に錠をしていたのかもしれない。盗賊の城に幽閉されていたとき、悲しみのあまり気が狂いそうになった。そのせいかもしれない。
「私は……私だって、悲しかったわ! なんでこんな目に遭わなくちゃならないんだろうって、何もかもを呪って、でもどうにもならなくて! もう、何も感じなくなるしかなかったの! セリシス、ごめんなさい!」
リアはセリシスに抱き付き、その身体を思い切り引き寄せて声を上げた。
ようやくシティアの言った意味を理解した。シティアではいけなかったのだ。リアのことを、同じ立場で親身になって考えることができる人間でなければ。
セリシスも同じように泣いてから、やがて軽くリアの背中を叩いて言った。
「二人で頑張って乗り越えよ? 仕方ないもんね。でも、さっきまでのリアみたいになるのが、乗り越えるってことじゃないわ」
「うん。悲しいことは悲しいって受け入れて、その上で生きていくことを言ってるんでしょ? 私は、悲しいことを悲しくないって思うようにしてただけ……」
リアは大きく頷いて顔を上げた。そしてにっこりと笑い、セリシスに「ありがとう」と言った。
「ものすごく悲しくなってきた。胸が押し潰されそう。だけど、それでいいのよね?」
「うん……」
セリシスは切ない微笑みを浮かべて頷くと、そっとリアを胸の中に抱き入れた。
リアは泣いた。今日の分も、そして盗賊たちに犯された分も、悲しみも憎しみも恨みも、絶望や虚無や殺意、何もかもを吐き出すように泣いた。
その間、セリシスはただ優しくリアを抱きしめ、その髪を撫でていた。そして、リアに気付かれないように、自分も少しだけ涙を流した。
翌日、ロナルディーは仲間の三人と会っているところを捕縛され、連行された。兵士たちは強姦の罪だと言ったが、相手の名は明かさなかった。ロナルディーらが無実を訴えると、シティア自ら兵士たちを下がらせて彼らの前に立った。そして冷酷に言い放った。
「無理矢理女の子に乱暴しただけでは飽き足らず、嘘までつこうって言うわけ? 素直に認めたら国外追放で許してあげる。だけど、あくまで無実だって言い張るなら、乱暴された本人を連れてくるわ。そして、あなたたちはみんな死刑よ」
ロナルディーは渋ったが、他の三人があっさり認めたために、止むを得ずロナルディーも罪を認めた。
シティアとしては悪人を殺すことにまるで抵抗を覚えなかったので、できることなら殺してやりたかったが、仕方なく四人を国外追放にした。
直接兵士たちが目撃したもの以外、強姦では死刑にできないのである。死刑を宣告すれば男たちは最後まで犯行を否認するだろうし、小賢しい女が嫌いな男を狂言で死に陥れるかもしれない。結局、強姦は証明する術がなく、両者にプレッシャーをかけてどちらかに自供させるしかないのだ。
男たちが追放された後、リアはシティアに礼を言いに言った。そして、シティアの言っていた意味を理解し、セリシスに助けてもらったことも話した。もちろんセリシスも犯されたことがあるとは言わなかったが、シティアは何も言わずにただ大きく頷いただけだった。
そして、明るい瞳で笑った。
「よかったね、リア。これかも辛いと思うけど、私もできるだけ力になるわ」
「はい。ありがとうございます!」
リアはぺこりと頭を下げてから、診療所に向かった。また、ユウィルの味方でありながら、ユウィルに傷付けられた人々のために働かなくてはならない。
自分で望んでそうしているが、辛くないはずがない。けれど、ユウィルだって辛いし、ユウィルの味方をするリアに頼られなければならない人たちも辛いだろう。
(みんな辛いんだから……。私にはシティア王女やセリシスがいる。ずっとずっと恵まれてる……)
リアは晴れやかに笑った。
セリシスと暮らすようになってまだ日は浅いが、彼女の前向きな精神が少しずつ自分にも宿ってきたように思える。シティアは、それを狙った上で一緒に住むよう言ったのかもしれない。
(後は、ユウィルが元気になってくれれば……)
リアは真剣な表情で空を見上げた。
望まず、多くの人々を傷付け、傷付いた小さな魔法使いの少女。お節介は焼くまいと決めているから、助けを求められるまで助けるつもりはないが、あの少女は今日もまた家で泣いているのだろうか。それとも、外で悲しい目に遭っているのだろうか。
ユウィルを助けたい。
自分が救われた今、リアの優しい心は、ただそのことでいっぱいになっていた。
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