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ウィサン、悪夢の日
湖の街ウィサンの象徴とも言うべき魔法研究所の、突然の崩壊。平和なウィサンを襲ったこの事件が、人々の間に大きな悲しみと怒りを巻き起こす。多大な犠牲者を出したこの事件は、たった一人の魔法使いの少女によって引き起こされた。人々は少女を憎み、傷付ける。だが、図らずも自らの手で多くの仲間を殺した少女もまた、心に深い傷を負っていた。少女と少女を励ます仲間たち、そして少女を恨む人々の想いが交錯し、新たなる悲しみがウィサンの街を埋め尽くす……。
まえがき

2章 絆

 数日後の朝、ユウィルは言い知れぬ不安に襲われて目を覚ました。身体を起こすと、隣で寝ていたシティアが小さく寝息を立てて向きを変える。敵意すら察知して目を覚ます王女だが、ユウィルが隣で動いても起きることはない。心から安心しているのだろう。
 ベッドから起き上がると、部屋の中はいつになく冷たい空気に包まれていた。格子を空けて外を見ると、一段と冷たい風が入り込んできて、ユウィルは一度身震いした。
 すでに空は白み始めていたが、街の上には分厚い雲が立ち込め、ふんわりと白い雪が舞っていた。初雪だ。眼下に目をやると、朝早くからセリシスの護衛の二人がはしゃぎ回っている。ユウィルと同じくらいの歳だが、随分幼く見えた。
(なんだろう……。すごく、不吉な予感がする……)
 じっと街の方を見つめながら、ユウィルは胸の中のもやもやする気持ちに、眉をひそめた。もう一度ベッドに戻ったが眠ることはできず、シティアの寝顔を見つめていても、落ち着くどころか不安は募るばかりだった。
 そして朝になり、食事を摂り、いつものように研究所に向かおうとして、ユウィルはドアの前で一度足を止めた。部屋の中を振り返り、靴を履き替えていたシティアの方を見る。
 シティアは怪訝そうに顔を上げて、かすかに微笑んで言った。
「どうしたの? なんだか顔色が悪いわよ?」
 ユウィルは、何も答えられなかった。シティアに救いを求めるにしても、胸の中の不安は漠然とし過ぎている。
「なんでもありません。ただ、シティア様の顔を見ておこうと思ったんです」
 あまり考えずにそう言うと、ユウィルはぺこりと頭を下げて部屋を出た。
 シティアは、ユウィルの言葉に背筋が寒くなるのを感じた。あの物言いは、まるでこれから死地へ向かう戦士ではないか。
「ユウィル……」
 シティアは靴紐をきつく締めてから、膝に手を置いて床を見つめた。そして顔を上げて背筋を伸ばすと、一度気を引き締めてから剣を取った。

 街に出たユウィルは、絶えず周囲を警戒しながら歩いていた。
 城では気にならなかったが、街に出た途端、あからさまな殺意を感じたのだ。ただ、すぐそこに刃が潜んでいるような感覚ではない。街全体の空気が凛と張り詰めている感覚。
 ユウィルは、もちろん死ぬつもりはなかった。すでに天涯孤独の身だが、自分が死んで悲しむ人がいる。この命はシティアのものなのだ。殺されるわけにはいかない。
 建設現場では、なるべく一人でいるようにした。昼過ぎには雪はやみ、雲間から陽が差し込んだが、空気はますます重くなるばかりだった。
 タクトが心配して声をかけて来ると、ユウィルは自分の推測を確信に変えるために聞いてみた。
「タクトさん、今日はなんだか街の空気がいつもと違う気がしませんか?」
 タクトは首を傾げたが、じっと街を見渡し、空気を感じ取るようにした。それから、首を捻って答える。
「そう言われればそんな気がしないでもないが、自分の気持ちの問題じゃないのか?」
 ユウィルは何も答えなかった。推測を確信に変えることはできなかったが、自分の考えを捨てる気はなかった。
 ユウィルの推測とは、体内の魔力が周囲の殺意を感じ取っているというものである。もちろん、シティアのように、実戦の経験と第六感でそれを察知する者もあるが、ユウィルが人よりも敵意を感じ取るのは、恐らく魔力のせいだ。
 ユウィルは誰にも話していないが、しばらく前からその可能性をずっと考え続けていた。そしてもし、この推測が当たっていたとしたら、やはりこの周囲を包み込む殺意は気のせいではない。
 夕方、シェランとリアが一緒に帰ろうと声をかけてきた。今日は珍しく、リアが診療所ではなくこちらに来ていたので、リアの家に寄ってセリシスも交えて4人でお話ししようと言うのだ。研究員の中に女性はいたが、彼女たちくらいの女の子は4人しかいなかったので、4人は時々親睦を深めるために集まっていた。
 ユウィルは一瞬誘いに乗りかけたが、すぐに断った。
(今日はダメ……。あたしはきっと襲われる。シェランたちを巻き込みたくない……)
 二人は残念そうにしたが、ユウィルがシティアの名を出すと素直にあきらめた。
 二人が背を向けたとき、ユウィルは突然、自分が闇の中に取り残されたような気分に襲われた。思わず「あっ」と声を出して手を伸ばしたが、二人はそれに気付かなかった。
(もう二人に会えない気がした……。あたし、やっぱり死ぬのかな……)
 ユウィルは二人とは反対の方向に駆け出した。今から全走力で城に戻り、シティアのそばでじっとしていれば死ぬことはない。明日になればこの感覚も消えるかもしれない。
 ユウィルは息を切らせて駆け、とうとう城の門に辿り付いた。一度呼吸を整え、背後に広がる街並みに目をやった時、ユウィルは空気の淀みが薄れているような気がした。そしてタクトの言葉を思い出して、表情を綻ばす。
(タクトさんの言う通りだったんだ。あたしの推測は間違ってた。もう大丈夫だって思ったから、きっと敵意を感じなくなったんだね)
 小さく笑って一歩城門への橋に足を踏み出した時、突然とてつもない悪寒が背筋を走り、ユウィルは冷や汗をかいてよろめいた。脳裏にシェランとリアの姿がよぎり、かすんで消えた。
「そ、そんな……そんなこと……」
 ユウィルは思わず目眩がして膝をつき、ユウィルのことを知っている見張りが駆け寄ってきた。ユウィルは彼らに大丈夫だと答えると、すぐに元来た道を引き返した。
(どうしてそんなことするの……どうして!?)
 ユウィルは泣きながら走った。涙が止め処なくあふれ、頬を伝う。
「もうやめてよ!」
 ユウィルは走った。

 その頃、シェランとリアはのんびり話をしながら歩いていた。
「それにしても、あたしが誰かに魔法を教えることになるなんてね……。今度の改革は、あたしにとっても試練ね」
 シェランは頭の後ろで手を組みながら、あっけらかんとそう言って笑った。今まで自分が強くなること以外に何も考えたことのないシェランに、タクトは教師として魔法の知識を広めることを命じたのである。
「自分にしかできないことをして、人に喜ばれるのは、気持ちのいいことよ? だから私は、私のところに来る人たちに治療の魔法を使う。タクトさんはあまりいい顔をしないけど、やっぱり私は、私の力で助かる人がいるなら助けてあげたい」
 リアが優しい瞳でそう言うと、シェランは感心したように頷いた。
「リアもユウィルも、あたしより年下なのに、ほんとに立派な考え方してるよね。あたしには考えられない」
「シェランも、みんなを諭すときと同じように、生徒になる人たちに魔法の知識を教えるだけよ。きっと喜ばれるわ。魔法使いなら誰でもできるって仕事じゃないし、実際私には向いてないと思う。タクトさんも、シェランにならできると思って言ったのよ」
 シェランは少し考えてから相槌を打ち、顔を上げた。前方にリアの家が見えてくる。明かりは灯っていないので、まだセリシスは帰ってないようだ。
 家の入り口まで後少しというところで、突然道の脇から20人ほどの人間が現れて、二人を取り囲んだ。女もいるし、だいぶ歳を取った者もあるが、やはり若者が多い。それに、魔法使いも少なくなかった。
 二人は大きく目を見開いて、無意識に身を寄せ合った。
「あ、あんたたち、なんのつもり?」
 シェランが気丈に怒鳴りつけたが、彼らは何も言わずに二人に襲いかかり、無理矢理手足を押さえつけて人気のない路地裏に連れ込んだ。地面の上に転がされ、シェランは手首を捻ったが、気にせず立ち上がって再び睨み付けた。
「何するのよ! あたしたちに乱暴しようっての? 恨む相手が違うんじゃない?」
 もちろん、ユウィルに手を出されても困るが、何もしていない自分たちが襲われるのも理不尽だ。
 青年の一人が余裕のない表情で言った。
「いや、お前らでいいんだ。あいつの大切な人間を殺すことが、あいつに大切な人間を殺された俺たちの復讐なんだとわかった」
 青年は片手にダガーを持って、冷酷な瞳を向けた。
 シェランは小さく悲鳴を上げて後ずさりした。犯されるかもしれないとは思ったが、まさか殺されるとは考えてなかった。
 シェランは魔法使いだが、戦闘経験はない。そもそも、魔法は戦いのためにあるのではないのだ。
 リアの方を見ると、同じように青ざめて、身体を震わせていた。心優しいこの少女は、恐らく自分よりも遥かに攻撃に使える魔法を知らないだろう。
「あたしは突撃をかけて向こう側に抜ける。リアは、その隙に上から逃げて」
 シェランは小さな声でそう言うと、大声を上げて20人の人の群れに突っ込んだ。
 だが、所詮は武器もない非力な少女である。誰かに振り下ろされた剣を躱すことができず、左腕をざっくりと抉られてそのまま地面に倒れ込む。
 腕がちぎられたように痛んだ。呻きながら右手で押さえると、ねっとりとした血の感触がした。
 薄目を開けてリアを見ると、すっかり怯えて、大きな瞳に涙を浮かべて震えていた。あの状態では魔法など使えそうにない。
(もうダメ……。ごめんね、ユウィル……。泣かないでね……)
 シェランは無理矢理立たされると、壁に押し付けられた。そして、鋭いナイフが太股に深く突き刺さり、あまりの痛みに絶叫する。
「シェラン……」
 か細いリアの声。シェランは、すべての殺意が自分に向けられている今なら逃げられると思ったが、リアにそんなことができるはずがない。例え魔法を使えたとしても、自分を置いて逃げるはずがない。
 ナイフが引き抜かれ、次は腹部にめり込んだ。
「うがぁっ……」
 シェランは絶叫し、苦痛に顔をゆがめた。
 息絶え絶えに自分を押さえつける男を見ると、血走った目はすでに正気とは思えず、自分がしていることの重さもわかっていないように思えた。周りには血まみれのシェランを見て青ざめている者もあるが、大半はすでに引き返すことができない道を歩く覚悟ができているようだった。
 男はナイフを刺し込んだまま、その切っ先をぐりぐりと回した。内臓をずたずたに引き裂かれ、シェランの口から血が溢れる。急速に意識が遠退き、シェランは最後に恋人の顔を思い出した。
 ユウィルがようやくその場に辿り付いたのはその時だった。
「卑怯者! どうして関係ない人を巻き込むの!?」
 ユウィルは泣きながら叫んだ。怒りに全身を震わせ、暴走する魔力に髪の毛が揺れる。
 若者たちは思わずたじろいだが、すぐに形勢は自分たちの方が有利だと考え、わざとシェランが見えるように道を開けた。
「動くな! 動けば、こいつも向こうの女も殺す!」
 ユウィルはひるまなかった。
「どうせみんな殺す気なんでしょ? その前にあたしがお前たちを殺してやる!」
 ユウィルは両手に魔力を集めた。あの夏の日よりも遥かに強い怒り。もはや抑制できそうになかった。
「ダメよ、ユウィル!」
 唐突に、シェランが叫んだ。ユウィルがはっとなってシェランを見ると、魔法使いの先輩はぜえぜえと荒く息をしながら、優しい瞳でユウィルを見つめていた。
「怒りに身を任せちゃダメ。繰り返さないで……」
「だ、だけど……」
「あなたにできるのは訴えることだけよ! リアも逃げてよ!」
 それだけ叫ぶと、シェランは再び血を吐いて、ついに意識を失った。
「シェラン!」
 ユウィルは叫んだが、身体を動かすことができなかった。
 シェランの言う通り、ユウィルには目の前の人間を殺す権利がない。シェランは自分と血を分けた姉妹でもないし、自分が危害を加えられたわけでもない。ここで彼らを殺せば、またあの日の過ちを繰り返す。そんな気がしたのだ。
 男が押さえつけていた手を離すと、シェランの身体は力なく崩れ落ちた。
 ユウィルが研究所に入ったときから、ずっと仲良くしてくれた、姉のような存在だった。いじめられていたときも何度となく庇ってくれて、間違えたときには声を上げて叱ってくれた。
 いつもそばにいて励ましてくれた少女。もしもシティアがいなかったら、今ユウィルの心の支えになっていたのはシェランだったかもしれない。それくらい、大切な人だった。
 ユウィルが拳を固めて立ち尽くしていると、男たちは今度は怯えたまま動けずにいるリアに襲いかかった。
「リアッ!」
 ユウィルが悲鳴を上げる。振り上げられる剣、青ざめるリア。
 刹那、鋭く風を切る音がして、剣を持った男の頭に、矢が突き刺さった。
「ユウィルのバカ。友達を助けるのに躊躇は要らないのよ」
「シティア様!」
 振り返ったそこに、ユウィルですら息を飲むほど冷たい瞳をした王女が立っていた。

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