一面、文字で真っ白に染まった黒板は、すでに何度も書いては消され、消しては書かれた後で、黒板の字の書かれていない部分も、黒板消しの布も、白っぽく変色している。
『白粉の中西』と異名をとる、日本史の中西先生の授業である。その名の通り、黒板の下のチョーク置き場は、チョークの消し粉が高く積もり、そこから何度もチョークや黒板消しを持ち直している中西の手も、真っ白に染まっていた。
(しかし、よく書くなぁ……)
そう思ったのは、今日だけでももう3度目だから、初めて中西の授業を受けてからでは、数え切れない。
しかし、それよりも俺がもっと感心するのは、授業を受けている連中である。クラスの全員とは言わないが、圧倒的大多数の生徒が、中西の書いていることを、必死にノートに書き写しているのだ。
カリカリカリカリ……。
ペラッ。
カリカリ……。
鉛筆の音と、時々ノートをめくる音が教室内を埋め尽くしている。それらの他に、まれに中西の発する声の他、音はない。
そんな中で、俺はというと、頻繁に教室の時計を見ながら、ぼんやりとノートに落書きをしていた。端から見ると、みんなと同じように黒板を書き写しているように見えるかも知れない。
もちろんそれを、不真面目だとは思っていないし、書き写すだけが真面目だとも思わない。時々中西が喋る大事そうな箇所はしっかりとノートに取っているし、何も書き写した分、すべてを理解できるわけでもないだろう。
事実、俺はこのやり方で学年の上位にいるし、今目を血走らせてノートを取っている連中の中には、俺よりも成績の悪いヤツがごろごろいる。
いや、別に自慢しているわけでも、彼らを皮肉っているわけでもない。彼らだって、本当はわかっているのだ。自分たちのしていることが、いかに愚かなことであるかを。
ただ、ではどのように勉強すればいいのかがわからない。中学生の頃から、あるいは小学生の時分からそうやって続けてきた勉強方法を、突然変えられるはずがない。それに、みんなが必死に写しているのに、自分だけ違うことをしていると、落ち着かないという連中も多いだろう。
ただ、与えられた課題をこなし、一番一般的な方法でのみ勉強して、着々と成績を上げていく生徒たち。そんな連中の集まる学校なのだ、この浜北島高校というところは。
県内で最も有名な進学校。俺はその高校に、「家から歩いて通える距離にあるから」という理由で入学したのだが、どうにも学校全体から感じられる雰囲気が肌に合わない。
特別何かスポーツをしているわけではなかったけれど、俺には体育会系のノリの方が合っているようだ。
もっとも、そんな超進学校だから、入りたくても入れないヤツだっているわけで、特に苦労せずに入った俺が、そんなことを言ってはいけないとは思う。思いはするが……後悔というのは、常に先にはできないものなんだと実感した。
(あと5分か……)
なんだかもう3時間くらい授業を受け続けている気分である。俺は欠伸をしながら窓の方に目を遣った。
一番窓際の列の女子生徒の頭の向こう、ガラス越しに背の高い樹の枝が広がっていた。恐らく有名な樹なのだろうが、名前は知らない。落葉樹のようで、すでに葉のほとんどが枯れて、地面に落ちていた。
そしてその枝の間に、青空が広がっている。今日は雲一つない快晴だった。俺はそんな空を眺めながら、一日中「こんな日にずっと学校にこもっているなんてもったいない」と思っていたのだが、もうじき日も沈んでそんな今日も終わりを告げ、快晴は見事な星空に変わるだろう。
あと、3分……。
まさに秒単位で残り時間を心の中で数えていると、不意に隣の女性生徒が俺を見つめているのに気が付いて、俺は彼女を見た。
本村綾理。この学校の、俺と気の合う数少ない友達の一人である。
『相変わらず暇そうね、藤岡君』
本村は瞳でそう訴えて、にこりと笑った。
この、「相変わらず」というのがネックなのだが、暇そうなのは向こうも同じで、彼女の机に開かれたノートには、何やら雪だるまがクマと相撲を取っている、よくわからないマンガが描いてあった。
『そういうお前こそ、相変わらずじゃないか』
俺もそう瞳で訴えようと思ったけれど、出来ないからやめておいた。それは授業が終わってから言うことにして、曖昧に微笑み返してから教室の時計に目を戻した。
15時50分。
キーンコーンカーンコーン……。
ようやく聞こえてきたチャイムの音は、空腹時に好物を腹一杯食べたときに感じるそれに似ていた。
クラス委員の起立、礼が終わるや否や、一斉に教室内が騒がしくなる。ここら辺は、進学校でも他の学校でも同じらしい。俺は早速本村に声をかけた。
「さっきの、何描いてたんだ?」
さっきの、というのは、当然さっき見た意味不明のマンガのことだ。彼女は授業中の暇なとき、よくああしてマンガを描いている。
「ああ、これ? 面白いよ」
そう言いながら、彼女は俺にノートを渡してきた。
自分で自分のマンガを「面白い」と言いながら渡すヤツも珍しいが、本村は時々授業中に自分で描いたマンガを見て、必死に笑いを堪えては肩を震わせているようなヤツなので、それくらいでは俺も動じない。
俺は何事もなかったように、ノートを開いて中を見てみた。
結構長い。4ページほどある。
ただ……。
「…………」
そこに描かれていたのは、さっきちらっとと見えた雪だるまとクマが相撲しているマンガだったが、ただそれだけだった。相撲を取る雪だるまとクマが、4ページに渡って延々と描かれているのだ。
なかなか達者な絵で、様々なアングルから、時々クマが優位に立ったり、雪だるまが優位に立ったりしている相撲の風景が描かれているのだが、とにかく見ていて面白くない。
よくもまあ、こんなくだらないものを、真剣な顔して黙々と描けるものだと思ったら、俺は本村という人間に対して笑いが込み上げてきた。
「ねっ、面白いでしょ。雪だるまがクマと相撲してる、この発想がいいよね」
わかっているのかいないのか、本村がそんなことを言いながら、嬉しそうに俺からノートを取って、それをカバンにしまった。
つくづく、この学校には珍しいタイプのヤツだと思った。しかも俺同様、こういうヤツに限って頭がいいのだから、世の中わからないものだ。
「それじゃ、藤岡君。また明日ね」
学年4位の女は、笑顔でそう言って、教室を出ていった。
俺もため息を一つ吐いてから、机の中の教科書類をカバンに押し込んで帰路についた。
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