そして迎えたクリスマスイブの今日も、冷たい風の吹きすさぶ日になった。最低気温は氷点下に達し、最高気温も4度だとか5度だとか。
雲に覆われてどんよりとした午後、俺はミエと二人で部屋にいた。朝から暖房が入りっぱなしになっているが、やはり外が寒いために、いつもと同じ設定温度でもどことなく寒く感じられる。
「図1において、∠DAC=50°のとき、弧BFの長さと、弧FEの長さの比をもっとも簡単な整数の比で表せ」
問題文をブツブツ読みながら、ミエが広げた問題集とにらめっこしている。朝からずっとこうして勉強しているのだが、ミエはどことなく嬉しそうだった。
もちろん、いつか約束した、「イブはずっとお兄ちゃんといたい」という願いが叶ったからである。ミエにとって、自分の願いが叶うというのは、それがたとえどんな些細なことであっても、特別な意味を持っているのだ。
カリカリとシャープが黒く染め上げていくノートには、幾つかの図形が描かれていた。中学数学は図形が多い。俺はそれらをあまり得意としていなかったが、ミエほど苦手ではなかった。
「えっと、∠DACと∠ACBが錯角で等しいから、∠DCA=40°で、5:4と。んじゃ、次……」
それでも、だいぶ学力が上がってきたミエには、もはや通常の中学レベルの問題は敵ではなかった。比較的幼く、感情的に行動する割には、反面論理的なものの考え方も好いているらしい。もっとも、人の行動を一面的かつ一意に決定付けようとするのが、そもそも間違いなのかも知れないが……。
「お兄ちゃん?」
不意に呼ばれて、見るとミエが訝しげに俺を見上げていた。
「ん?」
「どうしたの? 難しそうな顔して」
「あ、いや……」
思考が表情に現れていたらしい。俺はミエに先を促してながら、無理矢理微笑んで見せた。ミエは「変なお兄ちゃん」と呟きながら、再び問題に取りかかった。
実はこのクリスマスイブの日を迎える前にも、やはり幾つかの障害が俺たちの前に立ちはだかった。
まず俺だが、終業式の日に、本村を初めとする友人数人に、駅へ遊びに行こうと誘われた。これは俺の浜北島における学校生活ではかなり珍しいことで、俺はその誘いに惹かれたけれど、結局はミエとの約束を優先して断った。
もちろんその理由は彼らには話してないから、このことが彼らに与えた印象と、今後の俺の学校生活にどんな影響を与えたかを思うと、やはりこれはミエに取り憑いている「何か」の悪ふざけとしか思えなかった。
恐らく、本村以外の連中は、俺を、その他大勢の「付き合いの悪いヤツ」だと思ったことだろう。
そして、ミエの方もまた障害に阻まれた。吉浦中学で企画された、「高校合格に向けての補習」というヤツである。これは強制参加であり、俺の障害と比較してかなり手強かった。
それでもミエは、俺のために今日の補習をさぼった。もちろん親は満足しなかったけれど、それでもミエにしては珍しく意見を押し通したのだ。曰く、「学校の補習のレベルでは浜北島合格は無理だから、家でお兄ちゃんに教えてもらってた方が勉強になる」。
そもそも、クリスマスイブの、しかも日曜日に補習をするのが間違いなのである。もちろん、世間一般では、「受験生には盆も正月もない」と言われるくらいだから、当然それを推奨する先生方には、「イブもクリスマスもない」のだろう。
ミエに限らず、この補習に関しては、クラスのかなり多くの生徒から反発があったらしいが、結局生徒には、大人たちの取り決めたルールを突き崩すことはできなかった。
それでも、イブという特別な日を大切にしたがる男女は、いくら中学生とはいえ多いことだろう。俺は、今日の出席率に非常に興味を抱いた。
それはともかく、こうして俺とミエは、今日という日の小さな約束に漕ぎ付けた。「イブに一緒にいる」という、たったそれだけの約束に、これだけの苦労をした。
一体、ミエが浜北島に入学するためには、どれだけの苦労が必要なのだろう。
俺はもちろん、ミエもそのことは決して口にしなかったけれど、確実にそう思っているはずだった。ミエの前途は多難だった。
何事もなく夜が来て、11時を回った。何事もなく、というのは、我が家にはクリスマスというのが無縁である、という意味である。高2の男にはもちろんのこと、ミエもまた、もう中3にもなって、サンタクロースからのクリスマスプレゼントがある方が怖い。二人とももうそういう歳ではなかった。
それでも何か記念日というものに、特別な思いを抱くのが女の子というものであり、ミエもまたその例外ではなかった。ミエはいつも一緒にいるにも関わらず、ただ今日がクリスマスイブであるというそれだけで、俺といた一日に対して、何か違う印象を受けているようだった。
「今日はありがとう、お兄ちゃん。楽しかったよ」
勉強を終え、シャープと消しゴムを筆箱にしまいながら、ミエが恥ずかしそうに言った。もちろん、「楽しかった」のは俺といたことであって、勉強していたことではないだろう。もしそうだとしたら、残念だけれど、ミエには浜北島高校に入る素質がある。
俺は照れながら、「ああ」とぶっきらぼうに言って立ち上がった。そしてカーテンを少し開け、窓から外を見た。
隣家の明かりに、小さな白い結晶が映し出されていた。この寒さだ。明日には積もるかも知れない。
「おい、ミエ。雪が降ってるぞ」
俺が呼びかけると、ミエはノートと筆箱、それから参考書を乱暴に机の上に放り投げて、嬉しそうに駆け寄ってきた。
「どれどれ?」
後ろでバサバサっと、参考書の落ちる音がして、俺はその「落ちる」という語の持つ響きに渋面になった。我ながら、神を信じない割に、そういう迷信じみた風習を信じるらしい。それが日本人なのかも知れない。
ミエはカーテンをバッと開けると、窓に額をくっつけて外の闇に目を遣った。それから俺を見てにっこりと微笑む。
「明日はホワイトクリスマスだね、きっと」
「そうだな」
雪というものに、いつの間にか魅力を感じない歳になっていたが、それでもミエが嬉しそうだったから俺も雪に感謝した。
俺は目を輝かせているミエの頭をそっと撫でると、穏やかに言った。
「今夜は寒くなるから、風邪引かないようにな。お前は寒さに弱いんだから」
帆夏ちゃんほどでないにしろ、ミエも相当寒さに弱い。いや、実際には寒さに弱いのではなく、温度変化に弱いのだった。身体は丈夫なのだが、季節の変わり目にはよく風邪を引く。
ミエもそれをしっかりと自覚しているようで、「風邪」という言葉に一瞬眉をひそめた。
「風邪は怖いね」
「そうだな。気を付けろよ」
「うん」
ミエは固い面持ちのまま頷いてから、何か思い付いたようにパッと顔を輝かせた。それから目を大きく見開いて、俺に笑いかけた。
「そうだ! お兄ちゃん、一緒に寝よっ!」
「……は?」
一瞬、俺の内部で時が凍り付いた。俺は耳を疑ったけれど、聞き間違いではなかった。
何か素晴らしい提案をしたかのように、ミエが小躍りしながら小さな両手で俺の手を握った。
「一緒に寝たらあったかいから、風邪引かなくて済むよ。それで、明日のホワイトクリスマスは、起きたときから一緒にいよっ!」
なるほど。まったく可愛らしい、純粋な意見だった。
ミエは心の底から俺を慕っている。それは、男としてではなく、頼りになる「お兄ちゃん」としてだった。
しかし俺は男である。ミエを、妹であると同時に、一人の女の子としてもまた見つめていた。それは、無垢な妹の心を踏みにじるような事実だったろうが、存在する思いはもはやどうにもならなかった。
「ミエ。兄妹は普通、一緒に寝ないぞ?」
俺はひどく一般的な倫理でミエの誘いを回避しようと試みた。実のところ、本音を言えば、ミエと一緒に寝るのは大賛成だったけれど、それはミエの求める同衾とは動機が異なった。
けれど、ミエにはそんなことがわかるはずもなく、俺の発言に対して不満そうに唇を尖らせた。
「ええっ!? 昔はよく一緒に寝たよ?」
「昔は昔、今は今だろ」
「私は何も変わってないよ」
まったくだ。心は変わっていない。俺はため息を吐きながら思った。
けれど、一緒に寝たことのあった小学校の低学年の時分とはもう、身体が違う。俺はあまり不躾にならないように、そっとミエの身体に目を遣った。
ほっそりとした肢体と、そこかしこに丸みを帯びたボディーライン。胸は小振りで、ブラジャーは着けておらず、白を基調とした水玉のパジャマに、わずかに胸の形が浮かび上がっていた。
少女から、一人前の女性へと変わっていく過程の身体。俺は今、この少女と一緒に寝て、果たして何もせずにいられるのだろうか。
俺は理性と欲望の間に苦悩を見いだした。
そんな俺を見て、ミエが悲しそうに瞳を揺らした。
「お兄ちゃん。あの、嫌だったら別にいいんだよ? 無理しなくても……」
その一言で、俺の中に、欲望の背中を押す声があがった。
『ミエが一緒に寝たがっているなら、そしてミエを喜ばせてあげたいなら、一緒に寝ればいい』
悩むことはなかったのかも知れないと思ったのは、ミエの純心を汚してしまったのと、婉曲的に等価であろうか。
俺は、できる限りの笑顔を妹に向けた。
「ごめんな、ミエ。本当はお兄ちゃんも、ミエと一緒に寝たかったんだ」
「ほんと?」
疑わしそうにミエが見つめる。それはそうだろう。先程まで一緒に寝ることを拒んでいたのだから。
だから俺は、自分の醜い欲望を、ミエの澄んだ言葉で覆い隠して応えた。
「一人で寝るより、二人で寝た方があったかいからな。ミエのいきなりの発言に、お兄ちゃんは少しドキドキしてしまったのだよ」
本音を、冗談めかして言ってみた。案の定ミエは、それを冗談として受け止めた。いや、本気で受け止めたとしても、恐らくミエは、その本当の意味まではわからなかっただろう。
ミエは、子供だった。
「もう、お兄ちゃんったら!」
今日一番の笑顔に、俺の心がわずかに傷んだ。
そうして俺たちは、同じベッドに入った。
ミエの布団より俺の布団の方が大きかったから、俺のベッドにいる。
俺は電気を真っ暗にして寝る習慣があったが、ミエが「真っ暗は怖い」と言い出したので、豆電球のオレンジの明かりが、ほのかに室内を照らし出していた。
ベッドの隅の方で、俺は右腕にいつもはない、熱いくらいの温もりを感じでいた。ミエが、ぎゅっとしがみついて放さないのだ。
俺は仰向けに寝ていたが、首だけで隣を見ると、小さな花柄の枕の上に、ちょこんと天使のような寝顔が乗っかっていた。薄い綺麗な唇がわずかに開いていた。
ミエは耳をそばだててようやく聞こえるくらいの寝息を立てて眠っていた。一日中勉強していて疲れたのか、それとも、言葉通り俺と一緒にいると心が落ち着くのかはわからないが、とにかくベッドに入るや否や、二三言言葉を交わして、ミエはすぐに眠りに墜ちた。
俺はそんなミエの寝顔を間近で見つめながら、胸が張り裂けそうなほど高鳴る鼓動を抑えようと四苦八苦していた。それはあまりにも大きく、ベッドに入ったときにミエに心配されてしまったほどだった。
俺が、「元々心拍数が多い方だから、うるさいかも知れないけど、そんなに気にしなくていい」と言ったら、ミエは安堵の息を洩らした。俺の嘘に疑問を抱くための知識を、彼女はまったく持ち合わせていなかったのだ。
つまりミエは、俺がミエと一緒に寝ることに緊張しているなどとは、露にも思っていないのだ。また、もしも「緊張している」と言ったところで、ミエにはその理由がわからなかっただろう。
ミエはあまりにも純粋だった。けれど、俺はそうではなかった。
俺は身体を傾けると、そっと、震える手をミエの背中に回した。そして、横を向くことで、より近くに迫ったミエの唇に、そっと自分の顔を押し当てた。
ミエの唇は、溶けそうなほど柔らかかった。
俺は背中を抱きしめたまま、そっとパジャマの上からミエの胸に手を押し当てた。柔らかいというよりも、やや弾力のある肉感が指に絡んだ。
(ミエ……)
高鳴る鼓動。汗ばむ手の平。荒くなる息。今ミエが目を覚ましたらと恐怖する反面、その中にある種の悦びを感じている心と、そこから生じる緊迫感。
ミエを、汚したい。
そう思った瞬間、それに反発する、本当にミエを愛している俺の純心が、理性が、欲望を圧し始めた。
『本当に好きなら、ミエを悲しませてはいけない。一緒に寝ることでミエが感じる喜びの他には、一切彼女に何も与えてはいけない』
俺は全身に汗をかきながら、むさぼるようにミエの身体を抱きしめた。けれども、それ以上は何もしなかった。そこで踏みとどまった。
拷問のように長い夜だった。いつ弾けるとも知れない欲望を、俺は一晩中抑え続けた。
まんじりともせず迎えた翌朝は、ミエの期待した通り、銀色の光に包まれていた。
「おはよ、お兄ちゃん」
俺の胸の中で、ミエの無垢な笑顔は、この世の中で何よりも綺麗だった。
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