■ Novels


White Dreams
従来の、「お兄ちゃんが恋人だったら」とか、「一人の男としてお兄ちゃんが好き」といった、「どうしてあなたはロミオなの?」チックな妹小説ではなく、「お兄ちゃんだから好き」というのをテーマに書いた、水原初のオリジナル萌え萌え妹小説!

同日夜

 グゥゥゥン……。
 エアコンの羽根のスイングする音が、規則的に聞こえてくる。暖房の温度は23度に設定されているが、少し暑い気がするのは、外気自体が高めだからだろうか。
 それとも、まさかそんなことはないと思うが、テーブルに向かって必死に勉強しているミエの熱意が、この部屋の空気まで暖めているのだろうか。
「えっとぉ、The mother nodded ( ア ) a smile, and then they walked ( イ )」
 ブツブツと問題文を読みながら、それをカリカリとノートに書き写している。その瞳は真剣そのもので、俺のことなどまったく目に入っていなかった。
 俺はその間、ぼんやりと部屋の中を眺めていた。
 基本的には俺の部屋と同じ広さのはずだったが、ミエの部屋は物が少ない分、広く感じられた。恐らく、まだCDというものに興味を持ってないからだろう。
 これから高校に入り、どんなアーティストであれ、何か曲に興味を持ち始めると、CDラックやコンポ、MDプレイヤーと、色々物が増えてくるに違いない。
 今のところ、ミエの部屋にあるのは、ベッドと机と本棚、そから小さなテレビと、十数個の猫やら犬のぬいぐるみだけだった。衣類は、押し入れの中のクローゼットに収まっている。
 ふと壁にかかった時計を見ると、ちょうど10時を回ったところだった。勉強を始めたのが7時だから、もう3時間くらいぶっ通しでやっていることになる。
(まったく、こいつもよくこんなに勉強できるもんだなぁ)
 俺は時計からミエに視線を戻した。
 小さな四角いテーブルの向こう側に、ミエがちょこんと座って、ノートの上にシャープを走らせていた。机があるにも関わらず、わざわざテーブルでやっているのは、教えている俺と向かい合うことで勉強効率を高めようということだった。
 服は、すでに風呂に入った後なので、パジャマを着ている。薄い桃色の水玉模様の可愛らしいパジャマである。勉強を始めたときはしっとりと濡れていた髪は、今ではもうすっかりと乾き、耳の上でピンで止められていた。
「『その母親は微笑んでうなづきました。それから彼女たちはその場を立ち去りました』だから、アはwithで……」
 俺はテーブルの上に肘を付き、組んだ手に顎を乗せて、ぼーっとミエを眺めていた。彼女専属の家庭教師ということで、こうして勉強を教えているのだが、色々と考えることがある。
 例えば、ミエの狙っている高校は、本当に入る価値のある高校なのだろうか、とか、そのために俺がこうやって勉強を教えるのは、正しいのだろうか、とか……。
「『立ち去る』って、なんだろう……。イは……」
 ミエがちらっと上目遣いに俺を見上げた。その大きな瞳に、俺は少しドキッとなる。実の兄が言うのもなんだが、ミエは可愛い。
「これは暗記問題じゃないぞ。立ち去る、出ていく。そういう単語はなんだった?」
「えっと……out?」
「残念。awayな」
「walk awayで、『立ち去る』なの?」
「いや、だからawayが『離れる』っていう意味なんだって。つまり、go awayでも、run awayでも何にでも使えるんだぞ?」
「ああ、そっか……」
 本当にわかっているのかいないのか、ミエは嬉しそうにノートにaway, awayと繰り返し書いた。
 俺はそんなミエの髪を眺めながら、心の中で小さくため息を吐いた。
 ミエは、俺と同じ浜北島高校を希望している。両親にはやはり、「家が近いから」という理由で話しているが、本当は違う。「お兄ちゃんと同じ高校に入りたいから」というのが真の理由だった。
 しかしミエは、夕方俺が思った、「入りたくても入れないヤツ」の一人だった。格別頭が悪いわけではないのだが、超有名進学校、浜北島に入るにはだいぶ学力が足りなかった。
 それでも、どうしても俺と同じ学校に入って、たった1年でもいいから、一緒に通って勉強したいという妹の熱意に打たれて、俺は数ヶ月前から、こうしてミエに勉強を教えている。
 そのせいで、ミエは以前と比べて格段に学力が上がったのだが、ただ、受験日が近付いてくるにつれて、俺はますます強く思うようになってきたのだ。
 浜北島は、そんなに一所懸命勉強してまで入る価値のある学校じゃない。
 あの学校に入り、2年通って初めてそれがわかった。そして俺は今、入ったことを後悔している。だからせめて、ミエにはそんな思いはさせたくないのだが……。
「When the little girl gave ……」
「ミエ」
 また新しい問題に取りかかろうとしたミエを、俺はそっと制した。
「少し、休憩しよう」
「えっ? 私、まだ大丈夫だよ」
 ミエは驚いたように顔を上げたが、俺は静かに首を振って否定した。
「長い時間やればいいってもんじゃないぞ。もう3時間もやっている。少し休もう」
 少し語調を強くしてそう言うと、ミエはしばらく逡巡したが、やがてシャープを置いて肩の力を抜いた。それから、座布団ごと俺の方に来ると、そっと俺に寄りかかるように座った。
「じゃあ、ちょっと休憩」
 俺の肩の上にあるミエの髪の毛から、優しい匂いがした。まだまだ精神的に幼いミエは、こうして俺とベタベタくっつくことに、純粋な喜びを感じているらしいが、俺はその度にドキドキしていた。
 今も、思わずミエの小さな身体を抱きしめたくなる衝動を、必死に堪えている。もちろん、恐らく抱きしめたところでミエは喜ぶだけだろうが、やはり、まずい。
 せめて、色々と不純な知識を持っている方が抑えなければ。
 俺は内心の動揺を押し隠して、そっとミエに問いかけた。
「今日さ、お前どこか元気なかったけど、何かあったのか?」
 学校からの帰り道で、帆夏ちゃんと別れた後に見せたわずかな陰り。それだけなら特別言及するに値しないことだったが、それに加えてこの異常なまでの勉強量と集中力。まるで何かに駆り立てられているようだった。
 ミエは俺に背中をあずけたまま、少し項垂れていたが、やがて意を決したように顔を上げて、身体ごと振り返った。俺の顔からたったの15cmの距離で、ミエの薄い唇が小さく開いた。
「あのね……。今日、期末試験の結果が帰ってきたんだけど……」
「ああ。成績、良かったろ?」
 思わず言ってしまってから、自らの軽率な発言を悔やんだ。
 俺が勉強を教えるようになってから、確かにミエの学力は飛躍的に向上した。このまま行けば、浜北島の合格圏内に収まることも可能だった。
 だから、当然のごとく校内の成績も上がっただろうと思っての発言だったが、もしも上がったのなら、ミエが自分から言わないはずがない。
「良かったら……もうとっくにそう言ってるよ……」
 ミエは俺の首に細い腕を回すと、悲しそうに笑った。そして、それを隠すように俺の肩に顔を埋める。
 ミエのふっくらとした胸とお腹の感触が、俺の右腕から肘の辺りを包み込んだ。
「また……」
 消え入るような涙声で、ミエが、言った。
「また……失敗しちゃった……」
 そしてミエは、小さく肩を震わせ始めた。
 俺は一度大きく息を吐いてから、体勢を変えて、ミエの小さな身体を抱きしめた。この子が不憫でたまらなかった。
「お兄ちゃん……」
 ミエが驚いたように顔を上げた。
 ……いつも、ずっと昔からそうなのだ。
 ミエは、勉強も運動も、それこそ料理から家事、何にだって才能のある女の子だった。にも関わらず、昔から極端に本番に弱いのだ。
 それは、単に緊張するからとか、もはやそういう次元の話ではなかった。
 運動会の前には怪我をするわ、料理をしようと買い物に行けば、その日の食材を落っことしてダメにするわ、服を買ってもらったと思ったら転んで破くわ。
 もちろん、そういう自らの性質に起因することだけじゃない。自転車を買ってもらったときはすぐに車に当てられたし、もっと細かいことでは、例えば楽しみにしていたショッピングの日に雨が降るとか、肝心なときに目覚まし時計が電池切れで鳴らなかったりとか、話し出せば切りがない。
 それはもはや、何かに憑かれているとしか思えないような運のなさだった。そしてそれは、時に致命的なことに繋がったり、あまりにも重大な選択の時に発生したりもする。
 それ故に、ミエの言葉は、あまりにも重たかった。
「私……一所懸命、勉強、したのにね……。どうして、ダメなんだろうね……」
 嗚咽を漏らしながら、ギュッと俺の身体を抱きしめて、ミエが小さく笑った。あまりにも儚くて、あまりにも悲しい笑いだった。
「ミエ……」
 俺はただ言葉もなく、そんなミエに温もりを与えながら、深く目を閉じて思った。
 やっぱり、ミエの願いを叶えてあげたい……。
 たとえそれが、俺の望まない浜北島高校の合格であるにしろ、俺は全力を持ってミエのために何かしてやりたかった。ミエの笑顔のために、俺は祈りたかった。

(今度こそ……今度こそ、ミエの願いを叶えてください……)

「ねえ、お兄ちゃん……」
 やがてミエが泣きやんで、頬をすり合わせるように引っ付けたまま、耳元で囁いた。柔らかな胸から、トクトクと、小さな鼓動が伝わってくる。
 しかし、それよりも大きな俺の胸の音。もはやどれだけ平静を装ってみても、それだけは誤魔化しようがなかった。
「なんだ……?」
 ギュッとミエの身体を引き寄せるようにして、同じように耳元で聞き返す。
 こんな姿を万が一両親に見られたらという思いが一瞬胸をよぎったが、それはすぐに消えていった。二人が夜、二階にあるこの部屋に来ることは皆無だった。
 倫理的な罪悪感が、多少和らいだ。それは恐らく、いかさまはばれなければ使ってもよいというのと同じものだろう。
 ミエは、一体俺の胸の中でどんな気分になっているのか、正直なところ良くわからなかったが、ただ、いつもとさほど変わらない声音でこう言った。
「もうすぐクリスマスだね」
「そうだな……」
「私、クリスマスイブとクリスマスは、何もしなくていいから、ずっとお兄ちゃんと一緒にいたいな……」
「ミエ……」
 俺は無意識の内に、ミエを抱く腕に力をこめていた。
 こいつは中3にもなって、まったく邪な気持ちを持たずにこういう台詞を吐く。それによって、俺がどれだけ苦労していることか……。
 もちろん、その苦労は、決して俺にとって嫌なものではなかったけれど。
「そうだな。俺も、ミエと一緒にいたいな」
 わずかに呼吸を荒らげてそう言うと、ミエが嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう、お兄ちゃん」
 それくらいの願いならば、さすがに叶えてあげられるだろう。
 当日は、他にどんな約束が入ったとしても断ろう。
 俺はそう心に誓った。
 それから俺たちは、しばらくそのまま抱き合い続けた後、どちらからともなく身体を放した。
 そして、一度向かい合って微笑んでから、再び勉強に取りかかった。

←前のページへ 次のページへ→