履き古してよれよれになった革靴に無造作に足を突っ込むと、俺は玄関を押し開けた。途端に身体を包み込んだのは、緑の匂いのする春の陽気だった。
「行ってきます」
背中越しに出かけの挨拶をして、俺は思いきりのびをした。突き上げるように斜め上に伸ばしたその腕が、不意に重みを感じてぐっと下げられる。背後でドアの閉まる音。
陽光から視線を逸らすように横を向くと、妹のミエが嬉しそうに俺の腕にしがみついていた。
「一緒に行こっ、お兄ちゃん」
にっこり笑ったミエの真新しい制服は、星条高校のブレザーだった。
2月4日。我が家に届いた浜北島からの速達封筒は、ミエに合格の旨と、入学手続きの方法を知らせた。ミエの喜びは言うまでもなく、その日は、日頃子供に無関心な両親もさすがに喜んだようで、一家総出で豪華に外食なんぞに行った。
その晩、俺とミエは一緒に寝て、今後の夢を夜遅くまで話したのだが、話していく内に、内容が思わぬ方向に傾いていった。
今思えば、ひょっとしたらそれは、無意識に俺がそうしたのかも知れない。つまり、入学手続きの前に、星条の合否を待とうということになったのだ。
星条の合格発表が6日、浜北島の入学手続きの締切が8日。だから、星条からの封筒を待つ余裕は十分にあった。
いや、正確には、待っていたのは帆夏ちゃんの合否の連絡だった。
4日の夜、俺はミエの浜北島に懸ける思いを聞いた。その時初めて、ミエが俺と一緒に通学すること以外に、高校という場所に対して様々な夢を抱いていることを知った。
そしてそれが、俺が2年間通ってみた中で、ことごとく叶わない夢であることを知ったとき、俺は自分から見た浜北島を語った。
ミエの思うような部活動は存在しなかったし、名前だけ同じものがあったとしても、それが決して楽しい場所には思えないことや、学校帰りの友人たちとの語らいとか寄り道なども、俺に限らずほとんど存在しないこと。
それ以外にも、学校行事や授業、校則、様々なことを語って聞かせる内に、ミエの浜北島への入学の意思がどんどん失われていった。
そして、最後に言った一言が、ミエの中で星条へ進むことを決定付けた。
「ミエ。俺たちは兄妹だから、一緒に通学できなくても、毎日顔を合わせることもできる。気が向いたら、こうして一緒に寝ることもできる。お前は浜北島に合格した。願いは叶った。お前の願いも、俺の願いも。あの合格通知がそれを証明してくれる。だからミエ、もしも帆夏ちゃんが星条に受かったら、お前は彼女と一緒に星条に行った方がいい。なに、ちょっと時間を合わせれば、途中まで一緒に通学することだって可能だし、俺が大学に行ったあとなら、たぶん俺も駅を利用することになるから、もっと長い時間、長い期間、一緒に通学できるようになるぞ?」
ミエは一分の後悔もなく、大きく頷いた。ミエにとって、奥野帆夏という少女は、俺と同じくらい大事な友達だったのだ。
俺はこれらの話すべてを、帆夏ちゃんの合否がわかってから話すべきだったと、翌日深く後悔したが、そんな心配も杞憂に終わり、帆夏ちゃんもミエも無事に星条高校に合格した。
そしてミエが星条に進むことを伝えたときの帆夏ちゃんの喜び。あの時の二人を、俺は一生忘れないだろう。俺が浜北島で2年間かけて得られなかったものを、浜北島に入ったときに失くしたものを、ミエは初めから持っているのだ。それを持って高校に通うことができるのだ。
俺はそれが何よりも嬉しかった。
「ね、お兄ちゃん」
商店街までのわずかな間に、ミエが楽しそうに笑いかけた。
「なんだ?」
「私、テニスでもやろうと思うんだけど」
俺は驚きながらミエを見下ろした。
「なにっ!? ドジなミエが、テニスを!?」
「ひっどーい!」
ミエが頬を膨らませて、それから小さく微笑んだ。
「ほなっちゃんが、テニス部に入るって言うから……。まあ私も興味あったし、テニスに打ち込む少女っていうのも、なんか良くない?」
俺はなんだか、涙が込み上げてきた。それが何故かはわからなかったけれど、心配そうに見上げるミエに、とりあえず太陽が眩しいからだと言っておいた。
「ミエ。お前の高校生活は始まったばかりだからな。テニスでもなんでもいい。何にでも、精一杯楽しんでくれれば、俺は何よりそれが嬉しい」
ミエはぱっと顔を綻ばせて、満面の笑みで頷いた。
「うん! ありがとう、お兄ちゃん!」
やがて、商店街に到着すると、向こうでミエを待っている帆夏ちゃんの姿が見えた。俺が気が付いてすぐ、彼女もこっちに気が付いたようで、飛び跳ねながら大きく手を振った。
ミエがはやる心で俺を見上げた。
「じゃあ、行ってくるねっ!」
「ああ。頑張れよ」
「うん!」
ミエは強い光の中へ、力一杯駆け出した。
風は今、ミエの背中から吹いている。
長い凪の時を経て、ようやく今、薄桃色の花びらを乗せて、ミエに幸せを運んでくれた。
長く向かい風にさらされていた分、きっと、ミエの未来は明るいだろう。
「頑張れ、ミエ」
俺は口の中で小さく一度呟くと、再び込み上げてきた涙を拭って、浜北島への通学路を歩き始めた。
桜の香りのする春の風が、商店街の緩やかな坂を駆け登っていった。
Fin
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