■ Novels


湖の街の王女様
ウィサンの街の魔法研究所で、魔法の修行に励む少女ユウィル。ある日ユウィルは、師であるタクト・プロザイカから、王女シティアの護衛を任されるが……。

 湖の街ウィサンには、東西と南北に走る二本の幅の広い路があり、中央に巨大な円形の広場があった。路にはそれぞれ、“春風の路”と“そよ風の路”という名が付けられており、文字通り街門からもう一つの街門へと、風がいつも往来していた。
 その路は街の主要道であり、人々の談笑する場であり、仕事をする場であった。朝は市で賑わい、夜は仕事を終えた男たちと路沿いに建つ家々からの声であふれた。また、年に三回開かれる大きな祭りも、この二本の路と、“人と風の集う広場”で盛大に催された。
 けれど、そんな朝市の賑わいも、あるいは祭りの華やぎも、まだウィサンに引っ越してきてから3週間の少女は、新しくできた友人たちからの話でしか知らなかった。
 夏間近の汗ばむような陽気の中を、ユウィルは純白の貫頭衣姿で歩いていた。直射日光を遮るフードの縁から、栗色の髪が見え隠れしている。
 師である魔法研究所の長、タクト・プロザイカの遣いの帰り道だった。両手には彼女の小さな身体には不釣り合いの、大きな白い布袋が握られていたが、彼女の足取りはしっかりしたものだった。
 それもそのはずで、袋に入っているものは薬屋で購入した薬草や毒草といった、重量のないものばかりだった。もっともユウィルには、どれが薬でどれが毒であるかなど見分けが付くはずもなく、単にタクトから渡された紙を薬屋の主人に渡しただけで、一体袋の中にどういうものが入っているのかさえ知らなかった。
 もちろん、彼女はタクトを全面的に信頼していたので、それ自体が単体で危険であるという可能性はまったく考えていなかったが、子供の小遣いにしてはあまりにも多すぎる金を持っての単独外出は、彼女を不安がらせるには十分だった。
 しかしそれも、物を買うまでのことである。落とさないように、盗まれないようにと、周囲に気を配りながらの遣いが一段落付くと、ユウィルの心に空の広さほどの大きな余裕ができた。
 “そよ風の路”から広場に入ったところで一度足を止めると、ユウィルは袋を地面に置いて大きく肩から腕を回した。そしてその手を頭の上で組むと、空に突き上げるようにして思い切り伸ばした。
「んん……」
 眩しい陽光に目を閉じ、それから「はぁ……」と息を吐いて脱力すると、広場を囲う輝く緑に目を遣った。
 整然と立ち並ぶ樹々が、力強く枝葉を空へ突き出している。そしてその下の木陰で語らう人々。
 ウィサンはいい街だと、ユウィルは思った。3週間前、正確には移動にかかった時間もあるのでひと月以上前なのだが、これまで住んでいたマグダレイナという街は、どこか堅苦しい感じのする街だった。街は高い街壁に囲まれ、物々しい尖塔がいくつも立ち並んでいて、幼いユウィルにはそれが不気味でたまらなかった。
 それでも、その街しか知らなかった時にはまだ我慢もできた。それが当たり前であり、どこの街でもそうなのだと考えていたから。
 しかし、トロイト、ユルクと旅をし、こうして今ここに住むようになってから、はっきりとあの空気が自分には合わなかったとユウィルは思った。
 この開放感に包まれた伸び伸びとした雰囲気が好きだったし、重苦しい石壁に囲まれ、風も通らない街とは違い、自然あふれる環境も好きだった。
 そして……。
 ユウィルはフードを取り、南西の方向に高くそびえる高い建物に身体を向けた。
 ウィサン魔法研究所。ウィサン唯一の魔法研究施設にして、近隣諸国のいずれの施設にも勝る設備を誇るその研究所こそ、まだ13になったばかりの幼い少女の勤める場所だった。
 魔法に憧れ、ただひたすら魔法に打ち込み続けてきた少女が、ひょんなことから手にした夢のかけら。タクトと出会い、認められ、彼の下で働けるようになったこと。ユウィルがウィサンに来て最も嬉しかった出来事である。
 それが今からたったのまだ2週間前。しかし、決していつまでも夢心地というわけではなく、タクトの厳しい教育の下で、ユウィルは魔法使いとしての基礎を徹底的に叩き込まれていた。
 その上、タクトの弟子としてこうして雑務を任されたりと、日々目が回るほど忙しかったが、ユウィルはそれを苦に思ったことはなかった。むしろ、これらのすべてが、いつか自分が偉大な魔法使いになるための糧になるのだと考えると、嬉しさのあまり思わず笑みがこぼれた。
「さってと。そろそろ行かないと、タクトさんが待ってる」
 ユウィルは笑顔でそう呟くと、小休止を終えて袋を取った。ここから研究所までの道のりは、ユウィルの足ではまだまだ遠い。何時何時までに帰ってこいとは言われていなかったが、あまりのんびりするのはユウィルの望むところではなかった。
 今はいち早く戻って、新たな指示を仰ぎたかった。無から有へ。多くの未知なるものを発見して、ユウィルにとって今が一番楽しい時間だった。
 一度気合いを入れる意味でグッと拳に力を込めると、再び先程までの軽い足取りで歩き始めた。太陽が研究所の塔の先端をかすめた。

 広場から南西へ、魔法研究所まで続く路は先程までのそれと比べると幾分細く、人の往来も少なかった。また、活気にも縁遠く、決して閑散としていたわけではなかったが、広場の賑わいを通り抜けた後だと一抹の寂しさを拭えない。
 民家も軒を連ねて建ち並び、食堂や広場も多いこの通りが、そんな暗い雰囲気をまとっているのには二つの理由があった。
 その一つは、この路の突き当たりにある魔法研究所である。ウィサンに限らず、トロイトより南の国では、北方諸国とは違い、魔法があまり発達していない。強い魔力はおろか、魔力自体持っている人間が少ないためである。
 そのせいで人々は魔法に馴染みがなく、ある人はそれを不思議な、またある人はそれを不気味なものと考え、畏怖していた。そんな“魔法”を研究し、さらにウィサンでは他に類を見ない細長く高い円柱状をした建物に、好き好んで近付こうとする者はほとんどなかった。
 そしてもう一つが、ふとユウィルが足を止め、見上げた巨大な建物。『パレルクリウ診療所』と書かれた看板のかかった王国病院だった。この建物が通りの雰囲気を沈めているのは、もはや火を見るより明らかだった。
 ユウィルはその診療所の2階の一室を見上げると、複雑な顔をした。
 そこには、ユウィルの大切な友人にして、彼女がひどい怪我を負わせてしまった少女が入院していた。もっとも、ひどい怪我といっても症状は快方に向かい、もうあと1週間も経てば退院できるという。
 もちろんそれ自体は嬉しいことであり、つい先日、少女ミリムから直接それを聞かされたときの喜びは今でも鮮明に思い出すことができた。
 けれど、その事件以来、相変わらず彼女の両親はユウィルを嫌っていたし、そのせいでユウィルもなかなか彼女の見舞いに行くことができなかった。
 それにユウィルは、タクトの下で魔法を学ぶにつれ、自分がいかに未熟であったかを痛切に感じ、ミリムに対して申し訳ない気持ちで胸が潰れそうだった。
 魔法を単に格好良くて便利なものとしか思っておらず、その危険性についてまったく考えることのなかった自分。ミリムは、そんないい加減で危険な自分の最初の犠牲者だった。
 それでも決してユウィルを責めることなく、笑いかけてくれるミリム。幼いながらも優しいユウィルは、少なからず心に事件の後遺症を残していた。
 そんなミリムのことを思い出し、視線を下ろした後、ユウィルはふと思い出したようにもう一度顔を上げた。そしてそっと右目を閉じる。
 途端に、元々少しぼやけていた世界が、まるで霧がかかったように薄れ歪んだ。看板の文字はおろか、入り口の取っ手も見えなかったし、2階にあるミリムの病室の窓を判別することもできなかった。
 肉体的に残った後遺症。ユウィルはそれを誰にも話していなかったけれど、あれ以来、確実に左目の視力が落ちていた。ミリムに怪我を負わせてしまったときに、彼女の兄に殴られて負った傷だった。
 もちろんユウィルは、そのことで彼を怒ってはいなかったが、まだ13歳という若さを考えると、このハンディキャップはあまりに大きく、また悲しくもあった。
 じわりと滲んだ涙を服の袖で拭うと、ユウィルはギュッと袋の紐を握り直して前を見た。
 きっといつか治る日が来る。そして、これ以上悪くなることはないだろう。視力も、ミリムの怪我も、友人たちとの関係も、すべてが……。
 きっと大丈夫。
 大丈夫。
 心の中で何度も何度もそう自分を勇気づけるように繰り返しながら、ユウィルはやがて研究所に帰り着いた。いくつもの犠牲を払って手にした夢の位。この建物に入り、学べる権利。
 一度感慨深く、空を背景にしてそびえる研究所の頂上を見上げると、ユウィルはゆっくりと入り口の扉を押し開けた。

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