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湖の街の王女様
ウィサンの街の魔法研究所で、魔法の修行に励む少女ユウィル。ある日ユウィルは、師であるタクト・プロザイカから、王女シティアの護衛を任されるが……。

「シティア様!」
 ユウィルはよろめくように立ち上がると、そのまま膝をついたシティアに駆け出した。けれど、やはり身体が言うことを聞かずに、彼女はそのままつんのめると、シティアに抱き付くような格好で倒れ込んだ。
「痛っ!」
 膝をついた体勢のまま、ユウィルに抱き付かれたシティアが苦痛に顔をしかめた。
「ご、ごめんなさい」
 慌ててそう言って、シティアから離れようとしたユウィルだったが、ふとシティアの背中に回した手に触れたものの感触に呆然となった。
 ねっとりとした生暖かい感触。そして、シティアの胸の中で強く鼻をつく匂い。
「血……」
 ユウィルはゆっくりとシティアから離れて、両手を自分の前で開いた。果たしてそこには真っ赤な血が、まるで赤い手袋でもしているかのように、ユウィルの小さな白い手を染め上げていた。
「シティア様……?」
 震えるユウィル。ちょうど正座をしたような格好で座っていた彼女の膝に、シティアが倒れ込むようにして身体をあずけた。
「はぁ……はぁ……」
 シティアの荒々しい息が、ユウィルの太股をくすぐる。それは途方もなく熱くて、先程までの自分の苦しみなど、シティアのそれと比べたらなんと生易しいものだったのか。
 心を落ち着けて冷静にシティアの様子を見てみた。状況が悪いほど冷静になれと、魔法研究所で口を酸っぱくして教えられている。すべては、魔法が冷静な状態で集中しなければ使えないためだった。
 膝の上に横向きになって身体をあずけるシティアは、愛用の弓を持っておらず、レイピアの鞘さえ着けていなかった。
 衣服はボロボロで、背中の中央と、左の太股、それに左肩から腕にかけて幅の広い切り傷を負っていた。
 その傷が獣の爪痕のようだったので、ユウィルはすぐに、彼女が先程の獣にやられたのだと察知した。恐らく初めは優勢に戦っていて、まさに窮鼠却って猫を噛む。追いつめられた獣が、必死に抵抗した結果だろう。
 もちろんそれはユウィルの想像に過ぎなかったが、こうして彼女が生きているところを見ると、どうやら戦いには勝ったらしい。相手が人間であればともかく、この森の中を、あの獣に追われて逃げ延びたとは思いがたい。弱肉強食の中では、殺さなければ殺されている。
 ユウィルはそのことに関してはほっと息をついたが、すぐに真剣な顔つきに戻った。王女の状態はこの上なく悪いと言っても過言ではない。
「シティア様、失礼します」
 ユウィルはそう呟くと、そっとシティアの服を脱がし始めた。正直、怪我の治療などまったくしたことがなかったが、かといってここで途方に暮れていても王女は助からない。
 ダメで元々、やるしかなかった。
 そう思って王女の服を少しまくった時だった。
「やめ……て……」
 か細い声で、王女が喘いだ。
「えっ?」
 思わずユウィルが手を止めると、シティアは涙で潤む目をわずかに開いて、今にも消え入りそうな声で言った。
「見ないで……」
 何をだろう。ユウィルは悩み、服を脱がせることを躊躇したが、それはほんの一瞬のことだった。
「ダメです。今はシティア様の怪我の手当てが、何よりも優先です。たとえ恨まれても、あたしはシティア様の手当てをします」
 力強くそう言うと、ユウィルは苦しそうに喘ぎ続けるシティアの服を脱がした。
 その拍子に服が傷にこすれたのか、彼女はひどく辛そうな顔をしたけれど、なんとかユウィルは彼女の服をすべて脱がし、下着だけの姿にした。
 そして、息を飲んだ。
「シティア……様……」
 案の定、彼女の背中と太股、そして左肩に、肉が見えるような広さの幅の傷があり、透明な肉汁を含んだ血が流れていた。幸いなことに、傷の長さと深さは大したことなさそうで、急いで止血をすれば致命傷には至らない程度の傷だった。
 しかし、ユウィルが驚いたのはその傷のせいではなかった。
 彼女の全身、特に胸から下腹部にかけて、大きな古傷があったのた。
(これは……何?)
 彼女が見ないでくれと懇願したのが、これのことであったのは、もはや一目瞭然だった。
 シティアは無数に走った古い傷痕を見られても、特別何の反応もせず、いや、できずに、苦しそうに肩で息をし続けていた。額から汗が滴り落ち、まなじりには涙があふれている。
(と、とにかく、今はシティア様の怪我の手当てをしなきゃ……)
 気持ちを切り換えて、ユウィルは一度大きく頷いた。
 それから、昨日タクトに分けてもらった、遣いで買った薬草をすべて使い、彼女の傷を塞いだ。その時に使用した水は、もちろん魔法で産出したものである。
 次に、やはりタクトから借りた魔法衣を脱ぐと、なんの躊躇もなくそれを切り裂いて彼女の傷口にきつく巻き付けた。これは一体いくらくらいするもので、どういう力を持っているのかはわからなかったが、シティアの生命より大事であるということはないだろう。
 ユウィルは若くして、金で買えないものをいくつも知っていた。だから、一生懸命だった。
 ユウィルが手当てをしている間、シティアは時々苦しそうに呻く以外に一切声を出さなかった。何を頼むでもなければ礼を言うわけでもなく、ただじっと痛みに堪えながら少女の手当てを受けていた。
 やがてユウィルの長い長い手当てが終わって、シティアは半裸のままユウィルの胸の中に寝かされた。ユウィルが樹にもたれかかるようにして座り、その小さな身体を背もたれにするような形でシティアがもたれかかっている。半裸のままなのは、布が足りないからだった。彼女の服も手当てのために使ってしまっていた。
 ユウィルは後ろから優しくシティアの身体を抱きしめていた。王女の方が身体が大きかったから、あまり様にはならなかったけれど、それでもその温もりは十分王女に伝わっていた。
 雨が止んだのが、妙に静かだった。夏間近というのに、ひんやりとした空気が辺りを包み込んでいる。そんな中で、二人の肌だけがポカポカと温かかった。タクトの服を脱ぎ、ユウィルも肌着一枚という格好だったのだ。
「ねぇ……」
 ユウィルが初めて聞く、そしてそれが恐らく本物の、シティアの高い声が沈黙を打ち破った。朝からずっと聞いているような低く冷たい声ではなく、優しさに戸惑いをブレンドしたような声。
 呼吸は随分落ち着いていた。
「なんですか?」
 先程までの疲れが一気に押し寄せてきて、ウトウトしながらユウィルが応えた。彼女は王女の手当てに必死だったから、魔法使いの男のことはすっかり忘れていた。
 少しだけ俯くように首を傾けて、王女が言った。
「どうして助けてくれたの?」
 その質問は、ユウィルをひどく混乱させた。彼女は当たり前のことをしただけであり、彼女の中には、初めから王女を見捨てるという選択肢はなかった。
 だから率直にそう言うと、王女は深く息を吐いて、やはり不思議そうに尋ねた。
「私は、ユウィルを殺そうとしたのよ? 見捨てても誰にも文句は言われないし、普通はそうするわ」
「…………」
 やはり答えに貧して、ユウィルは困り果てた。それから少し考えて、やはり答えが出なかったから、ユウィルはふと頭をよぎった言葉を、思わずそのまま口にしてしまった。
「どうしてシティア様は、ありがとうって一言そう言えないんですか?」
 言ってからすぐにしまったと思ったけれど、時すでに遅しである。王女に対してひどく失礼なことを言ってしまったと後悔したが、一度口から出た言葉が元に戻るわけでもなかったので、ユウィルは開き直ることにした。
「あたしはただ、シティア様が困ってるんじゃないかって思ったから……。それ以上、何も考えてないし、それに今、こうしてシティア様が話しかけてくれて、あたし、すごく嬉しいです」
 ユウィルのその言葉に、シティアははっとなって顔を上げた。自分がいつの間にか、無視し続けると決めた大嫌いな魔法使いの子供と、何気なく話していることに気が付いたのだ。
 けれど、もはやこれ以上無視することはできなかったし、ここまで助けてもらっていて、それは大人のすることではない。
「……ありがとう……」
 本当に小さな声で呟くようにそう言うと、シティアを抱きしめるユウィルの腕に、少しだけ力がこもった。温かかった。
「はい。ご無事で何よりです」
 声に嬉しさがにじみ出ていて、それがユウィルの年相応の喜び方だったから、シティアは思わず顔を綻ばせた。それからしばらく、新鮮な空気と少女の温もりを堪能してから、厳かに口を開いた。
「傷……ね。見たでしょ?」
 どこか禁断めいた響き。何かの禁忌を犯そうとする直前のような緊張感に、ユウィルは思わず喉に渇きを覚えた。そして、到底声など出せそうになかったから、無言で頷く。
 シティアはそれを確認してから、すっと顔を上げた。木の葉の隙間の青空の向こう。そこに浮かんでいたのは、シティアにしか見えない、彼女の遥か昔の記憶だった。
「ずっと前にね……魔法使いの刺客に、殺されそうになったの……」
 世間話でもするかのような、穏やかな口調。
 それが、彼女の怒りや悲しみ、嘆き、苦しみ、それらすべての感情を押し殺した結果であるということに、しばらくユウィルは気付けなかった。そして気が付いた瞬間、心に凄まじい衝撃を受けた。
「あれは、6年前かな。私がまだ10歳の時だった……」
 ゆっくりと、シティアは昔閉ざした記憶の扉を開き始めた。

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