■ Novels


湖の街の王女様
ウィサンの街の魔法研究所で、魔法の修行に励む少女ユウィル。ある日ユウィルは、師であるタクト・プロザイカから、王女シティアの護衛を任されるが……。

 兵士の裏返った高い声が響いたのは、まさに死神のカマがユウィルの首まであと3歩の位置まで迫ったその時だった。
「シティア王女! あれをご覧ください!」
 ふっと張り詰めていた何かが解けて、シティアが指に力を入れ直し、視線をユウィルから逸らせた。そして、声をあげた兵士の指差す方向に目を遣って、彼女は俊敏な動作で弓矢の切っ先を変えた。
 果たしてそこには、体長80センチほどの、見たことのない生物がいた。全身が黒い毛に覆われていて、一見狼に見えるがそれよりも足がずっと太くて長い。
 ピュン!
 シティアの矢が、真っ直ぐ獣の目に突き刺さった。これまでまったく彼女に護衛が必要なかったことを裏付けるような、見事な腕前。
 もしもそれを通常の状態で見ていたのであれば、ユウィルも感嘆の息を洩らしたろうが、しかし今の彼女の精神はひどい錯乱状態にあった。
 クオォォォォォォォォォォ……。
 狼に似た獣が咆吼し、ダッと森の中へ駆け出した。
「追うわよ!」
 弾かれたように素早い動きで次の矢をつがえて、シティアが大地を蹴った。そしてそのまま、一直線に獣を追って森の中へと駆け込んでいく。
「王女!」
 一テンポ遅れて、兵士たちが彼女に続いた。しかし、身軽なこともあってか、王女の方が敏捷であり、彼らが彼女に追いつけないのは火を見るより明らかだった。
 それでも遅れまいと森の中へ飛び込んでいく彼らを、ユウィルは呆然と見つめていた。強い雨に打たれながら、やがて彼らの姿も、声も足音も、雨と風の音以外のすべてが消えてなくなったとき、彼女はその場に崩れ落ちた。
 力なく泥にまみれ、顔や髪を汚した。未だに筋肉が強張り、痙攣している小さな身体に、容赦なく雨が降り注ぐ。
「はぁ……はぁ……」
 思い出したようにユウィルは呼吸を始めた。息を吸った拍子に泥を飲みそうになって、反射的に首を傾ける。
 固く閉じられた目ぶたの内側に広がる闇。その中に、弓矢の鋭い切っ先が写った。
 同時に、雨に濡れるのと同じくらい、多量の汗が出ていくのを感じた。心臓はあの時以来、ずっと壊れそうなくらい速く打ち続けている。
 何一つ考えることができなかった。腰を抜かしているような気がしたが、それに限らず身体を動かすことができず、感覚もほとんどない。
 ただ雨に打たれ泥にまみれたまま、長い長い時間、その場に横たわっていた。
 雨は時間を追うごとに強くなり、まだ正午を少し過ぎたほどの時間であるにも関わらず、夜のごとき暗さだった。その闇の中を、時折雷が龍のように雲の隙間を踊り、轟音を立てて地を打った。
 横殴りの強い風が、森全体を揺らしている。一帯の土の大地は、すでに泥沼のように変わり、その中にぽつんと一つ薄汚れた白い小さな塊が転がっている。
 ユウィルは死人のように倒れていた。けれど、どれくらいの時間が経ったのか、少なくとも彼女の服にも、その中に着けている下着にも乾いている箇所が一切なくなるくらいの時を経て、彼女はゆっくりと目を開けた。
 呼吸は少しだけ落ち着いてきていた。弱々しく自分の目の前に手を持ってきて、そっと握り締める。雨に打たれて体温が奪われているが、どうにか力も戻ったようだ。
 ユウィルは泥の中に手を付いて、ゆっくりと身体を起こした。栗色の髪の毛から泥水が流れ、彼女の顔を濡らしていく。
「……帰ろう……」
 ぽつりと彼女は呟いた。もうすでに王女たちはウィサンに戻っているだろう。いつまでもここにいても仕方ない。
 膝に力を入れて立ち上がると、軽い眩暈がしてユウィルは再び泥に沈みそうになった。しかしどうにか持ちこたえると、森から回れ右をして、街の方角に身体を向けた。
 街までの距離は長い。果たして無事に帰れるだろうか。
 そう思い、森で休んで行くべきか、一刻も早くタクトの許へ帰るかを考えあぐんだとき、背後から人間の声がした。
「しっかし、シティア王女はどこへ行ったのやら」
「あの王女のことだから、もう俺たちのことも放っておいて、さっさと街に帰ってるんじゃないのか?」
 見ると、王女が連れていた兵士たちだった。どうやらついさっきまで王女を探していて、見つからなかったらしい。
 ユウィルが雨の中、ぼんやりと彼らを見つめていると、やがて彼らもそんな彼女に気が付いて足を止めた。
「……シティア……様は……?」
 かすれる声で尋ねたが、しかし彼らからの返事はなかった。
(ああ、そっか……。この人たち、あたしを無視するように、言われてたんだっけ……)
 ユウィルはそう思って返答をあきらめた。そして同時に、白々しく自分から顔を背ける彼らを見て確信した。
 シティアは間違いなくまだ森にいる。彼らは王女が嫌いなのか、彼女を置き去りにして帰ろうとしている。その責任を、すべてユウィルに押し付けて……。
 彼らは何事もなかったかのようにユウィルの横を通り過ぎ、マントを頭上に掲げて街の方へ歩いていった。
 そして、彼らと入れ替わるように、ユウィルは森に足を踏み入れた。何故そうしたのか、理屈ではわからない。尊敬するタクトとの約束だったからかも知れない。それとも単に、兵士たちと同じことをしたくなかっただけかも知れない。
 ただ彼女はその時、どうしてもシティアを探し出して、そして守らなければいけない気がしたのだった。
「シティア様……どうか、ご無事で……」
 ユウィルは一度、悪夢を振り切るように大きく首を左右に振ると、しっかりと前を見据えて歩き始めた。

 森に入ると、その鬱蒼とした木々のおかげでほとんど雨に当たらずに済んだ。もちろん、豪雨は依然衰えるところを知らず、木々の隙間をぬって下生えを濡らす雨水もあったが、大した量ではない。
 ユウィルは雨のしのげる位置まで来ると、一度タクトから借りた服を脱いで、雑巾のように絞った。ボタボタと服から水が滴り落ちて、すでに元の色がわからないほど汚れた靴に泥がはねる。
 シワの寄った服を広げると、ユウィルはそれを手近の木の枝にかけた。それからそっと両手を胸の前に持っていき、川の水をすくうように合わせる。
 スッと目を閉じて、小さく呟いた。
「火……」
 ボッと、ユウィルの手の上に火の玉が揺らめいた。柔らかな光が辺りの闇を照らし、同時に心安らぐ暖気が一帯を包み込む。冷え切ったユウィルの身体も温められて、枝に吊された服も見る見る乾いていった。
 体温を取り戻し、雨に濡れた不快感からも解放されて、ようやくユウィルの口元に小さな微笑みが浮かんだ。
「あったかい……」
 あらかた服が乾くと、ユウィルは一旦火を消してそれを身に着けた。日に干したばかりとまではいかないが、それに近いくらいの心地よい布の感触がする。
 身体は極度の疲労状態にあったが、少なくとも精神的には完全にいつもの自分を取り戻して、ユウィルはグッと拳を握った。元気が湧いてきた。
 なるべく水分を含んでいない、長い木の枝を拾い上げると、その先にそっと火を灯した。本当は魔法の光を飛ばして歩きたかったが、常に危険を伴う森の中で、魔法に集中し続けるわけにもいかない。
 下生えを踏みしめながら、ユウィルはゆっくりと歩き始めた。そして歩きながら大きな声でシティアの名を呼んだ。
「シティア様ー? シティア様、いらしたら返事をしてください」
 怖くないと言えば嘘になる。シティアはたった今、自分を殺そうとしていた人間なのだ。
 それでも、そんな人間は見捨ててさっさと街に戻ろうという気持ちにだけはならなかった。ユウィルは自分が幼い頃、生命を脅かされたことがあったから、本当に助けが欲しい者の心を知っていた。だから、もしもシティアがこの森の中で困っていたらと思うと、放っておけなかったのだ。
「シティア様? シティア様ー」
 何度も下生えに足を取られ、木の枝に服を引っかけながら、ユウィルは暗い森の中を歩き回った。
 部分的に雨が木々を貫通している箇所もあって、ユウィルは再びずぶ濡れになっていたが、今回は精神が昂ぶっていたので、あまり気にならなかった。もっとも、緊張の糸が切れた瞬間、一気に身体に来る可能性はあったが、今のところユウィルの頭にそういう考えはなかった。
「シティア様ーーっ」
 ただ一心に探し続けること1時間くらい。いい加減足が疲労を訴え始めたその時、ユウィルはふと空間に違和感を覚えて足を止めた。
 一面背の高い木々。下生えは鬱蒼としており、ユウィルの膝くらいの高さがある。少し弱くなった雨が枝葉をぬってその下生えを潤している、そんな場所。周囲の明るさは外の光が浸透し、なんとか火がなくても周りを見ることが可能な程度の明るさだった。
(なんだろう……)
 感じたのは匂いだった。木々の醸し出す新鮮な匂いとも、雨の持つ湿った匂いとも、あるいは草の匂いとも違う、場にそぐわない異質な匂い。
(これは……魔力?)
 それは魔法研究所でよく嗅ぐ匂いだった。だから本来、ユウィルはその匂いを嗅ぐと心が和むものだが、この場所におけるそれはあまりにも異様で、それが強ければ強いほど、場にそぐわない不吉な気配を醸し出すだけだった。
 だから、ユウィルは半ば反射的に飛び退いた。動物的感覚がそうさせたのかも知れない。
 ビュインッ!
 すさまじく大きな風を切る音が、先程までユウィルの頭のあった場所を通過したのは、まさにその直後だった。
(な、何?)
 轟音に振り返ると、ユウィルの背後にあった木々が根元からえぐれ、今まさに倒れようとしているところだった。
(魔法! 誰かいる!)
 それがシティアでないことは確かだった。彼女は魔法が使えない。
 攻撃をしかけてきたことといい、どうやら敵であるらしい。しかも相手は、ユウィルの様子をうかがっていた。彼女が動きを止めたために、自分が気付かれたことを悟って攻撃をしかけてきたのだ。
 ユウィルは一旦うつ伏せに地面に倒れ込んだが、すぐに立ち上がると、魔法の飛んできた方向を見た。
 果たしてそこには、一人の男が立っていた。
 頭巾をかぶり、口元を隠していたために表情はわからなかったが、敵意に満ちた瞳を一瞬細めると、すぐさま第二波をユウィルに叩き付けてきた。
「くっ!」
 それは空気の矢だった。ユウィルは必死にかわしたが、かわしきれず、右腕に痛みを感じた。
 じっとりと白い服が血で染まる。
 ユウィルはすぐさま火の玉をぶつけようとしたが、放つ瞬間に躊躇した。森の中で火を放っていいものか迷ったのだ。
 その一瞬の間に、男が仕掛けた。先程の木がちょうどユウィルの頭上に倒れるように、倒れてくる木の角度を変えたのだ。
「きゃっ!」
 慌てて飛び退いたユウィルに、彼が最初に打ったのと同じ真空波が襲いかかった。素早い連続攻撃。
(か、かわせないっ!)
 そう悟った瞬間、ユウィルはもてる限りの集中力で、相手の魔法を消去した。
「何っ!?」
 思わず声を上げたのは男だった。目の前の、まだ年端もいかぬ少女が、一度形にした魔法を再び無に帰したのだ。それは簡単、難しいという以前に、聞いたこともない話だった。
 もっとも、それを実行した本人は、自分が何をしたのかすらよくわかっていなかった。ただ、魔法が無からではなく、何かの粒子から生成されるのであれば、再び粒子に戻すこともできるはずだという、日頃からぼんやりと考えていたことを咄嗟にやってのけたのだ。たぶん、改めてやれと言われても無理だろう。
 ともかく、一命を取り留めたユウィルはすぐさま身を翻し、わき目も振らずに駆け出した。
 この男には勝てない。そう判断したのだ。
 まず第一に、ユウィルは子供であり、実戦経験があまりにも少なすぎた。それに咄嗟に使える攻撃魔法といえば、せいぜい火の玉をぶつけるくらいである。もう一つ、前に湖に現れた化け物を倒したときに使った光線があったが、あれは強力すぎるためにタクトに禁止されていた。
 それに比べて、相手はひどく実戦慣れしているどころか、様々な攻撃手段を持っており、しかもそれを効果的に使ってくる。魔力はどうやらユウィルの方が圧倒的に上のようだったが、魔力だけでは上手に魔法を使えないことは、魔法研究所で何度も言われていた。
 ユウィルは駆けた。右腕がズキズキと痛み、背の低い木がユウィルの太股やふくらはぎに無数の傷を作ったが、彼女は気にしなかった。いや、気にする余裕すらなかった。
 闇雲に駆け続けた。幾度も濡れた草に足を滑らせ、草木をかき分けては、そのたびに手に怪我をして走った。
 やがて息が切れ、肉体が精神状態についていけなくなったとき、ユウィルは太い木の幹で転倒して、派手に地面を転がった。
「はぁ……はぁ……」
 荒々しく息をすると、疲労が一気に身体にのしかかってきた。
 腕に跳ね返る自分の息がひどく熱い。心臓も張り裂けんばかりに強く打ち、身体にまったく力が入らなかった。
(ここで休んでもいいのかな? もう追ってこないかな?)
 先程生命を狙われた恐怖が蘇る。けれど、もはやユウィルには、指一本動かすことすらかなわなかった。
「少し……休もう……」
 そう呟きながら、俯せのまま目を閉じかけたその時だった。
「ユウィル……?」
 頭上で弱々しい女性の声がした。
 ユウィルが最後の気力を振り絞って顔を上げると、そこにはずっと探し続けていた王女が、ひどく情けない、今にも泣き出しそうな顔で立っていた。
「シティア様!」
 ユウィルが驚きのあまり、もはやまったく動かせないだろうと思っていた身体を起こした。同時に、入れ替わるようにシティアが力なく膝を折った。
 王女はひどい怪我を負っていた。

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