しかし、反射的に飛び退こうとして、すぐに考え直した。
自分の後ろには傷付いた王女がいる。今獣の攻撃から身をかわせば、恐らく獣は王女に襲いかかるだろう。あるいは獣は、自分の子供の匂いを敏感に嗅ぎ取って、初めから王女を狙っているのかも知れない。
それに、かわすのは確かに有効な手段ではあるが、体力、生命力ともに圧倒的に自分を上回る存在に対し、逃げながら相手の隙をつく戦い方をするよりも、初めから全力で叩き合った方が良いことを、湖畔の戦いで嫌と言うほど知らされている。
ユウィルは瞬時に考えを変えて、魔法を放つべく両手を前に突き出した。
戦いにおいては、命取りになる一瞬の判断ミスというのが多々あるが、今回の彼女のそれは命にまでは繋がらなかった。けれど、無事にも終わらなかったから、やはり初めにかわそうとしたのがいけなかったのだろう。
「ええいっ!」
獣が間近に迫り、相手がかわしようのない距離で、ユウィルは咄嗟に作り上げた火の玉をぶつけた。それは本当にわずかな時間で、ろくに集中もせずに作ったものだったけれど、やはり彼女の魔力は半端ではなかった。
ゴオオォォォ……。
ユウィルが自分でも怖くなるくらいの炎が迸り、たちまちにして獣の身体が火に包まれた。湖岸で現れた化け物と違い、相手が毛で覆われた生物だったのも幸いしたのだ。
けれど、獣がユウィルの魔法をかわせない距離にいて、彼女が獣の攻撃をかわせるわけがない。
「あぐっ……」
ドゴッと鈍い音がして、ユウィルは下腹部に体当たりを食らい、そのまま後ろに弾き飛ばされた。そして、後方にいた王女と重なり合うようにして倒れ込む。
「きゃっ!」
小さな悲鳴を上げて、シティアはユウィルの下敷きになった。部分的に傷口が開いて、布にじわりと血が滲む。
けれど、結果として彼女に体当たりをかけることになった少女は、二次被害を被った王女よりも大きなダメージを受けていた。
「う……うぁ……」
息が出来ずに、腹部を押さえたままユウィルは地面に転がっていた。そんな彼女を組み敷くように、獣が小さな身体に飛び乗って爪を立てた。
「い、痛いっ!」
まったく防具のない彼女の肩と脚に獣の爪がめり込んで、そこから血が肌を伝って流れ落ちた。鋭い爪が見る見るユウィルの肌に食い込んでいく。
「ユウィル!」
シティアが絶叫した。ユウィルが目を開くと、ちょうど獣が牙を立てて自分の首に噛みつこうとしているところだった。
真紅に燃える口腔。薄汚れながらも、鋭く光る牙。
この、もはや相手を食い殺すことの他に何一つ考えていない獣の目を見て、ユウィルは一瞬場違いなことを考えた。
(あの時のシティア様は、なんて優しかったんだろう……)
あの時とは、もちろん森の外で彼女が弓を向けたときのことである。あの時確かに自分は殺されそうになったが、このどうにも止めようのない獣と比べれば、どうってことなかった思う。ただあの時は、王女が自分に弓を向けたという事実に怯えていたのだ。
ユウィルは目の前の獣を見てそう考えるとともに、こんな化け物と一人で戦い、勝利を収めた王女に心の底から感服した。
しかし、相手が獰猛な獣であれば、ユウィルとて人間の中に於いては天才的な素質を持った魔法使いである。相手に対して一切容赦しなくても良いという開放感が、ユウィルの力を全開させた。
まさに牙がユウィルの柔らかな首に突き刺さろうとした瞬間、凄まじく鋭い風の音がして、獣の右前脚が千切れ飛んだ。
ギィェェェェェェェェェッ!
よくわからない雄叫びを上げて、獣がユウィルから飛び退き、転げ回る。どす黒い血が点々と地面に注いだ。
ユウィルが、先程謎の魔法使いから受けた風の刃を、ぶっつけ本番獣に叩き付けたのだ。
彼女は自分が咄嗟にそんな魔法を使えたことにひどく驚いたが、その瞬間に、彼女よりももっと驚いた者がいた。
シティアである。
「ユウィル……それは……」
震える声に振り返ると、シティアが目を見開き、地に付いた手を震わせながら、怯えたようにユウィルを見つめていた。彼女が使った魔法は、奇しくもシティアにとってもっとも脅威である魔法と酷似していたのだ。
ユウィルはしまったと思ったけれど、やはりすぐにその思考を頭から追い出した。今は躊躇しているときではない。獣はすでに体勢を立て直そうとしている。それに、王女には荒療治になるかも知れないが、どうしてもこの魔法を使って獣を倒した上で、昔の傷を乗り越えて欲しかった。
同じ魔法でも、人を傷付けることもできれば、助けることもできる。それをわかってもらうためにも、ユウィルはこの戦いを、この魔法だけに絞って勝利することに決めた。いずれにせよ、彼女は色々考えられるほど戦い慣れてはいなかったから、森で火を使うことを嫌うのであれば、そうする他に手はなかった。
暴れていた獣がだんだんその動きを緩め、怒りに満ちた瞳でユウィルを睨み付ける頃、ユウィルもどうにか腹の痛みを忘れて立ち上がろうとしていた。
しかし、そんなユウィルを待っていたのは、両肩と両脚に走った鋭い痛みだった。
「うぁ……ぐ……」
見ると、真っ赤な血が太股からドクドクと流れ落ちている。たとえ布の一枚でも、何か防具を身に着けていればこうはならなかったろうが、生憎ユウィルは裸同然の格好をしていた。
片膝立ちで苦しそうに顔をしかめ、肩で息をする。一息ごとに傷が痛んで、ユウィルは眩暈を覚えた。先に魔法使いから受けた傷もまた開いてしまったらしい。腕が上がらない。
顔を上げると、ちょうど獣が一本になった前脚で地を蹴ったところだった。どれだけ傷付こうとも、殺されるまでは殺すことだけを考え続ける生き物。ユウィルの心を絶望が満たした。
こんなのに勝てるはずがない……。
けれど、どれだけ泣いても、相手が攻撃の手を緩めることもなければ、自分が助かることもない。たとえボロボロになっても、脚が二度と動かなくなっても、腕が上がらなくなっても、相手を倒さなければならないのはユウィルとて同じだった。
恐らく王女もそうして戦ったのだろう。誰もいないこの森の中で、弓を折られ、何度も爪で肉を裂かれ、それでもレイピア一本で獣を倒し、傷付いた身体でこの森を出ようと歩いていたのだろう。
ユウィルは立ち上がった。戦わなくてはいけない。
獣が再び風のように襲いかかる。ユウィルは必死に魔法の刃で斬り付けたが、あまり効果を発揮せず、数メートル離れた樹に叩き付けられて崩れ落ちた。そしてまた、そんなユウィルに獣が牙を立てる。
血が雨のように草木に注いだ。
それでもユウィルは立ち上がった。あまりにも多くの血が流れすぎて、すでに意識が朦朧としていたけれど、生きるために……。
何度も、何度も、恐らく王女がそうしたように……。
そんな、小さな魔法使いの少女が血に染まっていく様を、シティアは震えながら見つめていた。
助けなければいけない。
ずっとそう思い続けていたけれど、どうしても脚が動かなかった。
先程彼女が見せた魔法。見えない刃。自分の目の前に噴き出す血と、自分の身体から飛び散る肉片。幼い頃の記憶。
腹部が痛んだ。怖い。どうしようもなく怖い。
けれど、このままではいつかユウィルは殺され、そしてその後、自分も殺されるだろう。まったく抵抗することなく、一撃のもとに。
ここで剣を取り、立ち上がらなくてはいけない。そして先程そうしたように、再びあの獣と対峙し、倒さなければならない。ユウィルを助けなければならない。
シティアは多大な不安をまとったまま、剣を支えにしてよろよろと立ち上がった。ユウィルの絶叫が上がったのは、まさにその時だった。
「うああぁぁああああああああああぁぁぁぁぁぁっ!」
シティアから随分離れたところで、ユウィルが地に伏していた。そしてそのユウィルの肩が獣の口の中に収まっている。牙が肌にめり込んでいた。
シティアはグッと柄を握ると、大きく息を吸い込んで、そして叫んだ。
「こらあぁぁぁあああああぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
言葉の内容はどうでも良かった。ただ、自分自身にカツを入れると同時に、獣の気をこちらに向けるのが目的だった。背中や肩は思ったほど痛まなかった。ユウィルの手当てが効いているようである。
シティアの声に驚いたように、獣がユウィルを解放し、彼女の方を見た。同時に、たった今傷付いた右肩を押さえた状態で、額から汗を流し、わずかに開いた目でユウィルもまた彼女を見る。
シティアは獣を睨み付けたまま、やはりできるだけ大きな声で言った。
「ユウィル! 私がこいつを引きつける。でも、悔しいけど今の私じゃ、絶対にこいつを倒せないから……だからユウィル! あなたが死ぬ気で魔法を使いなさい!」
シティアの声が消えるより少し早く、獣が地を蹴った。すでに獣もかなりの怪我を負っている。
恐らく通常の状態であれば勝つこともできただろう。シティアはそう思った。
けれど、満身創痍の今では無理だ。ユウィルと力を合わせなければ、とてもではないが勝てそうにない。
向かってくる獣をキッと睨み付けたまま、シティアもまた大地を蹴った。
生死を賭けた最終戦が、今幕を開いた。
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