初めてここに入った日、その匂いについてタクトに言及すると、彼は自分がその匂いを感じたことはないと話した。
その後も彼女は、ここで知り合った仲の良い友人に同じことを言ってみたが、やはり誰一人としてその匂いに気が付いた者はなかった。
だからユウィルは、初めそれは自分の気のせいだと思い込もうとしたが、来る度に感じるその匂いを、とても気のせいだと思い込むことはできなかった。
一週間ほどの間、ユウィルはその匂いについてあれこれ考える内に、ある一つの事実に気が付いた。それは、タクトを初めとする強い魔力の持ち主の側にいるときほど、ほんの少しだがその匂いを強く感じるということである。
そこで彼女は、漠然とこのようなことを考えた。
『この冷たい匂いは魔力、もしくはそれに類する何かからするもので、つまり魔力、あるいはそれに類する何かは、単に個人に能力として存在するものではなく、ある特有の見えない物質なのである』
彼女は自分の中で釈然としなかったものに対して勝手にそう結論付け、納得することにした。
それは、もしも彼女がタクトか、あるいは彼女に魔法を教えている教師の誰かに話していれば、ひょっとしたら世界の何かが変化するほどの大発見だったが、しかし彼女は、自分の考えは所詮は子供の考えに過ぎず、話しても笑われるだけだと思っていたので、誰にもそれを話すことはなかった。
またタクトも、初日以降、彼女の口からその話が一度も出なかったので、恐らく彼女が感じたものは建物特有の匂いなのだろうと思い、数日後には完全に頭からなくなっていた。
結果としてその匂いは、単にユウィルにとって、「ああ、自分は魔法研究室にいるんだなぁ」という感慨を呼び起こす道具以上にはなり得なかった。
この日もユウィルは、その匂いを嗅ぎながら、入り口から1階の中央フロアへと続く通路を歩いていた。
魔法研究所は、真ん中が吹き抜けになっており、螺旋階段が頂上まで続いている。そしてその螺旋階段から壁側に向かって、各研究室や薬剤庫、もしくは食堂や談話室が存在した。
タクトの話では、北方の魔法王国ヴェルクにある魔法研究所も同じような作りになっているらしい。魔法で宙に浮かぶことのできる人間には、こういう造りが一番階の移動がしやすいのである。
ユウィルは中央にある“フライトサークル”の手前でその上空に目を遣った。ここでは、誰か他に飛んでいる人がいないかを必ず確認することになっている。
それは、飛んでいる最中に他の者とぶつかって、その集中が途切れてしまわないようにするためである。魔法は集中しなければ使うことができず、さらにその集中が途切れたときに惨事を招く可能性がある。また、仮にその魔力を上手く流せたにせよ、落下した衝撃で骨折などの肉体的なダメージを受けるかも知れない。
同じようにこの研究所では、大きな声や音を出すのも厳禁になっていた。よって、もちろん自由に話しても良い部屋は用意されていたが、基本的には常に静寂に包まれており、幼く、まだはしゃぐのが好きなユウィルには、やや耐え難い空間だった。
首だけで覗き込むようにして上を見ると、誰かがゆっくり下降してくるのが見えた。目の悪いユウィルには初めそれが誰だかわからなかったが、3階くらいの高さまで来たとき、それが自分の友達の少女であることがわかった。
もちろん友達といっても、魔法研究所は15歳からしか入れないので、ユウィルより3つほど年上だったが、それでも相手があまり年齢などを気にしないタイプなので、ユウィルは彼女と気軽に話をすることができた。
カツッと冷たい音を立てて彼女の靴が床につき、ゆっくりと目を開けたのを確認してから、ユウィルは驚かさないように小さな声で呼びかけた。
「どこかへ行くの? シェラン」
どこかへ、というユウィルの言葉は、この建物が1階にはほとんど何も存在しないことから来ていた。つまり、わざわざ1階まで下りてくる者は、その大半が外へ出ていくのである。
シェランと呼ばれた短い赤毛の少女は、声のした方を向き、それが自分の友人であることを確認すると、元気に笑って見せた。
「あ、お帰り、ユウィル。それ、またタクトさんのお遣い?」
それ、というのは彼女の持っている大きな袋のことだった。ユウィルは笑顔で頷いた。
「うん。あ、でも、薬草ばかりで量の割に軽いんだよ」
「ふーん。結構悪い薬とか入ってたりしてね」
いたずらっぽくシェランが言って、ユウィルは小さく唇を尖らせた。
「タクトさんに限って、そんなこと絶対にないもん」
「あはは。わかってるわよ」
シェランが明るく笑い飛ばした。もちろん、声は研究所向けに抑えてある。器用な人だと、ユウィルは場違いなことを考えた。
少しの間笑ってから、シェランは出入り口の方を指差しながら、初めのユウィルの質問に答えた。
「あたし、今日はもうおしまいなの。これからフェザールとお夕食よ」
「あ、いいなー」
フェザールというのは、彼女の恋人の名前である。異性にはまったく興味のないユウィルだったが、シェランの嬉しそうな顔と、夕食という言葉の持つ響きに、少し羨ましくなった。
シェランは得意げに笑うと、
「それじゃ、また明日ね」
元気よく手を振ってユウィルの横を通り過ぎた。
「うん。また明日」
シェランの方を振り返りながらユウィルが同じように手を振ると、ふと思い出したようにシェランが足を止めてユウィルを見た。
「ああ、そういえばユウィル。さっき、タクトさんのところに、お城の人が来てたみたいよ」
「お城の人?」
ユウィルは首を傾げた。考えてみれば、この研究所は王立の施設なので、そういうことがあってもおかしくはないのだが、ユウィルがここへ来てから2週間の間に、城の関係者が来たことなど一度もなかったので、少し違和感を覚えたのだ。
シェランは不思議そうな顔をするユウィルを見ながら、さも当然のようにこう付け加えた。
「まあ、たぶんまたシティア姫のことだと思うけどね」
「え? シティア姫って?」
初めて聞く人名にユウィルは思わず聞き返したが、それに対する返答はシェランからは得られなかった。
「あー、あたし、ちょっと急ぐから。まあ、ユウィルもくれぐれも気を付けてねってこと」
「えっ? あ、うん……」
よくわからないまま、ユウィルは元気に走り去っていく友達の背中を見送った。
(シティア姫……この国の王女様?)
一体どんな人なのだろうか。タクトとはどういう関係があるのだろう。
“フライトサークル”の前に立ち、しばらくの間まだ見ぬシティアという人物について考えたが、結局答えが得られるはずもなく、やがてユウィルは思考をやめた。
(まあ、タクトさんのところに行けばわかるか)
そう思い直すと再び上を見て、誰もいないことを確認してから、ユウィルはふわりと宙に浮かび上がった。
最上階8階のフロアまで一気に浮かび上がると、ユウィルは慎重に着地してから深く息をついた。魔力はあるが、若さから来る集中力のなさに、ユウィルの魔法のレベルはそれほど高くはない。
「魔法はどれだけ集中力があっても魔力がなければ使えない。けれど、どんなに魔力があっても、集中力がなければやはり魔法は使えない」
ユウィルを初めとする若い魔法使いを教えている、教師の一人の言葉である。どちらがいいのかと言えば、当然どちらも良くないのだが、魔力だけあって集中力のない者は周囲に危険を及ぼす可能性がある分、前者の方がましだと彼は語った。ユウィルには耳の痛い話である。
実際、この魔法研究所が15歳未満の子供を拒んでいるのもそのためだった。普通、ユウィルのように独学で勉強した者でなければ、どんなに魔力があったとしても、魔法を使うことはできない。そのために、総合的に見て集中力に乏しい若すぎる世代の者には、魔法を教えないことになっているのだ。
にも関わらず、ユウィルが13という歳で魔法を習うことができたのは、内に秘められた甚大な魔力と、魔法に対する勤勉さ、そしてそれらに伴って生じる危険のためだった。実際ユウィルの魔力は、ウィサン一の魔法使いであるタクトをも凌駕する。
日頃はまだ未熟で、あまりうまく魔法を使うことができなかったが、通常の冷静な大人と同じくらいの集中力を発揮したときのユウィルの魔法の強力さは、2週間前の湖岸での戦いで実証済みである。
ユウィルはタクトにとって、最も危険な存在あり、またそれ以上に期待できる少女だった。
そんなタクトの期待はどこ吹く風で、今のところ自分がすごい魔法使いであることなど考えることもなく、ユウィルは魔法の勉強に明け暮れていた。この建物内におけるすべてが進歩であり、タクトといる時間は至宝だった。
ようやくタクトの部屋の前に戻ったユウィルは、逸る気持ちで二度ノックして、そっとドアを押し開けた。
「失礼しま……いたします」
研究所での礼儀に倣って頭を下げると、後ろ手にドアを閉めて中に入った。
この研究所の中で最も冷たい匂いのするその部屋の中で、魔術師タクトは腕を組み、難しい顔をしたまま座っていた。日頃は綺麗に整っている巨大な木の机の上が、少しだけ本が散乱した状態になっていた。
ユウィルはそんなタクトの厳しい顔に、まるで自分が怒られたかのような錯角を覚えた。もちろんそれは錯角でしかなく、単にタクトが難しい顔をしていることが多かっただけなのだが、まだ幼いユウィルにはなかなか慣れることができなかった。
ひょっとしたら、帰ってきた時間が遅かったのだろうか。ユウィルは不安になった。
けれどそれも一瞬のことで、ユウィルが帰ってきたことに気が付いて、タクトがゆっくりと顔を上げて頬の緊張を緩めた。
「お帰り、ユウィル」
「あ、はい。えっと……頼まれていたものを買ってきました」
あたふたしながらそう言って、ユウィルが袋を見せると、タクトは部屋の一角を指差して、そこに置くよう指示を与えた。ユウィルは袋を言われた場所に置くと、再びタクトの方を見た。
タクトはユウィルに小さく「ご苦労だった」と言った後、再び腕を組み、考え込むように目を閉じた。
物音のしない、静かな時間が流れた。ユウィルはその間、やはり一言も喋らずに、ただ黙ってタクトが口を開くのを待っていた。待ちながら、先程のシェランとの会話を思い出していた。
『まあ、たぶんまたシティア姫のことだと思うけどね』
シティア姫とはどういう人なのだろうか。再び疑問がユウィルの胸に沸き起こり、それが抑えられないレベルに膨れ上がった。
とうとうユウィルは、好奇心を抑え切れずに沈黙を打ち破った。
「あ、あの……」
閉め切られた部屋に高い声が響いて、タクトが細く目を開いて彼女を見た。ユウィルはタクトと目が合うと恐らく何も話せなくなってしまうと予想していたので、顔を床に向けたままでいた。
相手の目を見て話さないのは失礼だとは知りながらも、そのままの状態で言葉を続けた。
「あの、お城の人が来たって……その、お友達に聞いたんですけど……」
ちらっと目だけで師を見ると、彼はじっとユウィルを見つめていた。背筋に冷たい汗が流れ落ち、心臓が強く打った。
聞いてはいけないことを聞いてしまったんだ。タクトを怒らせてしまったかも知れない。
そう思い、慌てて謝ろうとしたが、彼女がそうするより早く、タクトが低い声を紡ぎ出した。
「それを聞いたのなら話は早い」
「……えっ?」
「実はユウィルに、頼みたいことがあるんだ」
穏やかながら、わずかに不安そうな声。初めて聞く動揺した師の声と、自分の心配がまったくの杞憂だったことを知った安堵感に、ユウィルは一気に力の抜けるのを感じた。
「あたしに……頼み事ですか?」
半ば呆然となったままユウィルが聞き返すと、タクトは静かに頷いた。そして、感情を強く抑えた、反論はおろか質問さえ許さない口調で言葉を吐いた。
「急な話だが、明日ユウィルに、シティア王女の護衛をしてもらいたい……」
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