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湖の街の王女様
ウィサンの街の魔法研究所で、魔法の修行に励む少女ユウィル。ある日ユウィルは、師であるタクト・プロザイカから、王女シティアの護衛を任されるが……。

 それは6年前の、寒い冬の夜のことだった。
 外ではこの地方には珍しく雪がしんしんと降っていて、あまりの寒さにシティアは夜中に目を覚ました。
 眠りについてからどれくらい経ったのかはわからなかったが、窓の外が真っ暗だったので、恐らく朝はまだ遠い時間だろう。けれど、身体を起こすと眠気は吹き飛び、意識が完全に覚醒してしまった。
 ベッドから抜け出ると猛烈な寒さがシティアを襲い、彼女はぶるっと身震いしてからガウンを身にまとった。そしてゆっくりと窓まで歩いて外を眺める。
 白い雪がふわふわと舞い落ちる向こうに、真円の月の浮かぶ幻想的な夜だった。雪をあまり見たことのないシティアは、しばらく目を輝かせてそんな雪を眺めていた。
 彼女の大きな瞳に、月の光を浴びた雪が蛍のように舞う。
 どれくらいそうしていたのかはわからないが、やがてふっと眠さが目の奥をかすめて、彼女は小さくあくびをした。
 そしてベッドに戻ろうと窓に背を向け、一歩足を踏み出したとき、ゾクッとした悪寒が背筋を走って足を止めた。生命ある生き物であれば誰にでも感じられるであろう、殺意に満ちた気配。
 そっと自分の足元に目を遣ると、月の光を受けて窓の形に切り取られた床の上に、自分とは違う人間の影が映っていた。
「だ、誰……?」
 恐る恐る振り返ったそこに、黒いマントをはためかせて、男が一人浮かんでいた。
「っ!」
 思わず口元を塞いで、シティアは一歩後ずさった。
 夜中という時間。月を背景に浮かぶ、黒マントの男。冷酷な瞳。わずかに笑みを浮かべた口元。そして、頭部には青い髪。
 当時まだ、青い髪の毛の人間も見たことがなければ、魔法というものもほとんど知らなかったシティアには、その男のすべてが恐怖そのものであった。
「い、いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
 シティアは絶叫した。その声に音をかき消すように、男は魔法で窓ガラスを叩き割ると部屋の中に侵入してきた。
 恐らく初めは、もっと彼なりに、エレガントに王女を仕留めるつもりだったのだろう。彼にとって彼女が起きていたのは誤算だったに違いない。
 シティアは突然割れた窓ガラスに萎縮し、じりじりと後ずさった。
 男がそんな彼女を見てゆっくりと手を上げる。口元がいびつにゆがんだ。
(殺される……)
 シティアはドアに向かって駆け出した。同時に、凄まじい衝撃が身体を走り、彼女はそのままドアに叩き付けられた。
「痛いっ!」
 シティアは無様に転がりながら、それでも必死にドアを開けた。身体がひどく痛んだが、足を止めるわけにはいかない。
「誰かっ! 誰か助けて! 誰かぁぁぁっ!」
 シティアは絶叫しながら廊下を駆けた。
 男が廊下に飛び出してくる。そしてその手から風の刃が迸り、彼女の身体を切り裂いた。
「いやぁぁぁぁぁっ!」
 真っ赤な鮮血が廊下の壁に飛び散り、シティアはそのまま前のめりに倒れ込んだ。
 遠くからドタドタと足音が聞こえてくる。恐らく、騒ぎを聞きつけてやってきた兵士たちだろう。
(た、助かるのかな……?)
 シティアは希望の光を見て、うっすらと目を開けた。しかし、自分の前にねっとりと広がる血だまりに息を飲み、すぐに顔を背けた。
 なるべくそれを見ないようにと、身体を反転させた彼女を待っていたものは、自分のすぐ足元に立つ男の笑みと、シティアには病的に映る青色の髪の毛だった。
「あ……あぁ……」
 目を見開いて身体を震わす以外に、彼女にできることは何一つなかった。
 男の手が真っ直ぐ下に、シティアの腹部に狙いを付けて広げられた。
「いやぁぁっ!」
 反射的に飛び退いたが、それによって彼女が彼の一撃を完全によけることはできなかった。けれど、飛び退かなければ、恐らく彼女は生命を落としていただろう。
 肋の下の辺りにわずかな圧力を感じた後、肉の剔れる感触がした。猛烈な痛みと熱さが込み上げてきて、すさまじい眩暈と吐き気が襲う。
(苦しい……)
 息苦しさを覚えたその1秒後に、シティアは自分の口から大量の血が噴き出すのを見た。
 そして彼女は、完全に意識を手放した。

 その後、一命を取り留めたシティアは、怪我が完治するや否や剣の稽古に励むようになった。その頃から彼女は親を信じていなかったから、自分の身は自分で守るしかないと考えたのだ。
 元々運動神経がよく剣に興味のあったシティアは、見る見る剣の腕を上げ、すぐにウィサン一の剣士に成長した。
 また、シティアが怪我をすると同時に、王ヴォラードは街に魔法研究所を創設した。彼は魔法には魔法を以って当たらねばならぬと考えたのである。
 初代研究所所長には、当時城内で唯一の魔法使いであったコリヤークという男が任命されたが、彼は一介の魔法使いに過ぎず、研究所の所長という位はいささか荷が重かった。
 そこで王は、たまたま友好関係にあった北方の王国ヴェルクの国王ハイスに相談し、魔法使いとしての彼の相棒であったタクト・プロザイカを紹介された。
 こうして、当時若干18の若者であったタクトが研究所の所長となり、彼が持ち合わせていなかった知識を補うために、コリヤークがその補佐に就いた。
 そして今に至るのだが、タクトが就任した際、ヴォラードにとって一つの誤算が生じてしまった。それは、タクトがシティアが見た暗殺者に近い外見をしていたのである。
 実際にどれくらい近いかは定かでないが、彼は青い髪をした魔法使いだった。つまり彼は、シティアが覚えていた暗殺者の二つの特徴を網羅していたのだ。
 しかし、もちろん彼が暗殺者であるはずはなかった。単にこの世界では、大陸北部ほど魔法が発達しており、青い髪の者も多かったのである。
 ところが、ウィサンにはそういう者がほとんど皆無に近かったために、シティアは知識としてそう教えられても、どうしても彼を受け入れることができなかった。結果として彼女はますます魔法が嫌いになり、自分を苦しめた魔法に力を入れている両親をも憎んで、自分から孤立していったのである。
 王女はそれらをすべて理解していた。けれど、それは素直になれる、なれないの問題ではなく、もはや彼女の生理的な部分、極めて本質に近い部分で受け入れられなかったのである。
 事実、今でも彼女は魔法を恐れていたし、魔法を見ると古傷が痛んだ。怖くて足がすくみ、震えてしまうこともあれば、泣きたくなることも、逆に破壊的な衝動に駆られることもあった。
 すべてわかっていながら、しかしどうすることもできない苦しみ。それが自分に課せられた宿命なのだと、シティアは自嘲気味に笑って語った。
 自分の過去と現状を話し終えて、彼女は思わずこぼれ落ちた涙を拭った。そして、すでに何もなくなった空から視線を地面に戻すと、小さく呟いた。
「つまんないこと、聞かせちゃったね……」
 彼女の声は、もはや隠すことのできない感情に途切れ、震えていた。
 ユウィルはその話を、王女の身体を抱きしめたまま、じっと聞いていた。
 それは小さな彼女にはあまりにも衝撃的な話だったから、王女が話し終わってからも、しばらく何も言うことが出来なかった。
 真っ先に頭に浮かんだのは刺客のことだった。それはあまりにも自分とかけ離れた存在だったから、その言葉に嫌悪感を覚えたのだ。
 一体その後、その刺客はどうなったのだろうと疑問に思った後、先程森で襲ってきた魔法使いのことを思い出した。それはまず王女に伝えなければならない。
 そう考えたユウィルだったが、今余計に彼女が魔法嫌いになるようなことを言うのはどうかと思い、口を噤んだ。自分が魔法使いに襲われた話を聞いて、彼女が良い気分になるはずがない。そう願いたい。
 だったら、自分が昔魔法使いに助けられた話や、魔法の良さを伝えるのはどうだろうか。次に彼女はそう考えた。
 同じ魔法というものを、悪く使う者もあれば善く使う者もある。実際にそれが人の命を助けることもできるということを伝えるのは、決して彼女にはマイナスではないだろう。
 けれど、すべてをわかっている彼女にそういう話をするのも、却って悪い気がして、ユウィルはやはり何も言えなかった。
 今は、魔法使いである自分は黙っていた方がいいのではないだろうかと思ったけれど、沈黙は途方もなく重くのしかかり、何か言わなければいけない気持ちだけが強く心を支配した。
 そうしてユウィルが困り果てていると、背中越しにシティアの穏やかな声がした。
「ごめんなさい。困らせてしまったみたいね……」
「あ、いえ……」
 咄嗟に否定しようとしたが、言葉が続かなかった。
「ごめんなさい……」
 もう一度、シティアが謝った。
 何に対して謝ったのかはわからなかったけれど、とにかく今は彼女の心を慰めてあげたかったから、ユウィルは元気良く頷いて見せた。
「はい。いいんです。あたしは、シティア様が好きですから」
「ユウィル……」
 雲間から覗かせる青空がよりいっそう光を強めた気がして、ユウィルはその眩しさに一度大きく瞬きをした。
 遠くから鳥のさえずりが聞こえてくる。清涼感あふれる木々の緑。
 そして、ポカポカと温かいシティアの背中。先程までの喧噪が嘘のように静かで平和な時間だった。
 ユウィルは再び眠気に襲われて、そっと目をつむってシティアの背に頬を当てた。トク、トク、と彼女の心音が伝わってくる。
 それが心地良かったから、ユウィルはそのまま寝てしまいそうになって……。
「あっ!」
 シティアの息を飲む音。それと同時に強張った身体。速く打ち出す心臓。
「どうしたんですか?」
 ただならぬ気配を察知して、シティアの傷に障らぬように立ち上がった彼女の目に飛び込んできたのは、先程のものより一回り大きい、あの黒い獣だった。そいつが木々の間から、真っ赤な瞳で二人を睨み付けていたのだ。
 恐らく、シティアが殺したであろう先程の獣の親だろう。
 ユウィルはそんな獣の迫力に気圧され、すくみ上がった。けれど、自分の足元で絶望的な表情をしている満身創痍の王女を見て、すぐに気を持ち直した。
 同時に、これはチャンスかも知れないと思えたのは、日頃から前向きなユウィルの強さかも知れない。
 獣を牽制したまま王女の前に立って、ユウィルは力強く宣言した。
「大丈夫です、シティア様。あたしが魔法でお守りしますから」
 シティアが無言で頷いたのを、ユウィルは気配で察知した。
 人間同士の決闘とは違い、なんの前口上もなく、戦いの幕はすぐに切って落とされた。
 獣が唸り声を上げて猛然と大地を蹴った。

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