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湖の街の王女様
ウィサンの街の魔法研究所で、魔法の修行に励む少女ユウィル。ある日ユウィルは、師であるタクト・プロザイカから、王女シティアの護衛を任されるが……。

 シティアはもはや涙を流すことも出来ず、一度目を細めると、無表情のまま男を見上げた。そして静かに目を伏せて、ゆっくりとユウィルの上に崩れ落ちる。
「おいおい、どうしたんだ? 王女様。俺はまだ何もしてないぜ?」
 男が侮蔑する声が聞こえたが、それに反応する余力はもはや微塵も残されてはいなかった。
 6年前、一命を取り留めてから今まで、自分を襲った青髪の魔法使いを殺すことだけを励みにして生きてきた。復讐を糧にして、文字通り血を吐くような訓練をして誰にも負けない強さを手に入れた。
 それが、長い月日を経てようやくその憎むべき男が姿を現した今、自分はなんと無力なのだろう。武器もなく、満身創痍で身体を動かすことさえままならない。
 すべてが無駄だった。自分のしてきたことも、受けた傷も、生も。
「ごめんなさい……」
 ユウィルの胸に顔を埋めて、シティアは震える声で呟いた。男が何か言ったようだったが、もはやシティアにはどうでも良いことだった。
 悔しさも怒りも憎しみもなく、ただ虚しさだけがシティアの胸を埋め尽くしていた。自分のせいで一人の勇敢な少女を死なせてしまったのが、途方もなく悲しかった。
「ごめんなさい、ユウィル……」
 もう一度そう言うと、グイッと髪を引っ張られ、そのままユウィルの身体から引き剥がされた。頭皮の痛みに目を開けると、疲れのためにかすんだ視界に、怒りに満ちた男の顔があった。
「あの時の威勢はどうしたんだ? 俺はお前のせいで人生を狂わされたんだ。抵抗の一つでもしてくれなきゃ、なぶる楽しみがないだろう」
 鼓膜を震わせたその言葉が、なんとかシティアの脳に意味を伝える。シティアが思ったことは、ざまぁみろの一言だった。
 一体自分の何がこの男の人生を狂わせたのかはわからなかったけれど、少なくとも自分の生命を狙ったこの男が、自分があの日生き延びたために人生を狂わされたのが嬉しかった。
 シティアがうっすらと笑みを浮かべると、自分が馬鹿にされたのがわかったのだろう。男が顔を真っ赤にして、シティアの頬をはたいた。
「もういい。まったくつまらん。望み通り、今すぐとどめを刺した後で、そっちのガキも地獄に送ってやるよ」
 殴られた衝撃で地面に横たわったシティアの目に、両手を前に突き出して、魔法を使おうとしている男の姿が写った。
「ごめんなさい……」
 最後にそう、ぽつりと一言呟くと、まなじりから涙がこぼれ落ちた。
 けれど、これから殺されるというのに、恐怖はまったく感じなかった。
 きっと、初めて誰かを好きになれた喜びのため。その少女の許へ行けるという嬉しさのため。せっかく好きになれた少女のいないこの世界には、もはや何の魅力もないから……。
 男が笑って手を振りかざした。
 ふと、聞き慣れた声が、静かに死の瞬間を迎えようと心を落ち着け、目を閉じたシティアの耳朶を打ったのは、まさにその時だった。
「それくらいにしてもらおうか」
「何っ!?」
 突然の声に慌てて魔法を受け流し、男が勢い良く振り向きながら身構える。
 シティアも驚きに目を開けて、両手をついて半身を起こした。
 声の主はわかっていた。
 4年前に初めてその声を聴いた。自分の最も嫌いな男。
 けれど今、これほど嬉しかったことが他にあったろうか。シティアは絶望をすべて希望に変えて、歓喜の声をあげた。
「タクト!」
 果たしてそこに立っていたのは、紫色のローブをまとった青髪の魔法使いだった。現魔法研究所所長は、見た者を凍り付かせるような冷酷な眼差しで男を睨み付けたまま、低く通る声で言った。
「誰だか知らないが、今すぐそこを退け。そうすれば、生命は助けてやる。ここでお前と本気でやり合っていると、助かる者も助からなくなるからな」
 怖い、とシティアは思った。思わず身震いをしてしまったけれど、その圧倒的な威圧感を持った男が自分の味方であることが、この上なく心強かった。
 男は突然現れた実力者を前にしても、しかし動じることなくこう切り返した。
「貴様こそ、こんなところまでご苦労なことだが、下がっていてもらおうか。さもなくば、王女の生命はない」
 そして、タクトを牽制したまま、手の平を王女の方に向けて広げる。
 王女は負けじと、威勢良く男を睨んだ。元気と勇気が戻ってきたらしい。続けて言葉を吐こうとしたら、それより早くタクトが言った。
「お前とここでのんびり話している時間はない。もう一度だけ言う。今すぐそこを退け。さもなければ……」
 そこで一旦言葉を止めて、タクトは目を細めた。
「わたしはお前のすべてを奪い、そして最後にお前を地獄に叩き落とす。わたしの一生をかけて」
 気温が氷点下まで下がったような寒さを覚えて、シティアは息をするのも忘れて彼を見つめた。自分が今まで冷たく当たってきた人間が、如何に恐ろしい男であったのかを痛感するとともに、彼が如何に自分を愛してくれていたか、そして、倒れたままわずかに胸を上下させている小さな魔法使いを愛しているかを知った。
 ウィサン随一の魔法使いに脅されて、かつて大胆にも王城に忍び込み、王女の生命を狙った刺客も為す術がなかった。もし彼が強い魔力の持ち主でなければ、すでにタクトに殺されていただろう。
「ちっ、まあ、今日のところは下がってやる……」
 決して警戒を緩めることなく、ズリッと一歩後ずさると、そのまま身を翻して草の中に飛び込んだ。
 タクトはほんの少しの間だけ彼の背中を睨み付けていたが、すぐにユウィルに駆け寄ると、そっと彼女のまぶたを指で押し開けた。
 シティアはそんな彼の隣に立って、戸惑いながらもはっきりと言った。
「タクト。ユウィルを助けて」
「言われるまでもない」
 瞬時にタクトが答えて、あまりのその勢いにシティアは一瞬呆然となった。焦りに動揺している彼を見たのは初めてだった。
 そんなシティアを余所に、タクトはユウィルがまだ生きているのを確認すると、ナイフで自分の人差し指の先に傷を付けた。そしてそれをユウィルの肩に当てて、目を閉じる。
 恐らく血を送っているのだろうと、シティアは察した。その行為に若干の嫌悪感を覚えたが、ユウィルの顔色が見る見る良くなっていくのを見て、シティアは顔を綻ばせた。
「す、すごい」
 タクトは続けて木の枝を取り、シティアとユウィルを中心に六芒星を描いた。そしてその周りに蝋燭を並べる。
「タクト、これは?」
 訝しげに尋ねるシティアに、タクトは短く早口にこう答えた。
「話は後です。今から貴女たちを街に送る。目を閉じてください」
「そ、そんなことができるの?」
 驚愕に目を見開くシティア。タクトは、蝋燭に火を付けながら、
「ジェリスという男に感謝するんですね」
 そう口走ると、そっと魔法陣から離れた。
「さ、それでは今から送りますから、目を閉じてください」
「タ、タクトは?」
「私もすぐに行きます。では、やります」
 シティアへの返事も中途半端に、さっさと目を閉じると魔法を詠唱した。恐らく、ユウィルの様態は一刻を争うのだろう。
 シティアは黙って目を閉じた。
 静かに、タクトの声が二人を包み込んだ。

『ツァイト ツァイト エルテ フェゼイン……
 すべての道を統べる者
 彼らをかの地へ導き給え
 時を越え 時空を渡り
 海を割り 大地を裂いて
 風よ 道を築いて吹き給え……』

 声の余韻が消える頃、そこに立っていたのはタクト一人だけだったが、すぐにその影も消え、風が静かに戦場跡を吹き抜けていった。

 それから一週間が経った。
 今回の一件は王女の生命が6年ぶりに狙われ、かなりの重傷を負うに至ったが、咎められた者は誰もなかった。
 真っ先に王女を見捨てて逃げ帰った四人も、彼女の配慮でお咎めなしとなった。彼らが逃げ帰り、それをユウィルを心配して様子を見ていたタクトが発見したことによって、結果として死者が出なかったのは、彼らにとっても、そして王女にとっても不幸中の幸いだったといえよう。
 恐らく、彼らが森に残り、必死に王女を捜索していたら全滅は免れなかっただろう。
 結局、事件後変わったことといえば、シティアの魔法嫌いが多少直ったことと、ほんの少しだけ大人しくなったことくらいだろうか。他にも、タクトと王ヴォラードが、内々に魔法使いの行方を追っていたが、それは世間の与り知らぬところであった。
 良く晴れた日の午後、シティアはパレルクリウ診療所を訪れた。
 事件以来、ユウィルの意識は戻っておらず、今もなおここで治療を受けているのである。とはいえ、怪我自体はタクトの尽力もあって、ほとんど傷痕一つ残らずに治っており、彼女が目を覚ますのも時間の問題だということだった。
 シティア自身も、2日間くらいここに入院していたが、やはりタクトの手当てを受けて、もうすっかり良くなっていた。傷も、以前からあったもの以外はすべてなくなっている。
 ユウィルのベッドの傍らに座り、彼女の栗色の髪をなでながら、シティアは小さくため息を吐いた。
「結局、私のしてきたことって何だったのかしら……」
 穏やかな陽射しが窓から入り、シティアの髪を照らしている。その陽射しに縁取られるような格好で、窓際に置かれた椅子に腰掛けていた青髪の青年が、彼女を見て目を細めた。
「そんなに悲観的になることはありません」
「そうかしら?」
 不安と期待の入り交じった瞳で彼を見ると、彼は今までの過去はすべて水に流すと言わんばかりに笑って彼女を見つめ返した。
「王女が魔法使いを嫌いになったのも、わたしを嫌いになったのも、それは仕方のないことです。王女とて人の子。王とて、わたしとて、神ならぬ身には、すべてを愛することなど不可能ですよ」
 そう言って、タクトが優しく笑って見せる。
 色々な顔をする人だとシティアは感心した。あの時、あの森の中で見せた威圧感も、紛れもなく彼なのだろう。
 シティアは言葉に詰まり、ユウィルに視線を戻した。そして再び、安らかな寝息を立て続けている少女の髪をなでて言葉を吐いた。
「でも、貴方は私のことを案じていてくれた。この子も……私が冷たくしたのに優しくしてくれた。私は、自分が恥ずかしいです」
 自戒の念に囚われる彼女。タクトが小さく笑った。
「そう思うのでしたら、これからはそのように生きることです。まだいくらでもやり直しがききますよ」
「まだ、若いもんね」
 いたずらっぽく王女が笑って、タクトが静かに頷いた。
 久しぶりに笑ったような気がして、シティアは生まれて初めて感じる温かさに包まれていた。恐らく、自分から求めればすぐ手の届くところにあった温かさなのだろう。
「ユウィルを護衛に付けてくれて、ありがとう」
 まったく無意識の内にそう口走ってから、自分で驚いた。
 あれだけ嫌っていた魔法研究所の所長に対して、素直に礼を言っている自分。シティア自身が初めて見る自分。頑なに閉ざされていた心は二人の魔法に開かれて、今彼女は初めて触れる安らぎの中に確かな幸せを感じていた。
 しかし、そんな彼女の予想に反して、タクトは彼女の言葉に渋面になると、苦々しく言葉を吐いた。
「王女がわたしたちのすべてを拒絶していたから、それでユウィルを遣わせました。歳もあなたに近いですし、仲良くなれるかも知れない。ひょっとしたら、あなたが魔法を好きになってくれるかも知れない。そう思いました」
「そう。魔法を好きになるのは、まだちょっと難しいけど、でも、今こうして貴方とお話している現状は、ほとんど思い通りになったということ?」
「そうですね。しかし……」
 そこで言葉を切り、タクトは深く目を閉じた。
「あなたとユウィルを危険な目に遭わせてしまったのは、完全にわたしの誤算です。結果的に助かったとはいえ、今回の一件は起こらずに済んだものでした。わたしの落ち度です」
「そ、そんなことないわ!」
 タクトがひどくつらそうに見えて、シティアは思わず声を荒立てた。
「だって、これは予測できない事態でしょう。あんな獣も、今まで見たことがないし……」
 タクトはしばらく何か考え込むような素振りを見せたが、結局何も言わずに、ただ深く頭を垂れた。そして首を数回横に振る。
 よほど何か思うことがあるのだろう。シティアはそんな彼の様子に何も言えなくなってしまった。
 気まずい空気が流れかけたその時、少しかすれた、それでも元気な声がした。
「タクトさんは悪くないです」
 シティアが驚いて振り向くと、ベッドの上に、一週間ぶりに見るユウィルの笑顔があった。
「ユウィルっ!」
 シティアが歓喜の声をあげる。ユウィルはそんなシティアに微笑んで見せてから、身体を起こしてタクトを見つめた。
「あたしが……弱かっただけです。精神的にも、魔法も。もっとちゃんとシティア様に付いていれば、あたし一人で十分シティア様をお守りできました」
 もちろんそれは、あの後シティアが魔法使いの刺客に襲われたことを知らないから言えた台詞だろう。
 それでも、あながち外れてはいなかったし、彼女がそれだけの台詞を吐けるだけの自信を付けてくれたのがタクトは嬉しかった。
 だからタクトは何も言わずに、ただ穏やかにユウィルを見つめ返した。起きたてで、まだぼんやりしながらも必死に話をし、タクトを弁護しようとするユウィル。そんなユウィルを横から抱きしめて、シティアが嬉しそうに顔を綻ばせた。
「ううん。ありがとう、ユウィル。ユウィルのおかげで、私、助かったわ」
「シティア様……」
 ユウィルは自分より年上の女性に抱きしめられて、少し恥ずかしくなったけれど、それ以上にくすぐったい嬉しさを覚えて、思い切りシティアを抱きしめ返した。
「はい。ご無事で何よりです」
 自分の胸の中で元気に笑う少女。シティアは、この少女と出会えたこと、そして、彼女が無事だったことに心の底から感謝した。
 タクトが二人きりにしようとしたのか、静かに扉を閉めて部屋を出ていく音がした。
 初夏の暑さと、それに勝る胸の中の温もり。少し汗ばんだけれど、それでもシティアはユウィルを抱きしめる手にいっそう力を込めた。
 恥ずかしくて、顔を見られたくなかったから。
「ユウィル。これからも、ずっとお友達でいてください」
 そっと耳元でそう呟くと、すぐそばから、恥ずかしそうで、それでもすごく嬉しそうな、この少女特有の元気な声がシティアの耳と心を震わせた。
「はい! あたしも、シティア様とお友達になりたいです」
 どちらからともなく身体を離すと、今まで密着していた部分を風がなでて気持ちよかった。
 照れながら、それでもしっかりと見つめ合って、二人は声をあげて笑った。
 憂いのない心からのユウィルの笑顔に、シティアはこれから始まる幸せな日々を強く感じていた。
 だからシティアも微笑んでいた。
 まだ多くの心配事が残っていたけれど、今目の前にある幸せを胸に。
 二人の笑い声が、和やかに部屋を包み込んでいた。
Fin
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