一人はまだ小柄で、年格好も幼い少女ユウィル。タクトから借りた白い魔法衣を革のベルトで止め、指には大きな凝力石の埋め込まれた指輪を填めていた。
そのユウィルに背を向けるようにして、4人の男が退屈そうに立ち並んでいた。彼らは皆王国の正規兵で、深緑色に塗られた実用的な革鎧を着けていた。そして今にも出そうになる欠伸を堪え、涙の滲む目で一人の少女を見つめていた。
彼女は粗末ながら動きやすい軽い布の服を身に纏い、腰に幅の広いベルトを締め、それと不釣り合いに輝いたレイピアを佩いていた。一見活発な男の子に見まごう出で立ちだったが、やや冷たく気の強い印象がありながらも美しく整った顔立ちと、背中に届くくらいまで伸びた赤褐色の長い髪。それに、すでに胸に膨らみもある丸みを帯びた身体とほっそりとした四肢は、紛れもなく女性のそれだった。
若干16歳、ウィサンの第一王女シティア、その人である。
シティアは腰に帯びた剣とは別に、1メートルほどの長さの弓を手にしていた。徒歩弓兵よろしく、狩りをするのが彼女の趣味なのだ。時折ふと外に出たくなったり、狩りをしたくなった時、周囲の制止などまったく聞きもせず、こうして剣と弓を持って外に飛び出すのである。
今日の狩りも例に洩れず、シティアの気紛れだった。それでもまだ、前日から決まっていただけ随分ましで、朝起きたら天気が良かったからというだけの理由で外に出ることもあった。
彼女は実質上、国政とは無縁の地位に存在していた。次期国王は、現国王ヴォラードの息子にして、シティアの兄であるエデラス王子に決まっていたし、彼は幼少の頃よりそういう訓練を受けて育った。王と王妃がエデラスにばかり構い過ぎたのもある。シティアは王族として習うべきことを、ほとんど何一つ教わらずに過ごしてきた。我が儘にして自由奔放な性格になったのも、ある意味仕方のないことだったのだ。
しかし、教育に手をかけなかったのと愛していないのは別問題で、ヴォラードも妻のフレイラも、エデラスと同じくらいにシティアのことを愛していた。それゆえ、彼女が城を抜け出すときなどは気が気でなく、今日のように配下の兵士を護衛として付けていた。それが彼らの精一杯だったのだ。シティアはもはや、両親の言うことを聞くような娘ではなかった。
だが、護衛を任された兵士にしてみたら迷惑な話である。しかもそれが彼女の成長に比例して増えているために、彼らのやる気は地の底にあった。また、まだ出番があるのならともかく、彼女の弓の腕前や剣技は大したもので、今までに一度として彼女に必要とされたことがなかった。それもまた、彼らのやる気の低下に一役買っていた。
それでも決して安心しないのが親というものである。無事な日が続けば続くほど、それがいつか終わり、娘の身に何か起きるのではないかと不安になった。しかも、2週間前に湖の畔で子供が化け物に襲われた話も耳に届いている。
そろそろ何か悪いことが起きるのではないか。そんな王の心配が、自ら設立した魔法研究所の現所長、タクト・プロザイカに届いた手紙という形を取ったのだ。
時は昨日の日暮れに遡る。
タクトからシティアについての一通りの知識を叩き込まれた後、ユウィルの胸の中にあったのは不安だけだった。自分よりも年上の我が儘王女というだけでもどうしていいのかわからない上に、危険が伴う可能性のある護衛という任が自分に務まるのかという心配。それにもし何かあった時に責任など取りようもなく、彼女を守る自信のかけらもないことも重なって、ユウィルは思わず涙目で叫んでしまった。
「い、嫌です! あたしには無理です!」
珍しく感情を剥き出しにしたユウィルにいささか驚いた様子で、タクトが言った。
「まあそう言うな、ユウィル」
しかし彼の穏やかな口調も、今のユウィルはむずかる子供同然で、まったく効果を発揮しなかった。
「無理です。だって、そんな……ほ、他に、あたしなんかよりずっとすごい人たちがいるじゃないですか! そんな、どうしてあたしが……」
言葉に詰まって一度鼻をすすると、涙でぼやけた視界に、タクトの困り果てた表情が浮かんでいた。それを見た瞬間、ユウィルは完全に言葉を失くしてしまった。
自分は今、我が儘を言って師を困らせている。
自分の憧れにして尊敬する人物を困らせて嬉しいはずがない。ましてや、そんな人物が自ら頼み事をしてくれたのだ。本来ならば喜んで受けるべきなのだろうが、相手は一国の王女である。安請け合いは禁物だ。
前にも後ろにも行けず、ついに大粒の涙をボロボロとこぼし始めたユウィルの肩にポンと手を置いて、タクトが柔らかな声で言った。
「ユウィル。まず第一に、君は責任というものは考えなくていい。もしユウィルが何か失敗したとしても、それは命令したわたしの責任だ」
「で、でも……」
「でもじゃない。それが師というものであり、弟子というものなんだ」
コクッとユウィルは無言で頷き、服の袖で涙を拭った。タクトは続けた。
「それから、もっと自分に自信を持て」
「自信……ですか? 無理です、そんな」
自虐的に無理である理由を連ねようとしたユウィルを、タクトが首を振って制した。
「君はあの化け物を一人で倒したのを忘れたのか? まさかまぐれだなんて言わないでくれよ。そんなことを言われたら、うちの連中があまりにも惨めだからな」
うちの連中とは、この研究所にいるメンバー全員のことである。あの化け物が単体ではなく、過去にもあれと同じものが出没していたことは、すでにタクトから聞かされていた。それと同時に、あの化け物を一人で倒せるような者がこの研究所にはタクトの他には一人もいないことも教えられた。
ユウィルは頭を垂れて、拗ねたように言った。
「あれは、必死だったから……」
「必死でもできない連中がいる。ユウィル、わたしは君を信頼している。君なら王女の護衛が務まると信じている」
「でも、あたしは……」
「ユウィル!」
あくまで食い下がるユウィルに、タクトが少しだけ語調を強めた。ユウィルは身をすくめてタクトを見た。
タクトは小さく笑った。
「安心しろ、ユウィル。さっきも言ったとおり、護衛といっても大したことじゃない。実際にこれまで何も起きていないんだからな。今回だけわたしに護衛の依頼が入ったのは、それは親心というものだ。何も心配はいらない」
それはタクトの本心だった。若くして魔法を極めた男とはいえ、所詮はまだ22歳の若者であり、万能ではなかった。彼はこのとき、ユウィルやシティアが危険な目に遭う可能性を、微塵も考えていなかった。
それが幸か不幸かユウィルに伝わって、彼女は幾分心が楽になった。同時に、そこまで言われては断ることなどできないと、もはや頷くほかに手はなかった。また、そうすることに抵抗もなかった。
ただ、どうしても一つだけ疑問が残ったから、ユウィルはタクトに質問した。
「お話はわかりました。やります」
「そうか。助かるよ、ユウィル」
「はい。でも、一つだけ教えてください」
ユウィルの真摯な瞳に、タクトは同じくらい真面目な顔で応えた。
「何だ?」
「今回の護衛、どうしてタクトさんは自分じゃなくて、あたしを行かせようと思ったんですか?」
言葉の余韻が消え、後には沈黙だけが残された。その時の雰囲気を、ユウィルは恐らく一生忘れないだろう。
大人特有の「話せない事情」に無邪気に触れてしまったことの気まずさ。軽率な自分。けれども、もはや「やっぱりいいです」とは言い出せない、張り詰めた空気。
タクトが、ゆっくりと口を開いた。
「シティア王女は、魔法が……特にわたしが嫌いなんだ」
淡々としていたけれど、苦渋に満ちた声。
ユウィルは学習能力があったため、それ以上追求することはしなかった。
「わかりました。あたしが、シティア王女を護衛いたします」
もやは一分の迷いもない、決然とした声でそう言った。タクトは「すまない」と小さく頭を下げたが、その顔には隠しきれない安堵が浮かんでいた。
ユウィルはただそれだけで、自分がいかに彼の心労を和らげたかを感覚的に理解して、誇らしい気持ちになった。爽快な心には、もはや一点の不安もなかった。
意気揚々と朝を迎えたユウィルだったが、彼女のやる気も、与えられた責務に対する輝く瞳も、シティアと会った瞬間すべて消え失せ、困惑と悲しみがその表情を彩った。
護衛がつくという話がシティアに伝わっていることはタクトから聞いていたため、自信を持って挨拶をしたユウィルだったが、そんな彼女を待っていたのは、どこまでも冷たく自分を見下ろす二つの眼と、重くのしかかる沈黙だけだった。
しばらくユウィルの笑顔を冷ややかに睨み続け、それがやがて暗く不安をまとい始めたのを見計らったように、シティアはくるりと門の方を向き直ると、
「さ、行くわよ」
と、ユウィルのことを完全に無視して歩き始めた。兵士たちが、やはりユウィルを見ないようにして彼女に続く。
「あ、あのっ」
思わず呼び掛けたユウィルに、しかし振り向く者は誰もなかった。シティアはもちろん、護衛の兵士たちもである。賢いユウィルは、魔法嫌いの王女が魔法使いの自分を無視し、同じように兵士たちにも無視するよう命令したことを察した。
13歳の幼い少女は、思わず涙をこぼして、慌ててそれを袖で拭った。
泣いてはいけない。泣いても何も変わらないどころか、余計にシティアに見下される。
ユウィルは心の中で何度も「頑張れ」と自分を励ますと、すでにだいぶ先を歩いている王女と兵士を追いかけた。たとえどれだけ無視されようと、この護衛の仕事だけはきっちりと果たしたかった。
そしてそれから数時間、ユウィルはシティアに無視され続けていた。ユウィルはというと、彼女と同じことをしていては大人げないと思い、必死に彼女に話しかけていた。
こうなれば、「鬱陶しい」の一言でも言わせてやるつもりだった。それは非常に子供じみた感情に基づくものだったが、ユウィルは気付いていなかった。相手とは違うことをし、相手に自分を認めさせたかった。悪は悪でしかなく、正義は正義以下でなく、勝つことは正しいことだと考えていた。
王女の狩りは一向に冴えず、彼らは獲物の多い森の近くまでやってきた。今日は珍しくまだ一頭も仕留めていない。このままでは、タクトがよこした子供に、自分の腕前がこれくらいのものだと思われてしまう。
シティアは焦っていた。一介の子供を無視し続けた挙げ句、このまま何事もなく終わっては王女の威厳に関わる。しかし獲物は現れず、現れた獲物にもことごとく逃げられている。
ただでさえ苛立ちが募る上、鬱陶しい魔法使いはへこたれるどころか、話しかけ続けてくる。ついにシティアの苛立ちは頂点に達して、眉間にしわを寄せてユウィルを睨み付けた。
「お前、さっきからうるさい」
空で雷が音を立てた。どこからともなく雨の匂いをはらんだ風が吹き付ける。
王女の声が自分に向けられた瞬間、ユウィルの心を優越感が満たした。思わず笑みをこぼし、王女の目を見つめ返そうとして、彼女はそのまま凍り付いた。
「王女!」
兵士の一人のあげた、驚きに満ちた声。大きく見開かれたユウィルの瞳に、限界まで引き絞られた王女の弓が写っていた。
ドク……。
心臓が張り裂けんばかりに鼓動を速め、ユウィルは一歩後ずさった。
「シティア……様……?」
汗が額から流れ落ちる。そんなユウィルの首もとに弓矢の狙いを定めたまま、シティアが小さく口を開いた。
「大丈夫よ」
凛とした声は、ユウィルにではなく、兵士たちに発せられたものだった。
「狩りの途中に獰猛な動物が現れて、子供の一人が喰い殺されることくらい、よくあること」
どこまでも冷酷な瞳。ここでユウィルを殺すことに対して何の躊躇も憐れみもない、無感情な彼女の表情に、ユウィルは呼吸するのさえ忘れて震えていた。
(シティア様……タクトさん……)
集中力を要する“魔法”という手段が、あまりにも突然降りかかった身の危険に対して、まったく何の役にも立たないことを知った。ユウィルは、もはや非力な一介の少女に過ぎなかった。
張り詰めた空気。息を飲む音。風に揺れる草木の鳴き声。そして、ピカッと空が稲光を発したのち、凄まじい爆音を立てて森に雷が迸った。
静かに雨が降り始めた。
そして、それを合図にしたかのように、ゆっくりとシティアが矢を放つべく、指の力を緩めた。ユウィルは、何もできずに震えていた。
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