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湖の街の王女様
ウィサンの街の魔法研究所で、魔法の修行に励む少女ユウィル。ある日ユウィルは、師であるタクト・プロザイカから、王女シティアの護衛を任されるが……。

 この自然界における生き物たちの生への執念を、ユウィルは身を持って知った。同時に、人間という生物としての種が、単体ではいかに脆く、弱い存在であるかもわかった。
 いや、弱いのはひょっとしたら人間すべてではなく、自分だけなのかも知れない。ユウィルは急速に遠退いていく意識の中で、ぼんやりとそんなことを考えていた。
(あたし、死ぬんだな……)
 開き直りでも、あるいは神の声を聞いたわけでもなく、冷静にそう思った。まず何より、出血の量が多すぎる。第二に、もしここであの獣を倒したとしても、街までは到底もたない。
 本当に小さく微笑んで、ユウィルは死を受け入れることにした。そうしたら、自分がどんなことでも出来る気がした。
 だからユウィルは立ち上がった。もはや両腕の感覚はほとんどなく、事実右腕に至っては、自分の身体に付いているのかどうかさえわからなかったが、それでも恐怖はまったくなかった。
 どうせ数分後には死ぬのなら、腕が付いていようがいまいが、そんなことは関係ない。それよりも、もっと大切なこと。残り少ない自分の生を人のために役立てること。
 ずっと自分の名を呼びながら剣を振るい続けている王女を助けること。
 ユウィルは目を見開き、獣を見据えた。
 自分の立っている位置から約20メートル先。そこで、シティアと獣が戦っていた。獣は随分傷付いているとはいえ、まだ余力を残しており、3本の脚を止めることなくシティアに向かって牙を剥いていた。
 しかし、それに負けるとも劣らない動きで、シティアは応戦していた。強くて、そして綺麗だとユウィルは思った。もちろんそれが、シティアの本気で死を覚悟している瀬戸際の戦いであることは理解していた。
 恐らくこのまま戦っていても、シティアは獣に勝てないだろう。体力的に考えてもそうだが、いくら彼女の剣技が優れていたとしても、あの細身のレイピアでは獣に致命傷を負わせるのは難しい。
 むしろあの剣で、子供とはいえあの獣を一頭倒したということが信じられないくらいである。
 このまま黙って見ていれば二人とも殺される。けれど、今ならまだ王女を助けることが出来る。あれだけの手当てをした後で、なおかつあれだけの動きができる今ならまだ、一人で街に帰ることも可能だろう。
 ユウィルは目を閉じた。
 腕は動かなかったけれど、別に腕が使えなくても魔法は使うことが出来るし、実際に先程獣に組み敷かれたときに使っている。彼女が魔法を使うとき手を出すのは、単に手を突き出した方が魔法をイメージし易いというだけであり、それがなくても十分に集中すれば強力な魔法を使う自信があった。
 目蓋の内側に広がる闇の中に、先程の魔法使いの放った、木々を薙ぎ倒すような風と、鋭い刃を思い浮かべる。そしてそれを、魔力を使ってゆっくりと形に変えていく。
 自分の周りに魔力が集まってくるのがわかった。とてつもない量である。あの湖岸での戦いよりも遥かに強い魔力。
 あの時は単に独学で勉強した魔法の使い方だったけれど、今は正規の魔力の集積法を学んでいる。この2週間の間に研究所で教わったことは、決して無駄ではなかった。
 かつて旅の魔法使いによって救われたこの生命で、一つの生命を助ける。そして次に、ユウィルによって救われたその生命で、王女が誰かのために必死になってくれたら、ユウィルにとってそれ以上嬉しいことはなかった。
 やがて王女の声も届かなくなり、身体の痛みも失われた。ルヴェルファスト大陸でも有数の魔力の持ち主が、凄まじいまでの集中力を持ち、最後の生命をかけて放つ魔法。
(よしっ!)
 魔力が自分の中で完全に形を成したのを感じて、ユウィルは目を開けた。
 見るとシティアが地に倒れ、腕を押さえて呻いていた。レイピアは彼女の数メートル向こうに転がっている。
 獣はそんな彼女から少し離れたところに立ち、今まさに食いつこうと足場を確認しているように見えた。
 絶好の機会だった。王女を巻き込まずに魔法を打てる最高の瞬間。神はユウィルと、そして王女に味方した。
 昔魔法使いに消されかけた王女の生命を、今度は魔法で救ってみせる。
 獣が地を蹴ると同時に、ユウィルの魔法が形を取って迸った。
 ヒュンッ!
 疾風のごとく強く鋭い風の音。周囲の木々を幹と根に分け、下生えを薙ぎ倒し、木の葉を揺らし、砂を巻き込んで、風が一直線に獣へと迸り、その身体を真っ二つに切り裂いた。
「ユウィルっ!」
 王女の歓喜と驚愕の声。二つになった獣の身体が、土の上に崩れ落ちる音。最後の呻き声。
 クラッと眩暈がした後、ユウィルは力なく地面に倒れた。
「ユウィル!」
 絶叫するように叫んで、シティアは腕の痛みも忘れて立ち上がった。そして慌ててユウィルに駆け寄ると、その小さな身体を抱え上げる。
 恐らく血が流れ出たためだろう。彼女の身体はあまりにも軽く、シティアは思わず涙をこぼした。
「ユウィル、しっかりして! い、今、手当てするから!」
 一度は殺そうとした少女だった。
 けれど、いつも誰に対しても一生懸命で、幼いけれど強い娘だった。シティアは彼女を好きになりかけていた。
 どうしても失いたくなかった。
 シティアは自分の身体に巻いてあった布を取ると、それをユウィルの肩に強く巻いた。薬がないのが悔しくて、ひどくもどかしい。涙はとどめなく流れ続けて、ユウィルの顔さえぼやけて見えた。
「シティア……様……」
 本当に聞き取るのがやっとくらいの、小さなユウィルの声。
「喋っちゃ駄目! 今助けてあげるから、だから……」
 泣きながら絶叫したけれど、しかしユウィルは穏やかに微笑んで、かすかに首を振った。
「もう……無理です」
「そんなことない! 死なせたりしないっ!」
「シティア様……」
 目を閉じて、ユウィルが口を開く。か細く、今にも消えてしまいそうな声で……。
「どうか……魔法を、嫌いにならないで……ください……」
 ようやく右肩の止血を終えて、シティアはすぐにユウィルの左肩の手当てに移った。涙を拭うことも忘れ、ただ一心に治療を続ける。
「あたし、魔法使いで良かった……。シティア様を、助けられて……本当に……良かった……」
「ユウィル!」
 もはや込み上げる熱い想いをとどめられずに、シティアは泣きながらユウィルにすがった。彼女の小さな胸の中で泣きじゃくった。
「お願い! 死なないで! 死なないで、ユウィル! 生きて、私のお友達になってよ……お願いだから……」
 ずっと独りで生きてきた。誰も信じることが出来ず、誰にも信じてもらえずに、誰も好かず、誰にも好かれず、剣と弓だけを友達にして、今まで独りで生きてきた。
 寂しくて泣いた夜もあった。虚しくて死にたくなる日も乗り越えて、ようやく手にした大切な友達。
 けれど、泣きすがるシティアの耳朶を打ったのは、
「ごめん、なさい……」
 もはや声にもならないような、ただその一言だった。
「ユウィルっ!」
 辛うじて息はしているが、すでに目を閉じたままピクリとも動かないユウィル。
 心が壊れ、もはやすべてに絶望しかけたその時、近くで草を踏む音がした。恐らく人間のものと思しき足音。
 シティアは心に希望を宿して、勢い良く顔を上げた。
 きっと兵士たちが、ようやく自分を探し当ててくれたのだと思った。今更彼らが来たところで、彼らが薬を持っていたところで、果たしてユウィルが助かるのかは疑問だったが、それでも何にしろないよりはましである。
 最後の最後でユウィルは救われる。この純粋でひたむきな少女が、こんなところで死んでいいはずがない。自分なんかのために、殺されていいはずがない。
「ユウィルを助けてっ!」
 シティアは相手を確認することもなく、そう叫んだ。今はそれ以外に、何一つ頭になかった。
 けれどそこに立っていたのは、シティアには見覚えのない、頭巾をかぶった男だった。
「よぅ、王女」
 口元を覆った布を指で押し下げて、ニヤリと笑った男は、どう見てもユウィルを助けてなどくれそうにない相貌をしていた。それどころか、すぐにでもシティアをユウィルと同じところへ送り出しそうな、悪意と嘲りに満ちた顔。
 先程ユウィルを襲った魔法使いだった。
「だ、誰……?」
 表情を曇らせ、ユウィルの身体をかばうようにして、シティアは身体を震わせた。
 絶望が心からあふれて、涙になって頬を伝う。
 男はそんなシティアを見て、にぃっと笑った。
「忘れちゃったのかい? 王女様。それだけの傷を残されたのに」
 王女の腹部に走った古傷を見ながら、男は頭巾に手をかけて、少しもったいぶるように間を置いてからスッとそれを引き剥がした。
 瞬時に、シティアの顔が青ざめ、いっそう震えが強まる。
「お、お前は……」
 怯える王女の様子を可笑しそうに眺める男の頭部に、青色の髪の毛が揺れていた。
「6年ぶりか、王女様」
 男は、かつてシティアに怪我を負わせた、あの魔法使いの刺客だった。

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