■ Novels


ウィサン、悪夢の日
湖の街ウィサンの象徴とも言うべき魔法研究所の、突然の崩壊。平和なウィサンを襲ったこの事件が、人々の間に大きな悲しみと怒りを巻き起こす。多大な犠牲者を出したこの事件は、たった一人の魔法使いの少女によって引き起こされた。人々は少女を憎み、傷付ける。だが、図らずも自らの手で多くの仲間を殺した少女もまた、心に深い傷を負っていた。少女と少女を励ます仲間たち、そして少女を恨む人々の想いが交錯し、新たなる悲しみがウィサンの街を埋め尽くす……。
まえがき

1章 悲しみの彼方

 身体に対して随分大きな籠の中に小さなパンをいくつか入れて、少女クリスはマグダレイナの旧市街を歩いていた。遣いの帰りである。本来ここは通り道ではなかったが、クリスは旧市街の街並みが好きだったので、時間があるときはよくこうして寄り道をした。
 マグダレイナの旧市街は、貧民窟ほどではないが、やはりどちらかというと貧しい人間が住んでおり、風呂になど入ったこともないような少年たちが、裸足で駆け回っていた。クリスはそんな子供たちや、穴だらけの壁の今にも崩れそうな家々を見ながら、昔を懐かしむのである。
 クリスはマグダレイナの隣にある、リアスの街のスラムで生まれ育った。セリシスという貴族の少女に助けられ、今はこの街で知り合ったシィスという薬師の少女とともに暮らしているが、それまでは彼らのようなボロをまとい、毎日泥だらけになって働き、風呂に入ることも出来ず、飢えと渇きと病に苦しむ毎日を送っていた。
 もちろん、その生活に戻りたいとは決して思わないが、こうして人並な暮らしが与えられた今では、あれもまたいい思い出のような気がするのである。大人たちの心はすさんでいたが、仲間は皆気の良い人間ばかりだったし、セリシスにも出会うことができた。
 旧市街の人々は、清潔な衣服を身に付けたクリスを羨ましそうに眺めていたが、襲いかかろうとする者はなかった。リアスのスラムとは違い、ここはマグダレイナ王家の統治下であるので、恐喝や強盗は重罪である。それに、彼らは当時のクリスほど貧しい生活をしていたわけではなかったので、小さな少女から金品を奪おうなどと考えるほど心のすさんだ者はなかった。だからこそ、クリスもこうして旧市街を見に来られるのである。
 しばらく歩いていると、右手に教会の屋根が見えてきた。リアスのスラムにも打ち捨てられた教会があり、子供たちはよくそこでセリシスと遊んだが、ここの教会はまだ信仰が途絶えていない。旧市街の人々は祈りを捧げ、神父は神の言葉を謳った。クリスは一度だけそれを聞いたことがあったが、信仰のないクリスですら心温まる心地がしたので、信仰ある人々にはさぞや救いになっていることだろう。
 やがて眼前に教会が現れると、クリスは見慣れない光景を目にした。教会の階段の脇に一人の少女が座っており、あまり裕福そうには見えない男が、少女にパンを恵んでいた。近付いてみると、男は少女にこんなことを言っていた。
「俺たちはお前を見捨てはしないが、いつまでもそうしていたら、いつかは死ぬぞ?」
 少女は男に小さく頭を下げると、ゆっくりとした動作でもらったパンの端をかじった。男はやれやれと首を振ると、向こうへ歩いて行ってしまった。
 クリスがさらに近付くと、少女は食べる手を休めて顔を上げた。栗色の髪はぼさぼさで、伸び放題に伸び、前髪が鼻先までかかっていた。衣服は元の色がわからないくらい汚れ、スラムで嗅ぎ慣れたすえた臭いを放っている。頬は痩け、手足は棒のように細く、栄養が足りないのは一目瞭然だった。
 けれど、それよりもクリスが気になったのは、少女の目だ。何も映していないように虚ろで、生きようという気力はおろか、物を考えていることすら疑わしい。このままでは男が言った通り、この少女の先にあるのは死だけだろう。
 クリスはいたたまれなくなった。自分と同じくらいの歳の少女が、身寄りはおろか雨をしのぐ屋根もなく、こうして憐れな姿で人に食べ物をもらっているというだけでも身につまされる思いがしたが、少女の姿にかつての自分の姿が重なり、何かをせずにはいられなくなった。
(セリシスは、私たちをこんなふうに見てたのかしら……)
 あの優しい貴族の少女は、スラムの子供たちに無償の愛を与えていた。今こうして逆の立場に立ち、自分はこの少女に何をしてやればいいか、何をしてやれるだろうか。
「ねえ、あなたは家はないの?」
 少女の前にしゃがんで、クリスは脅かさないように静かにそう尋ねた。少女はしばらくじっとクリスの目を見つめていたが、何も言わずに俯くと、再びパンを口に運んだ。
 クリスは、何としてもこの少女を助けたくなった。それは恐らく、セリシスのそれとは違い、ただのクリスの自己満足だったろう。
 当時のクリスには生きようとする意思があり、どんな時にも歯を食い縛っていた。だからセリシスは、クリスや子供たちを助けたのである。だが、果たしてこの少女のように、生きようとする気力のない人間に手を差し伸べるのは、本当に少女のためになるのだろうか。
 恐らくセリシスならばそう考えたろうが、クリスにはそんな難しいことを考えるほどの学がなかったので、自分のしていることはセリシスのそれと同じなのだと信じて疑わなかった。
 クリスは籠の中のパンをあげようと思い、布を取ったが、ふと思い留まった。ここでパンをあげて、その後自分はどうするのだろうか。そのまま帰れば、それは先ほどの男と何ら変わりない。この少女を立ち直らせるには、心のもっと深い部分に踏み込まなければならない。それに気が付いたとき、クリスは少女の手を取っていた。
「おいで」
 クリスが手を引くと、少女は思いの外簡単に立ち上がり、歩き始めたクリスについて来た。クリスはそんな少女を見て、本能的に察し取った。
 この少女は、生きたくないのでも、生きたいのでもなく、ただ何も考えることができないのだと。
 心が壊れてしまうのほどの、何か悲しいことがあったに違いない。クリスの同情の念はいっそう強まり、少女のためにできるあらゆることをしてやろうと決意した。

 クリスの家は、お世辞にも立派とは言えなかった。シィスは大商人の娘だったが、今は勘当された身で、ほとんど持ち合わせがなかった。スラム出身のクリスは言うまでもなく、二人はセリシスが置いていったわずかな金で、隙間風の吹く粗末な家を借り、薬を売って得られるささやかな収入で生活していた。
 少女を家に連れて帰ると、クリスは少し軽率なことをしたのではないかと思い始めた。この家はシィスのものであり、自分は所詮居候なのである。にも関わらず、こんな少女を連れてきて良かったのだろうか。犬や猫とは違うのだ。シィスが難色を示したからと言って、もう一度捨ててくるというわけにはいかない。
(セリシス、私は間違えましたか?)
 クリスは心の中でそう呟き、少女の手をぎゅっと握って目を閉じた。頭の中にセリシスの優しい顔が浮かぶと、励まされている気がして元気になった。
「服、変えよ? その服は、私が後で洗ってあげるね」
 少女の返事も聞かず、クリスはさっさと少女を裸にした。それから、壁にかけてある自分の服を取ったが、先に少女の身体を拭いてあげたくなった。少女の身体は服と同じように、まるで泥の中を泳いできたかのようなひどい有り様だった。いずれ公衆浴場に連れて行くとしても、今のままでは入浴を拒否されるだろう。
「ちょっと待ってて」
 少女を裸のまま置いておくのは気が引けたが、クリスは桶を持って外に飛び出すと、急いで水を汲んで戻った。少女は同じように無表情で突っ立っており、クリスがドアを開けると、生気の宿らない目でクリスを見た。
 クリスは厚手の布を水に浸すと、少女の身体を丁寧に拭いてやった。長い時間をかけて綺麗にすると、今度は髪を洗ってやり、最後に服を着せた。ぼさぼさの髪をナイフで切って揃え、セリシスにもらった櫛で研ぐと、クリスは見違えるほど綺麗になった少女の姿に驚いた。
 生まれ育ちが顔に出ることを、クリスは心得ている。貴族のセリシスも、商人のシィスも美人で、その笑顔は天使のように人の心を和ませた。クリスもスラムでは一番可愛いと言われていたが、セリシスのそれとは根本的に異なった。クリスはいつも探るような目をしていたし、心から笑うことは少なく、いくら人並な暮らしになったとは言え、およそ心にゆとりというものを感じることがなかった。それは表情にも表れるのである。
 だが、この少女は、どちらかというと自分ではなく、セリシスに近いそれを持っていた。頬が痩けていようと、無表情で死人のような目をしていようと、長年培われてきた人間性は失われることはない。
 少女を座らせ、クリスは先ほどまで少女が着ていた服を手に取った。あまりにも汚れていたので気付かなかったが、肩のところに何やら見慣れない模様が縫い取られていた。それは何かの紋章のように見え、クリスはひょっとしたら、この少女はセリシスのような貴族なのではないかと思った。
 少女は膝を抱えて座り、疲れ切った瞳で床を見つめていた。クリスは何か食べさせてやろうと思い、服を置いて水を汲みに外に出た。そこへ、明るい顔をしたシィスが帰ってきた。
「ただいま、クリス。今日はまたボルンさんが来てくれて、傷薬を買って行ってくれたわ。もしもあれを全部一人で使っていたとしたら、ボルンさんは傷だらけね」
 そう言って、シィスは笑った。
 シィスの言うボルンとは、マグダレイナの城の兵士で、シィスは気付いていないが、どうやらシィスに気があるようだった。いつものクリスならば、その話題に明るく返しただろうが、今日はそれどころではない。
 ドアを開けて家の中に入ろうとしたシィスを呼び止め、クリスは旧市街で憐れな少女を拾ってきたことを、包み隠さず話した。
「あの、勝手なことをして、本当にごめんなさい!」
 話し終えると、クリスはシィスに怒られるのが怖くて先に頭を下げて謝った。ところがシィスはにっこりと微笑むと、そっとクリスの頭に手を置いて、その髪を撫でた。
「いいのよ、クリス。クリスは私を助けてくれてるし、私もクリスを助けてる。セリシスは私たちを助けてくれた。私たちも、助けられる人がいたら助けてあげよう」
「シィス……」
 クリスは目頭が熱くなって、込み上げてきた涙を拭った。やはりこの少女は、どこかセリシスに似たところがある。もちろん、セリシスほど前向きではなかったが、優しさは同じくらいだろう。
 シィスが中に入ると、栗色の髪の少女は、膝を抱えたまま顔を上げようとすらしなかった。それどころか、少し苦しそうに息をしていて、今にも倒れそうだ。
「こんにちは」
 シィスはそっと少女の前に屈むと、その額に手を当てた。少し熱がある。
「クリス、すぐに何かスープを作ってあげて。私はその間に薬を作るから、混ぜて飲ませてあげよう」
「はい!」
 クリスは元気に頷いた。

 少女はクリスが作ったスープをすべて平らげ、食べられるだけのパンを頬張った。遠慮する素振りを見せなかったのは事実だが、その前にシィスが勧めたのである。
「栄養と睡眠ほど効く薬はないわ。とにかく食べさせてあげなくちゃね」
 そう言ったシィスは、自分の食べるものがなくなることなどまるで気にしてないようだった。その点クリスは、少女が食べている間、少しくらい残しておいて欲しいと思っており、シィスの言葉に恥ずかしくなって顔を赤くした。
 少女は食べ終わると、すぐに横になって眠り始めた。シィスは毛布をかけてやってから、クリスに導かれて少女の着ていた服を手に取った。
 模様に見覚えはなかったが、生地はしっかりしていたし、自分の服よりも遥かに高価なものだとわかった。
「きっと、何か特別な事情があるのよ。可愛い子だし、優しくしてあげようね」
 服を洗いながら呟くようにそう言ったシィスに、クリスは大きく頷いた。自分で連れてきた少女だ。見返りを求めず、犠牲を惜しまず、持ち得る限りの愛情を注いでやろう。セリシスがしてきたように。
 それから丸一日以上少女は眠り続け、翌日の晩に目を覚ました。
「あっ、シィス! 女の子、起きたよ!」
 クリスは大きな声でシィスを呼んでから、笑顔で話しかけた。
「気分はどう? 私はクリス。教会で座っていたあなたをここに連れてきたんだけど、覚えてる?」
 少女は長い眠りから覚めたばかりでまだぼんやりしているのか、何も答えなかった。けれど、その瞳には生気が宿り、真っ直ぐクリスを見つめる顔は見違えるほど生き生きしていた。
「初めまして、シィスよ。この家でこの子と二人で住んでるの」
 シィスはそっと少女の額に手を当て、熱が引いているのを確認してほっと胸を撫で下ろした。
 少女が何も言わないので、シィスは何か欲しいか尋ねてみたが、少女は小さく首を横に振った。どうやら意思の疎通は図れるらしい。二人は顔を見合わせて安堵の息を漏らした。
「ねえ、あなたはどこから来たの? 名前は? 何か少しでも、喋れることを喋ってみて」
 シィスが優しくそう問いかけたが、少女はじっと見つめるだけで、やはり口を開こうとはしなかった。
 クリスが悲しげに瞳を潤ませた。
「ねえ、シィス。この子、言葉が喋れないんじゃない?」
 シィスは腕を組んで小さく唸ると、「わからない」と言って首を振った。
「喋る意思があれば、喋れなくても口を動かすものよ? だから、ただ心を閉ざしているだけにも見えるし、本当に喋れないのかもしれないし……」
 二人が顔を見合わせて悩んでいると、不意にシィスは、少女がじっと自分の手を見つめているのに気が付いた。シィスはいつも凝力石の填め込まれた指輪をしており、少女はそれを見ているようだった。
「これ? 填めてみる?」
 シィスはそう言って、指輪を外してからそっと少女の手を取った。けれどその途端、少女はシィスの手をはね除け、怯えたように身体を震わせて俯いた。
「魔法で怖い思いをしたのかもしれないわね」
 シィスはそう言いながら指輪をしまい、優しく少女の手を取った。
「ごめんね、怖がらせてしまって。でも安心して。私は魔法使いじゃないわ。あの指輪はただ好きで填めているだけなの。本当よ?」
 少女はずっと震えていたが、やがて落ち着いて小さく頷いた。シィスは手を離してにっこりと笑った。
「良かった。ねえ、名前だけでも喋れないかな? 喋らないと、勝手に決めちゃうわよ?」
 いたずらっぽくシィスはそう言ったが、少女はシィスを見つめるだけで何も言わなかった。
 クリスは自分たちで名前を付けるという案が気に入り、思い付いた名前を明るい声で言った。
「ねえ、セイリィってどう? セリシスとシィスから取ったんだけど」
 シィスは少し困ったように微笑んだ。自分たちで名前を付けたかったのではなく、少女から名前を聞き出したかっただけなのである。けれど、名前がないままでは不便なので、シィスはクリスの案を採用してみようかと考えた。
「名前言えないなら、セイリィって呼ぶわよ? いい?」
 シィスがそう言うと、少女は一度視線を床に落とした。何かを考えているようだったので、二人が何も言わずに見つめていると、やがて少女はすくりと立ち上がり、台の上にあったペンを取った。
「まさか、文字を……?」
 やはり少女は学のある子供なのだ。驚くクリスに構わず、少女はペン先にインクを付けると、手の平に自分の名前を書いた。
「ユウィル? あなた、ユウィルって言うのね?」
 クリスは文字が読めないので、シィスが少女の書いた文字を声に出して言った。少女はほんのかすかに微笑みを浮かべると、力強く頷いた。きっと、名前を呼ばれたことで、自分の存在を再認識したのだろう。
「よろしくね、ユウィル」
 シィスが差し出した手を、ユウィルは自分の意思で握り返した。それを見て、クリスは嬉しくなって声を弾ませた。
「私もよろしくね。私たち、お友達になりましょう」
 クリスが両手でユウィルの手を握ると、ユウィルは恥ずかしそうに俯いてから、小さく頷いた。
 クリスが手を離すと、ユウィルは再び毛布に包まり、すぐにまた寝息を立て始めた。その顔は安らいでおり、クリスはその晩遅くまで、じっとユウィルの寝顔を見つめていた。

←前のページへ 次のページへ→