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ウィサン、悪夢の日
湖の街ウィサンの象徴とも言うべき魔法研究所の、突然の崩壊。平和なウィサンを襲ったこの事件が、人々の間に大きな悲しみと怒りを巻き起こす。多大な犠牲者を出したこの事件は、たった一人の魔法使いの少女によって引き起こされた。人々は少女を憎み、傷付ける。だが、図らずも自らの手で多くの仲間を殺した少女もまた、心に深い傷を負っていた。少女と少女を励ます仲間たち、そして少女を恨む人々の想いが交錯し、新たなる悲しみがウィサンの街を埋め尽くす……。
まえがき

1章 悲しみの彼方

 翌日は、神が人々を祝福するような快晴だった。逆に日差しが強すぎるほどだったが、曇っているよりは良い。
 三人は朝早く起きると、帽子を被り、朝一番の乗り合い馬車に飛び乗った。マグダレイナの東方に位置するヤスゴナ山脈の麓の村まで行く馬車である。
「ねえ、シィスさん。今日行くところにはどんな薬草があるんですか?」
 珍しく顔色の良いユウィルが、目を輝かせてそう聞いてきた。どうやらハイキングを楽しみにしてくれていたようである。シィスは素直に喜んだ。
「解毒作用のあるプオルミの花とか、打ち身に効くソーゾエリク草とか、色々よ」
「へー」
 ユウィルは興味深そうに頷いた。わからなくて相槌を打ったのではない。ユウィルはシィスから借りた本をほとんど読んでしまっていたし、シィスのメモが付いているような個所は内容まで覚えていた。
 シィスはそれがわかったから嬉しくなって微笑んだが、クリスは少し嫉妬しているように唇を尖らせた。けれど、そんな嫉妬もすぐに次のユウィルの言葉に吹き飛んだ。
「あたしも、早く薬のことを覚えて、二人のお手伝いがしたいです。ただ置いてもらっているだけじゃ、あんまりだから……」
 クリスは、ユウィルが無償で置いてもらっていることを、思った以上に申し訳なく感じていることに不安を覚えた。もちろん、まったくなんとも思わないようなふてぶてしい人間は好きにはなれないが、あまり思い詰められて出て行かれるのは嫌だった。
「気にしなくてもいいのよ、ユウィル……って言っても、気になるんでしょうけどね」
「……はい」
 ユウィルは否定せずに頷いた。シィスは溜め息をつき、それから努めて明るい声で言った。
「じゃあ、手始めに、今日はいっぱい薬草を摘んでもらうわ。乗り合い馬車の往復分はもちろんとして、さらにふた月分くらい稼げたら言うことないわね」
 この時、シィスの中では細かい計算がなされ、どれくらい摘めばいいのか、大体の量を考えていたが、二人の子供はとにかくたくさん採ろうと頷き合った。

 村で下ろされると、三人は山を登り始めた。
 ブナの隙間を縫うようにして走る峠への道は思いの外険しく、すでに何度か来たことのあるクリスはもちろん、シィスも汗びっしょりになって登った。小さなユウィルは元気はあったが言葉は少なく、時々木々の隙間に見える光景を楽しむ余裕もないようである。
「頑張って、ユウィル。1時間も歩けば、平らな場所に出るわ」
 1時間という時間がユウィルにとって長いか短いかはわからなかったが、とにかく少女はにっこりと笑った。
 やがて木々がまばらになると、シィスは道を逸れて山の斜面をよじ登り始めた。クリスは無言でそれに続くが、ユウィルが驚いたように声を上げる。
「シィスさん、そっちに行くんですか!?」
「そうよ。薬草は人がよく通る場所には残ってないわ」
 シィスは振り返らずに答えた。
 クモの巣を振り払い、時々蝶々に鼻先をくすぐられながら、しばらく登ると、遠くからせせらぎの音が聞こえ、やがて黄緑色の草に覆われた台地に出た。
 ユウィルはようやく目的地と思しき場所に出たのが嬉しかったのか、一気に駆け上ると草の上に寝転がって息を吐いた。シィスとクリスは顔を見合わせて笑った。
 それからシィスは近くの花を一つむしると、ユウィルの前に持ってきた。それがプオルミの花と呼ばれるもので、小さな紫色の花びらを持った可愛らしい花だった。ただ、葉は見た目より固く、先端は鋭く尖っていた。
「ユウィルはこの花を集めて。葉には気を付けてね。毒はないけど、刺さると痛いわ」
 ユウィルはその花を手に取り、大きく頷いた。
「私たちはもう少し先に行って、少し見分けにくい薬草を集めるから。何かあったら大きな声で呼んでね」
 そう言い残すと、シィスはクリスを伴って台地の先へ歩き始めた。
 クリスが籠を振りながら、明るい瞳で言った。
「ユウィル、今日はすごく明るいね」
「そうね。笑うとすごく可愛いわ。あの子には笑っていて欲しいわね」
 それから二人は1時間ほどかけて籠いっぱいに草を集めると、ユウィルと合流して食事にした。食事を終えるとさらに奥に進み、再び木々の隙間を縫うように歩いて、やがて滝のある急斜面に出た。足元はほぼ垂直に切り立っており、左手の奥に滝の白い水しぶきが見えた。滝壷は遥か眼下で、クリスは怯えたように一歩後ずさった。
「うわぁ!」
 ユウィルは崖のぎりぎりまで前に出て、瞳を輝かせた。マグダレイナは少女の故郷だそうだが、どうやらこんな滝があることは知らなかったらしい。シィスとて、薬草を探している最中に迷い込んで見つけたのだ。一般には知られていないのだろう。
 しばらく滝を眺めていると、シィスはふと崖の向こう側の斜面に、大きな黄色い花が咲いているのを見つけた。茎が長く伸び、大きな4枚の花びらが下に向かって垂れ下がっている。
「あれは、まさかセセルニア……」
「え?」
 クリスが怪訝な顔でシィスの隣に立ち、彼女の見つめる方に目をやった。
「あの黄色い花? セセルニアって言うの?」
「そうよ。あれの根よ! 根が欲しい」
 シィスが瞳を輝かせ、思わず身を乗り出してクリスがその腕を掴んだ。
「どう考えても無理よ! 向こう側に行くのだって、一度山を降りるか、滝の上まで行かなくちゃいけないし、あんな切り立った崖を、どうやって降りるの?」
「何か手段を考えて! あれがあればテヌィルさんを助けられる! あの根には血管を拡張する作用があるのよ」
「シィス……」
 テヌィルとは、ボルンの叔父のことである。ウエロス・テヌィルはしばらく前から胸を患い、ほとんど寝たきりでいる。シィスはボルンに告げなかったが、今のままでは後1年は持たないだろう。
「ねえ、クリス。何か考えて! そうだ。こっち側にはないかしら!」
 言うが早いか、シィスはその場に膝をついて下を覗き込んだ。クリスが青ざめてシィスの身体を抱きしめる。
「やめて、シィス! 無茶よ! あっても無理よ! この崖、内側に切れ込んでるわ。こんなの、ロープで縛っても降りられない!」
「それなら向こう側に行こう! 向こう側はこっちよりは急じゃないわ。木にロープを結んで……」
「ダメよ! それに、根でしょ? ここの土は固いわ。上手く行きっこない!」
 クリスが目に涙を浮かべて言うと、シィスは立ち上がって語調を強めた。
「何も考える前から、無理だ無理だって言わないで! そこに薬があって、それを必要としている病人がいたら、なんとかしようって思うのが薬師よ!」
 クリスは突然声を荒げたシィスに一瞬ひるんだが、すぐに睨んで怒鳴り返した。
「私はテヌィルさんよりシィスの方が大事なの! 無理をして怪我でもしたら、私はどうすればいいの!?」
 シィスは唇を噛んだ。クリスの言うことはもっともだが、あきらめ切れるものではない。
「村に戻れば……山に慣れた人に頼めるかもしれない……」
 苦々しくそう呟いたとき、それまで黙って立っていたユウィルが、そっとシィスの手を取った。怪訝そうに見ると、ユウィルは無表情でシィスを見上げ、感情のこもらない声で言った。
「あの花の根を取ってきたら、人を助けられるの?」
「え、ええ、そうよ」
 シィスが虚を衝かれたように、声を裏返して頷くと、ユウィルは十数秒そのままの姿勢で何やら考え込む素振りをした後、すっとシィスの指から指輪を取った。
「わかった。あれは、あたしが取ってきます」
 言うが早いか、ユウィルは指輪を右手に填め、左手で籠を持つとふわりと宙に浮かび上がった。そして、ぽかんと口を開けて立ち尽くす二人を置いて、あっという間に向こう側の崖まで飛ぶと、浮遊魔法を維持したまま別の魔法で崖の土を削り始める。
「ユ、ユウィル……魔法使いだったんだ……」
 クリスはかすかに身体を震わせながら呟いた。シィスは魔法を見たこと自体が初めてらしく、拳を握って興奮気味にユウィルを見つめている。けれど、ユウィルが魔法使いであるということ以上の感動はないようだ。
 だが、クリスは違った。クリスは昔からセリシスの魔法を見てきている。セリシスは魔法使うとき、いつも目を閉じ額に汗を浮かべ、何度も念じるように魔法の効果を呟いていた。クリスは、魔法というのは、そういうものすごい集中力を必要とし、爆発のリスクを冒して初めて、他の人にはできないわずかなことをできるのだと思っていた。
 だが、目の前の少女はなんと簡単に魔法を使うのだろう。しかも、同時に二つの魔法を操り、なおかつ根を傷付けないように慎重に花を摘んでいる。
 ユウィルがとてつもない才能のある魔法使いだと気が付いたとき、クリスはユウィルが事件に巻き込まれたのではなく、自身が事件を起こしたのだとわかった。だからユウィルは、クリスにも何も言わなかった。恐らくユウィルは罪人なのだ。
「ユウィルが、そのシティアって人を……」
 思わず呟くと、シィスがじっとユウィルを見つめたまま咎めた。
「憶測でものを語らない約束よ? 私たちは、たとえユウィルが咎人であろうとなかろうと、これまで通り接するだけよ」
「でも、罪を犯した人を匿ったら、私たちも……」
 言いかけたクリスの頬を、シィスが少し強めに打ちつけた。パンッと高い音が鳴り、クリスが頬を押さえてシィスを見上げる。シィスは悲しそうな目で首を振った。
「クリス、あんなに悩んで、苦しんで、夢にうなされて、身体を壊して死にかけていたユウィルに、どうしてそんなことが言えるの?」
 クリスはすぐに後悔した。思えば、自分とてリアスの街を攻め立てた罪人である。セリシスもそうだ。
「ごめんなさい。気が動転していたの。私、ユウィルのことが好き」
「今でも?」
「ええ、今でも」
 はっきりとそう答えて、再び崖に目をやると、ちょうどユウィルが戻ってくるところだった。
 ユウィルはやはり易々と着地すると、籠いっぱいに摘んだセセルニアを見せ、少し怯えたように言った。
「これで、その人を治せますか?」
 怯えているのは、魔法使いであることを知られたことに対するものだ。シィスはすぐにそれを理解して、そっとユウィルの頭を撫でてやった。
「ええ、きっと治せるわ。さあ、もう戻ろう。私はやっぱり薬師ね。早くこの根を煎じたくてしょうがないわ」
 そう言って、シィスは快活に笑った。クリスは先ほどのことがあったので、なんだか気まずくなり、それを隠すようにユウィルの手をぎゅっと握った。
 ユウィルは怪訝そうにクリスを見たが、クリスは何も言わなかった。ユウィルは困ったように表情を崩してから、俯き加減で言った。
「二人とも、あたしが魔法使いだってわかったのに、何も言わないんですね」
 ユウィルはクリスの手を解いて指輪を外し、それをそっとシィスに差し出した。
 シィスはそれを受け取ると、もう一度ユウィルの指に填めてやりながら言った。
「魔法使いだから、何? セリシスも魔法使いだったわ。この指輪はあなたにあげる」
「そんな! 凝力石は高価なものです。これは受け取れません」
 ユウィルは慌てて返そうとしたが、シィスは大きく首を横に振ってそれを止めた。
「今もし熊にでも襲われたら、私たちは助からないわ。でも、その指輪をユウィルが填めていたら、三人とも助かる。そう思わない?」
「…………」
 ユウィルが涙目で俯くと、シィスは優しい瞳でユウィルを見つめた。
「その指輪はあなたにあげるわ。私は、形が気に入っていただけなの。他の、もっと安いものを買うわ。その指輪は、ひょっとしたら、こうしてあなたにあげるために持っていたのかもしれない」
 ユウィルは涙を流し、唇を引き結んでぎゅっと指輪を填めた手を握った。シィスは穏やかな声で続けた。
「薬師は人を助ける商売よ? クリスも……二人とも、薬の前に、まずそのことをしっかりと頭に入れておいて。ユウィル、あなたの魔法は人を助けられる。今日からは、どうしたら自分の魔法で人を助けられるのかを考えなさい」
 クリスが大きく頷く隣で、とうとうユウィルは我慢できなくなったように大きな声を上げて泣き出した。シィスは自分の胸にすがりつく少女の髪を優しく撫でながら、クリスを見てにっこりと笑った。

 後日、シィスの薬は素晴らしい効用を発揮し、ウエロスは1週間ほどで立って歩けるようになった。もちろん、投薬は続けなければならないが、ウエロスの喜びは相当のもので、シィスは深い感謝とともに、多大な謝礼を受け取った。
 家に帰ったシィスは、その金をすべてユウィルに渡して言った。
「あなたのおかげで、ウエロスさんは良くなったわ。これはウエロスさんから、あなたにって」
 ユウィルはひどく驚き、一度袋を開けて受け取った金を確認すると、袋ごとシィスに手渡した。
「これは、これまでお世話になったお礼と、これからもう少しお世話になるお金として、シィスさんに差し上げます」
 シィスは、初めからユウィルがそうすると予想していたので、何事もなかったようにその金を受け取った。そして数枚の硬貨を、あの日から再び身に着るようになったユウィルの魔法衣のポケットに入れて、にっこり笑って言った。
「十分すぎるくらい受け取ったわ。だからユウィル、あなたはもう、何も気を使わずにこの家にいていいから」
 シィスの笑顔に、ユウィルは自分がシィスの計画に乗せられたことに気が付いた。だから、やや苦笑気味に息をつくと、顔を綻ばせて笑った。
「はい。ありがとうございます、シィスさん」
 シィスは大きく頷いた。

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