■ Novels


ウィサン、悪夢の日
湖の街ウィサンの象徴とも言うべき魔法研究所の、突然の崩壊。平和なウィサンを襲ったこの事件が、人々の間に大きな悲しみと怒りを巻き起こす。多大な犠牲者を出したこの事件は、たった一人の魔法使いの少女によって引き起こされた。人々は少女を憎み、傷付ける。だが、図らずも自らの手で多くの仲間を殺した少女もまた、心に深い傷を負っていた。少女と少女を励ます仲間たち、そして少女を恨む人々の想いが交錯し、新たなる悲しみがウィサンの街を埋め尽くす……。
まえがき

1章 悲しみの彼方

 クリスがユウィルを連れてきてから、一週間が経った。その間にユウィルはすっかり本来の体調を取り戻し、頬にも歳相応の丸みが戻っていたが、相変わらず言葉を喋ろうとはしなかった。
 元の服はすでに綺麗に洗われ、綻びは縫い繕ってあったが、ユウィルはそれを着ようとはしなかった。しかし、粗末なクリスの服を着ていても、知的な瞳は隠しようもなく、時々見せる愁いを帯びた横顔は、クリスに嫉妬心を抱かせるほど凛としていた。
 学のない人間も、その人なりに色々と思い悩むが、それがどれだけ単純でつまらないものかを、クリスはシィスと生活する中で知った。シィスの悩みを聞いていると、自分の考えていることなどどうでもよくなるのだ。
 クリスはユウィルが何を考えているのか知りたかった。少女が自分と同じ14歳であることはすでに知っていたが、名前と年齢以外は何も知らない。一体少女がどういう人生を歩み、何故学を持ちながら、あんな街の片隅に虚ろな瞳で座っていたのか。
 それはシィスも気になるところだったが、二人はユウィルから無理に聞き出すことはすまいと決めていた。一度だけ筆談を試みたが、シィスが尋ねるごとにユウィルは悲しそうな顔になり、ついには頭を抱えて涙を零した。それっきり、二人は問いただすことをやめた。もしも少女に家や身寄りがないのなら、生い立ちを知ったところで今後の対応が変わるわけではない。
 ユウィルは次第に元気を取り戻し、時々笑顔を見せるようになった。無償で家に置いてもらえることに申し訳なさを感じているのか、色々なことを手伝おうとしたが、日中はすることがないのが常だった。ユウィルは暇な時はシィスの持っている薬の本を読んでいたが、ある時ふと外に出て、真っ直ぐどこかに向かって歩き始めた。
 偶然それを見つけたクリスが尾行すると、ユウィルは闘技場近くの、塀のある石造りの屋敷の前で足を止めた。そしてそれを懐かしむような瞳でじっと見つめていた。
「ここがユウィルの家なの?」
 驚かさないようにそっと尋ねると、ユウィルはクリスを見てから、首を横に振った。そしてもう一度屋敷に目をやり、やがて何も言わずにシィスの家に戻っていった。
 クリスは念のため屋敷の人間に、ユウィルのことを知らないか尋ねてみたが、彼らはここに引っ越してきたばかりで、何も知らないと言った。ひょっとしたら、かつてここに住んでいたのかもしれない。
 それから3日が過ぎた夜中、クリスは聞き慣れない声に目を覚ました。苦しそうな呻き声だ。起き上がって隣を見ると、ユウィルが額に汗を浮かべ、荒い息で喘ぎながら布団の端を握り締めていた。
「シティア様……ごめんなさい……。ごめんなさい……」
「ユ、ユウィル……?」
 それが、クリスの聞いた、初めてのユウィルの声だった。
 クリスはすぐにシィスを起こし、シィスはそっとユウィルの髪を撫でながら言った。
「シティアって誰かしら。様付けで呼ばれるくらいだから、きっと偉い人なんでしょうね」
「ずっと謝ってるわ。そのシティアって人に、ユウィルが何かしてしまったのかしら」
 クリスは首を傾げたが、何も思い付かなかったので考えるのをやめた。元々考えるのは苦手だし、色々推測するのはやめようと決めていたのである。
 しばらくシィスが髪を撫でていると、やがてユウィルはぱちっと目を開けて半身を起こした。顔中に汗を滲ませ、肩で大きく息をしながら呟く。
「シティア様……」
 そっとその汗を拭ってやりながら、シィスが言った。
「怖い夢を見たの? ユウィル」
 ユウィルはあからさまに驚いたようにシィスとクリスを見て、それから怯えたように身体を震わせた。そして、
「ごめんなさい!」
 と、大きな声で叫んで、毛布にもぐって声を上げて泣き出した。
 クリスは一体ユウィルが何に対して謝ったのかわからなかったが、シィスはそれを理解していた。恐らく、自分が喋れることを知られてしまい、ずっと口を利かなかったことを咎められると思ったのだろう。
 シィスは無理矢理毛布を引き剥がすと、泣きじゃくるユウィルの小さな身体を強く抱きしめた。
「ユウィル、何も気にしなくていいのよ? 喋りたくなったら喋ってくれればいいし、話したくなったら話してくれればいい。私たちはあなたの言いたくないことは知りたくないわ」
 ユウィルは一度顔を上げ、真っ赤に腫れた目でシィスを見つめた。そして、
「ごめんなさい、シィスさん。ごめんね、クリス……」
 声を震わせてそう言うと、再びシィスの胸に顔を埋めて泣きじゃくった。
「ごめんなさい、シティア様。シティア様、シティア様……」
 シィスはユウィルの髪を撫でながら、わずかに微笑んでクリスを見た。クリスも笑顔でシィスを見て、満足げに頷いた。
 何があったかはわからないが、とうとうユウィルが自分たちの名前を呼んでくれたのだ。クリスはなんだか胸がいっぱいになり、思わずもらい泣きの涙を零した。

 翌日の朝、クリスが笑顔で挨拶すると、ユウィルはしばらく逡巡してから、申し訳なさそうに項垂れて、「おはよう」と声を出した。クリスはユウィルの悲しそうな目を見るのは辛かったが、ようやく喋ってくれるようになった嬉しさが勝り、笑顔でユウィルの手を取った。
「ユウィル、可愛い声ね。これからいっぱいお話しようね」
 ユウィルは困った顔になった。元々喋りたくて喋ったわけではなく、たまたま聞かれてしまったので、仕方なく喋っているのだ。そんなユウィルの心境を察して、シィスが優しく声をかけた。
「ユウィル、昨日も言ったけど、喋りたくなければ喋らなくていいのよ? 私もクリスも、あなたを無理に喋らせたりしないから。遠慮もしなくていいし、気も使わなくていいから」
 シィスの言葉に、ユウィルは思わず顔を上げ、
「どうして?」
 と、やや強い調子で言った。そしてすぐに、自分の声の大きさに驚いたように頭を下げると、俯いたまま言葉を続けた。
「どうして二人とも、あたしなんかにこんなに優しくしてくれるんですか……? あたしなんか……」
 言葉を切ったユウィルの目に涙が滲んだ。クリスが何か言いかけたが、シィスがそれを制して、そっとユウィルの手を取って言った。
「私たちが優しくされたからよ。セリシスっていう人がいて、何のお返しもできない私たちに、本当に優しくしてくれた。だから私たちも、同じように誰かの力になってあげたいの」
「セリシス……」
 呟いたユウィルに、クリスが大きく頷いた。
「セリシスはリアスの貴族だったの。私はリアスのスラムに住んでいて、七家の貴族を敵視してた。でも、セリシスだけは私たちの味方で、よく私たちのところに遊びに来てくれたわ。でも、とうとうそれが原因でリアスを追われて……」
 リアスでの争乱を思い出し、クリスは思わず暗くなった。そんなクリスの背中を軽く叩いて、シィスが言葉を繋げた。
「そのセリシスと、このマグダレイナで出会ったの。親に勘当されて、どうしていいのか困ってた私を助けてくれた。セリシスはもう旅に出ちゃったけど、クリスはこうして残ってくれて、二人で薬を作って売ってるの」
 一度に多くのことを言い過ぎたかと思ったが、ユウィルの輝く瞳は、それらをすべてを理解したことを雄弁に語っていた。よほど変化に富んだ毎日を送っていたのだろう。この少女は、状況が慌しくなればなるほど生き生きするように思える。
「セリシスさんは……リアスを追われて、これからどうするんですか?」
 つい先日まで何にも関心を示さなかった少女が、とうとう好奇心を露にして尋ねてきた。だが、その答えが少女を苦しみのどん底に突き落とすとは、まさかシィスもクリスも予想していなかった。
「ウィサンっていう国を知ってる? セリシスは魔法が使えるから、この国の王子様がウィサンの王子様に紹介状を書いてくださったの。だからセリシスは、ウィサンにある魔法の研究所に行ってみるって……」
 セリシスはリアスの貴族で、マグダレイナの王子フィアンと知り合いだった。クリスは自分のよく知っているセリシスが王子の知り合いということを誇りに思っていたので、ユウィルにも自慢しようと企んだが、そうすることはできなかった。
「ウィサンの……魔法研究所……」
 呟いたユウィルの目は大きく見開かれ、小さな身体は病的に震えていた。
「ユウィル、どうしたの!?」
 シィスが異変に気が付き、ユウィルの肩を掴んで前後に揺すった。けれどユウィルは、震える手で自分の胸元を掴むと、数度口をぱくぱくさせた。動悸が激しく、呼吸困難に陥っているらしい。
 クリスはユウィルに魔法の話をしてしまったことを悔やんだが、今更どうなるわけでもない。急いで立ち上がると、水を汲みに外に走った。
「落ち着いて、ユウィル! 大丈夫だから落ち着いて!」
 シィスはユウィルの身体を抱きしめ、大きな声で何度もそう言った。けれど、ユウィルの身体の震えは大きくなるばかりで、とうとう一度苦しそうに表情をゆがめると、そのままシィスの腕の中で崩れ落ちた。
「ユウィル!!」
 シィスは悲鳴を上げ、慌ててユウィルを横にして脈を取った。命に別状はないようだが、この発作が度重なれば危険だ。
「今日は薬屋は休みにして、ユウィルを見ているわ」
 戻ってきたクリスにシィスはそう宣言したが、クリスは首を横に振った。
「ううん、シィスは仕事に行って。ユウィルは私が見るわ。ごめんなさい。さっきのは、私が軽率に魔法の話をしちゃったから……」
「それにしても普通じゃなかったわ。しばらくセリシスの話もしない方がいいかもしれないわね」
 シィスの言葉に、クリスは神妙な面持ちで頷いた。

 今、シィスはマグダレイナの市に店を立てていた。かつては路上に布を敷いて薬を売っていたが、最近ようやく市に店を出す権利を買ったのである。そのためにシィスにとっては莫大な金を支払ったが、おかげで薬は前の3倍は売れるようになった。
 シィスはかなり多種多様な薬を作ることができたが、今はよく売れる傷薬と解熱剤、それから鎮痛剤の3つに絞っていた。作っている時間がないため、あまり売れない薬はコストパフォーマンスが悪いのである。そういう話をクリスにしたら、「シィスはすごいね」と言われただけで、特別シィスが期待する反応はなかった。
 どうやらクリスは、全面的にシィスのすることに信頼を置いており、薬屋の経営に対して、特に自分の意見は持っていないようだった。シィスはセリシスを知った今、自分を大した人間だとは思ってなかったので、そういうクリスに時々不安を覚えることもあった。
 この日もいつものように店を開いたが、ユウィルのことが心配であまり威勢のいい声は出なかった。もちろん、八百屋とは違うので、声を張り上げる必要はなかったが。威勢良く解熱剤を売る薬屋など、自分が客なら近付きたくない。
 午後になると、金髪を短く刈り込んだ青年がやってきた。常連のボルンである。
「こんにちは、ボルンさん。今日も傷薬?」
 少し冗談めかしてそう尋ねると、ボルンは苦笑して答えた。
「そんなに毎日怪我をしてたら、身が持たないよ。君は僕に怪我をして欲しいのかい?」
「怪我人や病人がいなければ、薬は売れないわ。医者や薬師は、いつだって繁盛して欲しい気持ちとそうでない気持ちが葛藤してるのよ」
 シィスの言葉に、ボルンは楽しそうに笑った。それから邪魔にならない場所に立つと、台の上に肘をついた。
「今日は話をしに来ただけだよ。迷惑かい?」
「いいえ。誰かがいてくれた方が他の人も来やすいし、私も暇つぶしになって嬉しいわ」
 シィスはボルンに特別な感情こそ抱いてなかったが、いつも贔屓にしてくれるし、気さくに話しかけてくれるので好感を持っていた。
 二人はしばらく他愛もない話に興じた。ふとシィスは、ボルンの叔父のことが気になり、その様子を尋ねてみた。ボルンの叔父は胸を患っており、しばらく前から外にも出られなくなっていたのである。一度だけシィスも診察をし、原因はわかったが、それを治すための薬は持ち合わせてなかった。
 ボルンは瞳を落として、「変わりないよ」と言った。変わりないというのは、思わしくないということだ。
 場が暗くなってしまい、話題を変えようと思ったとき、シィスは不意に昨夜のことを思い出した。ユウィルが呼んでいた、恐らく女性と思われる人の名前を。
 ユウィルはこの街の生まれのようだし、ひょっとしたら、シティアという女性はマグダレイナの人間かもしれない。そう思ってボルンに尋ねると、青年はしばらく考える素振りをしてから、やや声を低くして答えた。
「僕は……いや、僕たちは、シティアという名前の人を一人だけ知ってる。それが君の言う人と同じかはわからないけど」
「一人? それは?」
「2年前の剣術大会で、優勝候補だったケールさんの弟子のヴリーツを倒した女の子だ。僕も客席から見ていたけど、あの強さは尋常じゃなかった」
「女の子……」
 シィスは呟き、重ねて尋ねた。
「その子はマグダレイナの子なの? どんな子?」
「それが、わからないんだ」
 ボルンは無念そうに首を振った。聞くと、シティアは決勝まで残り、特別参加者として招待されたライフェという少女と戦った。ところがその最中に事件が発生し、決勝はうやむやのまま大会は幕を閉じた。シティアはそれっきり姿を現さず、優勝者はライフェになったと言う。
「誰も何も知らないんだ、あの子のことは。突然現れて、風のように消えていった。僕たちの間じゃ、『赤毛の妖精』なんて言う人もいるよ。でも、可愛い子だったけど、妖精なんて言葉が似合う子じゃなかった。今でも話題に出ることがあるよ」
 ボルンが懐かしむようにそう言うと、シィスは楽しそうに顔を綻ばせてから呟いた。
「シティア様、か……」
「え? 様?」
 シィスの呟きを聞きとめて、ボルンが不思議そうな顔をした。
「ううん、こっちの話。ねえボルンさん、良かったらその子の話、もっと聞かせてくれない? なんだか楽しそうだわ」
 シィスの言葉に、ボルンは嬉しそうに頷いた。ボルンは剣を志す者である。剣術大会の話や、強い剣士の話をするのは大歓迎だった。
 その日は午後中、シィスはボルンからシティアの話を聞き、いつもより早く家に帰った。
 彼の話したシティアが、果たしてユウィルの言うシティアと同一人物かはわからない。ただ、下手に話をしてまたユウィルに動揺を与えることは避けなければならない。
「ねえセリシス、人を助けるって、難しいのね……」
 一度空を見上げ、小さくそう呟くと、シィスはぐっと拳を握った。そして、
「頑張れ、シィス!」
 自分を励ますように冗談っぽくそう言ってから、元気に家のドアを開けた。
「ただいま、クリス、ユウィル!」

←前のページへ 次のページへ→