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ウィサン、悪夢の日
湖の街ウィサンの象徴とも言うべき魔法研究所の、突然の崩壊。平和なウィサンを襲ったこの事件が、人々の間に大きな悲しみと怒りを巻き起こす。多大な犠牲者を出したこの事件は、たった一人の魔法使いの少女によって引き起こされた。人々は少女を憎み、傷付ける。だが、図らずも自らの手で多くの仲間を殺した少女もまた、心に深い傷を負っていた。少女と少女を励ます仲間たち、そして少女を恨む人々の想いが交錯し、新たなる悲しみがウィサンの街を埋め尽くす……。
まえがき

1章 悲しみの彼方

 きっかけは些細なことだった。いや、今振り返ればそう思えるが、その時は彼らの心無い言葉は、ナイフよりも鋭くユウィルの心を切り裂き、ユウィルは自分という存在を真っ向から否定されたような気持ちになっていた。
 見習いのくせに……、おべっか使い……、胡散臭い……、詐欺師……、他国のまわしもの……、人間とは思えない……、悪魔……。
 毎日のように罵られ、けなされ、蔑まれ、時には手を上げられ、いじめられ、仲間外れにされ、それでもユウィルは我慢し続けてきた。それがいけなかったのかもしれない。シェランは「溜め込んじゃダメ、発散しないと。言い返しなさい」と、いつも言っていた。けれどユウィルは、どちらかというと内気だったし、争い事は好きではなかったから、決して彼らと真っ向から言い争うことはしなかった。
 恐らく、意識の外でその鬱憤は確実に蓄積していたのだ。
 両親がマグダレイナで罪を犯して逃げてきたのだ、今度はウィサンで悪事を働く気だなどと、さんざんこけにされ、ユウィルはついに怒りを抑えられなくなった。日頃からシティアにでも話していれば、シティアが精神的にユウィルを助けたかもしれない。けれどユウィルは、シティアが直接的に彼らを罰するのが怖かったから、すべて一人で溜め込んでいた。
 殺意があったことは否定できない。殺意がなければあの魔法は使わない。タクトに禁止されていた光線の攻撃魔法。それをユウィルは、怒りに任せて全力で迸らせた。
 思えば、彼らのしたことは、一瞬にして命を奪われるほどのことだったろうか。ユウィルに、彼らの命を奪う権利があったのだろうか。
 光は彼らを跡形もなく消し去り、凄まじい轟音を立てて魔法研究所の一階部分に突き刺さった。そして、壁や柱を抉り取り、貫き、向こう側の木々を薙ぎ倒して消えた。さらに、呆然となるユウィルを嘲笑うように、上階がゆっくりと傾き、まるで天が落ちてくるかのように地響きを立ててウェリウム広場に崩れ落ちた。
 人々の悲鳴、怒号、泣き声、集まってくる人々、神を呪う声、逆にすがる言葉。運び出される血にまみれた魔法使いたち、腕の千切れた先輩、腰を砕かれた友達、すでに息のない先生、強くなる泣き声、狂ったように叫ぶ人々。
「ユウィル、これはあなたがしたの……?」
 突然話しかけられ、振り返ると、そこには額に血で真っ赤に染まった包帯を巻き、片腕を吊り下げた知り合いの魔法使いが立っていた。
「あ……ああぁ……」
 ユウィルは一歩後ずさると、全速力で駆け出した。
 初めてウィサンに来たとき、友達になってくれたミリムを魔法で傷付けた。その時からずっと、タクトは警鐘を鳴らしていた。研究所に置くのも「危険だから」だと告げ、光線の魔法も禁止した。
 シティアも、自分の力を正しく把握するのは大切だと言っていた。けれどユウィルは、自分の魔力は大したものではないと思っていた。それが謙虚なのだと考え、謙虚を美とし、そんな自分に満足していた。今思えば、そういう態度が他の魔法使いの反感を買っていたのかもしれない。
 タクトの言う通り、自分の魔力はタクトをも凌駕するほど強力なものであると認識しなければならなかった。大陸で一、二を争う魔法使いになれると言われたとき、単に喜んだり、恥ずかしく思うだけでなく、それがどういうことかを考えなければならなかった。
 けれど、もう遅い。取り返しのつかないことをしてしまった。あの日ミリムを傷付けた比ではない過ちを犯した。嫌いだった人以上に、好きだった人が死んだ。今まで自分を助けてくれたシティアのウィサン王家に対して、反逆以外の何物でもないことをした。恩を仇で返した。
「ごめんなさい、シティア様。ごめんなさい! ごめんなさい!」
 泣きながら何度も何度も謝っていると、遠くから自分の名を呼ぶ声がして、急速に意識を引き戻された。朝が来た。

「大丈夫? ユウィル……」
 目を開けると、そこに涙を浮かべて自分を見つめるクリスの顔があった。ほとんど無意識の内にやってきたこの故郷で、声をかけてくれた少女である。
 ユウィルはゆっくりと身体を起こした。全身がだるく、服が汗で張り付いて気持ちが悪い。息を吸い込むと、血と埃の匂いがする気がして、吐き気がした。
「大丈夫、ありがとう……」
 荒く息をしながらそう言って、ユウィルは立ち上がった。そして顔を洗いに外に出ようとして、思わずよろめき、壁に手をつく。
「ユウィル、今日は一段と顔色が悪いわ。薬を作ってあげるから、寝ていなさい」
 シィスに言われて、ユウィルは大人しく布団に戻った。食欲はなかったが、シィスの作った食事を食べ、苦いが良く効く薬を飲むと、少しだけ身体が軽くなった。
 シィスはいつものように仕事に出て、クリスはユウィルの看病のために残る。家の中で、掃除をしたり文字の勉強をしているクリスを見ながら、ユウィルは自分がいかに二人に迷惑をかけているかを考えていた。
 あの日、クリスが魔法研究所の話をしてから1週間、ユウィルは体調を崩してほとんど寝たきりでいる。薬は良く効くが、根源は精神的なものなので、薬だけで治ることは決してなかった。
 二人はユウィルに気を使って、魔法の話もセリシスの話もしない。自分たちの生活を犠牲にしてユウィルに良くしてくれるが、それを潔しとするほどユウィルは不遜ではなかった。
 いつか、なるべく早くこの家を出て行なかくてはならない。けれど、出て行けば今度こそ待っているのは死だけだ。それがわかっているから、二人もユウィルを追い出せない。ユウィルも、わずかだが心を取り戻した今、死にたくなかった。けれど、生きているのも辛い。
「あたしは、死んでしまった方が世の中のためかもしれない……」
 ユウィルが思わずそう呟くと、クリスが血相を変えて飛んできた。そして咎めるように厳しい目で言った。
「ユウィル、あなた一人が生きていようと死のうと、世の中は変わらないわ。ちっぽけな私たちに、世の中を動かす力があるなんて考えるのは、すごい自惚れよ?」
 クリスはユウィルのことを何も知らない。話していないから、知っているはずがない。
 けれど、それでいいのだ。ユウィルが決してちっぽけな人間ではなく、小さな城を一つ破壊できるくらいの力を持った魔法使いであることなど、知らない方がクリスのためだ。
 ユウィルが何も言わずに俯いていると、クリスはとうとう泣きそうな顔になって、叫ぶように言った。
「私……私、シィスに止められていたけど、もう無理! もう我慢できない!」
「クリス……?」
 怪訝に思って見上げると、クリスは涙を流しながら、すがるような目でユウィルを見た。
「お願い、ユウィル。全部話して! あなたは一体どこに住んでいて、何があったの? 教えて。私たち、本当にあなたの力になりたいの!」
 たるみもせず、強すぎもせず、微妙な力で繋がれていた糸が、ぷつんと音を立てて切れた気がした。
 クリスの気持ちが偽善や自己満足だとは思わない。自己満足だけでできるほど、ユウィルを置いておくことで被る彼女たちの犠牲は少なくなかった。
 だが、二人はユウィルが何かに巻き込まれたとしか考えておらず、ユウィル自身が罪を犯したという可能性をまるで考えていなかった。もしも話して、それを知ってしまったら、知らないでいる以上に苦しむことになる。
「あたしは、クリスが好き。だから、話せないの」
 ユウィルが申し訳なさそうに言うと、クリスは涙を振り撒いて首を振った。
「わからない! 好きなら話して! 私はユウィルに全部話したわ。リアスのことも、友達のことも。好きだから話せるのよ? 好きじゃなかったら話さない!」
 ユウィルは頭を抱えた。そして、少しだけクリスを恨んだ。
 何故、糸を切ってしまったのか。もう後戻りはできない。
 ユウィルは家を出ることを決意した。だから、クリスに嫌われるのを覚悟ではっきりと言った。
「クリスに、他人の人生を抱え込む覚悟があるの? それだけの包容力があるの? 出会ったばかりのあたしのことで、一生悩み続けることになる覚悟があるなら、あたしは話す。だけど、生半可な善意で首を突っ込むのはやめて! あたしはクリスをこれ以上苦しめたくないの!」
 その言葉は、確かにクリスの優しい気持ちを粉々に打ち砕いたらしい。クリスは思わずユウィルの肩から手を離すと、目を見開いて小さく身体を震わせた。
(また、人を傷付けた……)
 ユウィルは込み上げてきた涙をぐっと押し込めて立ち上がった。そして手際良く着ていた服を脱ぐと、これまで決して着なかったウィサンの魔法衣を身に付けた。
「今までありがとう、クリス。シィスにも、よろしく言ってください」
 もう、死のう。自分の存在は、他人にとって害にしかなからない。
 その時ユウィルの胸にあったのは、ただ果てしない虚無感だった。しかし、空虚な心は、死の恐怖すら感じさせず、今なら何の躊躇いもなく自分の生命を断てると思った。
(さよなら、シティア様。本当にごめんなさい。でも、あなたを心から愛していたのは本当です。どうかそれだけは、疑わないでください……)
 ユウィルは色を失った世界に一歩足を踏み出した。その瞬間、背中から抱きしめられて、ユウィルは突然の温もりに驚いた。
「行かないで、ユウィル……」
「クリス……?」
 首だけで振り向くと、クリスはもう泣いておらず、真剣な瞳でユウィルの顔を見つめていた。そして、目が合うと、先ほどとは打って変わった、感情を押し殺した低い声で言った。
「ごめんなさい。私は、物事を簡単に考えすぎてました。もっと勉強するから、色々なことを考えるから、行かないで……」
 ユウィルは唖然となった。あれだけ傷付けられて、どうしてクリスは引き止めるのだろう。これがすべてセリシスの影響だとしたら、セリシスという女性は、一体どんな人だったのだろう。
「クリスは、あたしのこと、怒ってないの?」
「どうして? 悪いのは私よ? それに、友達だって喧嘩くらいするわ。だけど、本当の友達は、喧嘩をするたびに心が通い合っていくのよ? スラムではそうだった」
 ユウィルの空の心に、クリスの温もりが満ち溢れた。胸の中から熱くなって、ユウィルはぼろぼろと涙を零した。
「あたしは、やっぱりクリスに何も話せない。きっと一人で悩み続けて、迷惑ばかりかける。それでも、あたしを置いてくれるの?」
 恐る恐る尋ねると、クリスは同じように涙を流しながら、笑顔で大きく頷いた。
「うん。だって、私のことが好きだからそうするんでしょ? 私、ユウィルを信じる。ユウィルが話してくれること以上のことは聞かないし……うん。もっと色々なことを考える」
「あたしは……生きていていいの?」
 ユウィルのその重たい発言を、クリスがどう取ったのかはわからない。ただ元気に頷いて笑った。
「うん。他の人たちは知らないけど、私とシィスは、ユウィルに生きていてほしい。死ぬなんて言わないで。人が死ぬのは悲しいことよ?」
「クリス……」
 ユウィルは身体の向きを変え、思い切り強くクリスを抱きしめると大きな声で泣いた。クリスも嬉しいやら悲しいやら、わけがわからなくなって泣き出した。
 二人がそうして抱き合いながら泣いていると、頭上で不思議そうな声で話しかけられて、二人は顔を上げた。
「何を泣いてるの?」
「シィス!」
 クリスが慌ててユウィルの身体を離すと、シィスは目を見開いて、驚いた顔つきで言った。
「ユウィル、どういう心境の変化? その服を着るなんて」
「あ、こ、これは……」
 ユウィルはなんだか恥ずかしくなって、思わず服を隠すように縮こまった。シィスは怪訝な顔をしたが、それ以上何も言わなかった。代わりに明るい声でこう言った。
「ねえ二人とも、明日は薬草を取りがてら、ハイキングに行きましょう。ユウィルも、ずっとこんなところに閉じこもっていたら、逆に身体に悪いわ」
 シィスの突然の提案に、クリスは嬉しそうに手を打った。
「いいね! 私は大賛成! ユウィルもでしょ?」
 明るくそう笑いかけて来たクリスに、ユウィルは驚きながら、「うん」と一度頷いた。
「よかった! ありがとう、シィス。楽しみね」
「喜んでもらえてよかった」
 シィスはそう言いながら、家の中に入って薬を下ろした。クリスも中に戻って片付けを手伝う。
 そんなクリスを見つめながら、ユウィルは不思議な感覚に包まれていた。
 先ほどまで感じていた糸は、再び張られたわけでも、切れたままのわけでもなく、完全になくなっていた。一体自分は、自分と彼女たちの間に、何を意識していたのだろう。
 ウィサンでは、シティアやタクトやリア、それに研究所の先生たち。そういった、物事を難しく、複雑に考える人々の中で生活していた。だからユウィルも、物事を深く考えるのが当たり前になっていた。
 だが、クリスはなんて単純に生きているのだろう。あれだけ難しい話をし、本音をぶつけ合い、傷付き、仲違いする一歩手前まで行った直後に、こうしてにこにこと明日のハイキングに胸をときめかせている。
(もっと単純に生きたら、あんなこと起こらなかったのかな。あたしは魔法のことも、人間関係も、何もかもを難しく考えすぎていたのかな。ああやって生きていけばいいのかな……)
 その思考がそもそも、クリスに言わせれば「難しいこと」だったが、ユウィルは気付かなかった。
 ユウィルはしばらく考えていたが、やがて思考のすべてが、過去を考慮していない未来のことであることに気が付いてはっとなった。
(あたしは、あれだけのことをしておきながら、のうのうと生きる気でいるの?)
 再び罪の意識が押し寄せ、ウィサンでの惨状が脳裏に蘇る。
 許されるはずがない。ウィサンには戻れない。かと言って、罪を忘れて笑っていられるような悪党にはなれない。死ぬのも怖い。自分はこの先どうすればいいのか……未来が見えない。
 もうずっとユウィルを悩ませてきたことだ。
 けれど、ユウィルはそれをすべて振り切ろうと思った。
(悪い方にしか行きようのない思考はやめよう。流されよう。明日はハイキング。シィスさんとクリスとハイキング)
 自分に言い聞かせるように、何度も心の中でそう言いながら、ユウィルは二人の方に歩いて行った。
 けれど、ユウィルの悩みは小さな胸の中でどす黒く渦巻き、消えるどころか、どんどん膨れ上がるばかりだった……。

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