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ウィサン、悪夢の日
湖の街ウィサンの象徴とも言うべき魔法研究所の、突然の崩壊。平和なウィサンを襲ったこの事件が、人々の間に大きな悲しみと怒りを巻き起こす。多大な犠牲者を出したこの事件は、たった一人の魔法使いの少女によって引き起こされた。人々は少女を憎み、傷付ける。だが、図らずも自らの手で多くの仲間を殺した少女もまた、心に深い傷を負っていた。少女と少女を励ます仲間たち、そして少女を恨む人々の想いが交錯し、新たなる悲しみがウィサンの街を埋め尽くす……。
まえがき

2章 絆

 その日のウィサンは、朝から雨が降り続く陰鬱な天気だった。けれど、その方がユウィルにとっては好都合だったかもしれない。堂々とフードを被って顔を隠せるし、知り合いと出くわす可能性も低い。
 ユウィルは今や自分の他には誰も住んでいない、荒れ果てた我が家を出た。全身を打ち付ける雨は強く、少し歩いただけで地面から跳ねる泥がローブの裾や靴を汚した。
 あの日から3ヶ月と少し。街は以前の活気を取り戻していたが、なくなった研究所の上に広がる空が、ユウィルの心に悲しみの陰を落としていた。
(たとえ研究所が元通りになっても、亡くなった人は戻らない。街の空気も、少し張り詰めた感じがする……)
 敵意の眼差しを感じて顔を上げると、通りの向こうにいた数人が露骨に視線を逸らせて、早足でどこかに歩き去った。
 ウィサンに戻ってから一週間。予想通りユウィルへの風当たりは強く、街を歩けば至る所から嫌悪の眼差しを向けられた。けれど、面と向かってユウィルに罵声を浴びせる者は少ない。あれだけ重厚に建てられた研究所を一撃で破壊するような人間に、誰が声をかけられよう。人々はまるで魔物でも見るかのように、遠巻きにユウィルを見て噂し合い、決して近付こうとはしなかった。
 幼いユウィルの敏感な心はひどく傷付いていた。時には虚勢を張って街を歩いたり、時には一歩も外に出ずに部屋の隅で膝を抱えて日々を過ごした。本当は研究所の復興に尽力したかったが、タクトに止められているのである。
 タクトの話では、瓦礫の撤去は終わり、現在設計の段に入っていると言う。ユウィルも一度だけ研究所の跡に行ってみたが、タクトの言う通り広場は綺麗に復興されていた。研究所の跡には無数の花が捧げられ、祈りを捧げていた数人がユウィルに気が付いて逃げ去った。ユウィルはそれっきり研究所へは近付いていない。
 ユウィルは街外れの墓場にやってくると、真っ直ぐ両親の墓に向かった。二人が自殺したという報告を受けたシティアが、部下に命じて建てさせたという。ユウィルはそれを、ウィサンに戻ったその日にリアから聞かされたが、礼はまだ言っていなかった。この一週間、シティアとは会っていないのである。
 これで二度目の墓参りになるが、墓の前に立ったとき、ユウィルは思わず溜め息をついて肩を震わせた。両親の墓石が倒され、その墓石にユウィルへの恨みの文句が刻み込まれていたのだ。
「言いたいことは直接あたしに言えばいいのに……。それとも、直接言うより、こうした方があたしが傷付くことを知っててやってるのかな……」
 ユウィルは笑おうとしたが、涙が溢れてきてできなかった。泣きながら墓石を立て、刻まれた文字の周囲を削ってそれを見えなくする。
「ごめんなさい、お母さん、お父さん。きっと、あたしほど親不孝な娘はいないね」
 両手を合わせ、しばらく祈りを捧げていると、不意に背後から殺気を感じて大きく横に飛び退いた。昔シティアが、ユウィルのことを「戦闘専門の魔法使い」だと言って笑ったが、確かに他人よりも殺気や敵意を敏感に察知できるように思える。今も、もしも飛び退いていなかったら命を落としていたかもしれない。
 ユウィルと同じくらいの歳の少年が、思い切り包丁を突き出し、目標物を失って大きくよろめいた。痩せ気味だががっしりとした体付きをしている。刃物で人を斬ったことなどなさそうだが、思い切り突かれたら命はないだろう。
 ユウィルが立ち上がり、無表情で少年を見つめると、少年は体勢を立て直して切っ先をユウィルに向けた。
「殺してやる! 兄ちゃんの仇だ! 絶対に殺してやる!」
 少年は血走った目でそう叫び、再び声を上げながらユウィルに襲いかかった。
 ユウィルは避けようと思って、やめた。切っ先がユウィルの肩に突き刺さり、そのまま貫くほど深く、柔らかな肉の中にもぐり込む。
「あぐぅっ!!」
 ユウィルはあまりの痛みに呻き、その場に膝をついた。少年はまだ包丁をしっかりと握っていたが、ユウィルが膝をつくとその手からするりと柄が抜けた。
 少年はユウィルの血で真っ赤に染まった手を見下ろし、呆然と足を震わせた。ユウィルは右手で肩を押さえしばらく呻き声を上げていたが、やがて汗と雨でぐしょぐしょになった顔を上げて、弱々しい声で言った。
「満足……した?」
 少年がはっと我に返ったようにユウィルを見下ろし、赤くその色を変えたローブを見てよろめくように一歩後ずさりした。
 ユウィルはよろよろと立ち上がると、少年に近付き、小さく笑った。
「まだ、あたしを殺したいなら、この包丁を抜いて、胸を刺すといいよ。そうしたら、あなたもあたしと同じ、人殺しになれるよ?」
 言いながら、ユウィルは自分で意地悪だと思った。
 前に、シティアがまだリアを恨んでいた頃、父親を殺されて我を忘れたリアに、わざと自分を刺させたことがあった。その時、リアはもちろん人など刺したことがなく、あまりの恐ろしさにしばらくの間、刃物が持てなかったという。ユウィルはその時のシティアの気持ちを理解した。
 案の定、少年はこれ以上ないほど怯えた顔をして、ユウィルがさらに一歩近付くと、小さな悲鳴を上げて踵を返した。そして、一目散に走り去っていく。
 恐らくあの少年は、しばらく自分のしてしまったことに怯える毎日を送ることになるだろう。ユウィルは残酷なことをしたかもしれないと思ったが、激痛のあまりそんな思いもすぐにどこかへ消えて行った。
「痛い、痛いよ……。シティア様……痛いよ……」
 もう一度泥の上に座り込み、しばらく声を上げて泣いていたが、痛みは増すばかりで、次第に意識まで遠退き始めた。ユウィルは懸命に立ち上がると、一歩歩くごとに体中を刺し貫くような痛みを堪えながら、リアのいる診療所へ向かった。
 包丁の刺さったままの身体で街を歩いていると、周囲の人々が怪訝な顔で少女を見た。少女がユウィルであると気付かない者ですら、声をかけようとはしない。わざわざ事件に巻き込まれたい人間などあるものか。
(ダメかもしれない……。シティア様は、リアに刺されても平気だってわかったから刺させたんだ。あたしは、いつもこんな失敗ばかり……)
 ついに、ユウィルは足を止め、壁にもたれてずりずりとその場にしゃがみ込んだ。かすむ目で空を見上げると、空を覆う真っ黒な雲が映り、雨が瞳の中に降り注いだ。
 やがて、ゆっくりと目を閉じ、気持ちの悪い漆黒の闇の中に意識を投じようとしたその時、子供の声で名前を呼ばれた。
「ユウィル!」
 薄く目を開けると、向こうから血相を変えて男の子が走ってきた。ミリムの兄のデイディという少年である。
 デイディはユウィルのそばに駆け寄ると、あからさまに怒った顔で言った。
「どうしたんだよ、これ!」
 ユウィルは答える気力がなく、
「診療所に、連れて行って……」
 と、かすれる声でそれだけ言って再び目を閉じた。もしも誰かが自分を助けている姿など見たら、デイディが周囲から罵声を浴びせられるかもしれないと思ったが、デイディに頼らずに死んでしまえば、きっとシティアが悲しむだろう。自分が死ぬくらいなら、シティアはデイディに浴びせられる罵声をも抱え込むことを選ぶはずだ。
 幸いにも、デイディがユウィルを運ぶところを見た者はなかった。いや、運んでいる少女がユウィルだと気付く者はなかった。
 デイディはユウィルに、リアのところまで送ると言ったが、ユウィルはそれを断って一人で中に入った。今診療所にいるのは、ユウィルのことを恨んでいる者ばかりである。これ以上、デイディに迷惑をかけるわけにはいかない。
 案の定、ユウィルはすぐに好意的でない人々の視線に囲まれた。
「あの、リアはどこにいますか?」
 今にも消え入りそうな声で尋ねたが、答える者はなかった。それどころか、誰かが、
「何しに来たんだ!」
 と叫ぶと、人々が一斉にユウィルをなじり始めた。ユウィルは自分を恨む人間に取り囲まれ、とうとう我慢できなくなって泣き声を上げた。膝をついて泣いていると、誰かがそんなユウィルの小さな身体を蹴り、それはすぐに暴力に変わった。
 もしもリアの到着が少しでも遅れていたら、ユウィルは死んでいたかもしれない。
「何をしてるんですか!」
 咎めるようなリアの声に、人々は怒りの表情のまま道を空けた。リアは血相を変えて倒れている少女を抱き起こした。
「ユウィル! ユウィル!」
 大きな声で呼びかけたが、ユウィルはすでに意識がなく、死人のようにぐったりと床に手足を投げ出した。
 リアは包丁の柄を掴むと、気合いを入れてそれを引き抜いた。血が飛び散り、リアの顔に数滴かかったが、拭っている暇はない。魔力を集め、すぐにユウィルの手当てをする。
 そんなリアを見て、誰かが甲高い声を上げた。
「先生、どうしてそいつを助けるんだ!」
 リアは無視した。治療と言えど魔法は魔法だ。集中を途切れさせるわけにはいかない。
 無言で治療を続けると、声はどんどん大きくなり、とうとうリアは魔法をやめて顔を上げた。
「この子が死んで、何になるって言うの!? こんな小さな子が、体中血まみれにして苦しそうにしてる姿を見て、あなたたちは何とも思わないの? 死んで欲しいって思うだけ!?」
 リアが声を荒げると、すぐに誰かが反論の声を上げた。
「先生は、そいつが何人殺したと思ってるんだ! 天災? バカなことを言うな。俺たちの怪我もそいつがやったんだ。手足をなくしたヤツもいるんだぜ?」
「そうよ! 私だって兄を殺されたわ!」
「妻を返せ!」
 再び罵声が飛び交い、リアは思わず瞳に涙を浮かべた。そしてぎゅっとユウィルの身体を抱きしめ、その服に顔を埋めると、くぐもった声で言った。
「この子だって、したくてしたんじゃないのに……。優しい子なの! 友達や、あなたたちみたいな何の罪もない人たちを殺して、傷付けて、この子が苦しまなかったと思うの? 逃げようと思えば逃げられたのに、それでもウィサンのためを思って戻ってきたの! 少しはわかってあげてよ!」
 リアの悲痛な叫びも、しかし暴徒のような大人たちの心には響かなかった。
「戻って来なくて良かったんだよ! そんな女、ウィサンには必要ない!」
「そうよ! 悪魔め! 今度は誰を殺す気なの?」
 言葉と言うのは、時には刃物よりも深く人を斬り付ける。リアはだんだん感覚が麻痺して、心が壊れそうになった。不意に、胸の中でユウィルが声を出した。
「もういいよ、リア。ありがとう」
「ユウィル……」
 先ほどの治療で意識を取り戻したユウィルが、リアを見て弱々しい微笑みを浮かべた。その顔には多少赤みが差していたが、唇は青く、目蓋も開き切っていない。
 ユウィルは悟り切ったように笑った。
「こうなるのがわかってて来たの。リアも、シティア様を恨んだときのこと、思い出して。あたしも、シティア様がリアのお父さんを恨んでいたときのことを知ってる。あれだけの恨み……あたしを殺したってなくならない……」
「だからよ! あなたを殺したって変わらないから、もうやめて欲しいの。ユウィル、私に言ったでしょ? 憎しみを広げちゃいけないって。だから私も、シティア王女も、互いに憎み合うのをやめて……今は本当にそれで良かったって思ってる。ユウィルに感謝してる!」
 リアが涙を振り撒いて、叫ぶようにそう言うと、ユウィルは嬉しそうに微笑んだ。
「シティア様は、あたしのことが好きだから聞いてくれた。リアは、シティア様を刺したことで怯えていた。普通は、そんな理性的に物事を考えられない」
 ユウィルの声が聞こえたのだろう。周囲からまた批難の声が上がる。
「偉そうなことを言うな! 何が理性的だ! お前が一番感情的だろう!」
「そうだ! その人を見下したような言い方が気に入らないんだよ、お前は!」
 ユウィルがあきらめたような顔をしたので、リアはユウィルを抱き上げ、人々を押し退けて外に飛び出した。そしてそこでユウィルの傷を治すと、泣きながらユウィルの小さな身体を抱きしめた。
「ユウィルが可哀想……。でも、私は、私はあなたの味方だから。シティア様も、セリシスだって。みんな、ユウィルの味方だから! 一人で抱え込んじゃダメよ? 私はあなたを助けたい!」
 ユウィルはそっとリアの背を撫で、とても14歳とは思えない、疲れ切った老人のような微笑みを浮かべた。
「ありがとうリア。強くならなくちゃね」
 ユウィルは立ち上がると、リアに背を向けて歩き始めた。リアはユウィルの様子がどこかおかしいと思ったが、声はかけられなかった。
 多くの血が流れ落ちたので、頭がくらくらしたが、意識ははっきりしていた。雨はいつの間にか上がり、雲の隙間に青空が見えた。
(いつまでも子供でいちゃいけない……)
 ユウィルはじっと空を見つめながら思った。
 シティアは10歳の時に刺客に襲われ、それからずっと独りで戦ってきた。14の時にはもう、何者にも負けない心と、力を持っていたはずだ。それに比べて自分は、シティアに甘え、周りを巻き込み、いつまで経っても誰かにすがって生きている。
(強くならなくちゃ。もっと色んなことを考えなくちゃ)
 ユウィルは誰も迎える人のいない家に向かって歩き始めた。
 ようやく姿を見せた太陽が、ユウィルの影を地面に落とした。

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