汗と血にまみれた身体を起こして、エルメスが歩いてくる。ドラフを回復させてくれるのかと思ったら、エルメスはあたしに精神力を分け与えた。
「あたしより、あなたの方が治療は得意でしょ?」
儚い笑顔でそう言うと、今度は乗り手のいなくなった戦車の方に身体を向けた。剣を取りに行くのだろう。
あたしはエルメスの力を使ってドラフにヒーリングをかけた。蒼ざめた顔に見る見る赤みが差し、ドラフはかすかに目を開けた。
「おはよ。頑張ったわね」
ドラフはニッと笑って、低い声で呻くように言った。
「お前が言うくらいだから、俺はよほど頑張ったんだな」
「役には立ってなかったけどね」
そんな皮肉が言えるのも、みんなが無事だったからだ。あたしは奇跡を起こした何かに感謝した。
エルメスは剣の柄を握って、デュラハンの身体を蹴り飛ばした。静寂の中に大きな音が響いて、ようやく辺りに音が戻る。
リウスが笛を袋にしまいながらこっちに歩いてきた。その顔は相変わらずの無表情だったけど、どことなく安堵の色が見て取れた。この人もエルメスのことが心配だったんだ。
当の少女は剣を鞘に収めると真っ直ぐアルースの前まで歩いた。
アルースはぽかんと口を開けて突っ立っていた。メッシャは腰を抜かして気絶しており、その傍らではポミアが未だに震えている。
「あ、あの、ありがとうございました……」
慌ててそう口走ったアルースに、エルメスは「いえ……」と静かに首を振り、無感情な声で言った。
「仕事ですから……。報酬をください」
あたしはエルメスを誤解していた。
あれだけアルースが醜い心をさらけだし、それでもポミアを助けるためにリウスを説得したエルメス。彼女はきっと、人間に対して悪い感情など抱くことのない天使みたいな存在だって、そうとまで思った瞬間もあった。
でも、そんなはずはなのだ。エルメスだって一介の人間だし、感情だってある。人を恨むことも憎むこともある。
「は、はい……。ここに……」
エルメスだけは自分の味方なのだと思っていたのだろう。いきなり蔑まれて驚きながら、アルースは用意していた箱をエルメスに手渡した。
エルメスはそれをひったくるように取ると、中に金が入っていることだけを確認して踵を返した。
「さあ、もう行きましょう。お金をもらった今、もうここに用はありません」
スタスタと歩き出したエルメスの隣に立って、あたしも歩き出した。
依頼は解決した。それなのに、なんていう後味の悪さなんだろう。
ドラフも何も言わずに歩き、時々溜め息をついている。こんな時に話すことなんて何もないのだ。
不意に、後ろからパタパタと小さな足音がして、エルメスが足を止めた。
「あ、あの……」
振り向くと、ポミアが今にも泣き出しそうな顔で立っていた。まだ恐怖が収まらないのか、小さく膝を震わせ、額に汗を浮かべて、激しく肩を上下させていた。
「あの、助けてくださってありがとうございました。本当に、ありがとうございました」
深く頭を下げたポミアの前に立って、エルメスはそっとその肩に手を乗せた。
「いいのよ、ポミア」
「でも、わたしたちのせいで、皆さんに不愉快な思いをさせてしまって……。わたし、なんにも知らなくて……」
顔を上げたポミアの目から、涙が零れ落ちた。エルメスはそれをじっと見つめていたけれど、やがてふっと、いつもの優しい笑顔になってポミアの髪を撫でた。
「私、もう怒ってないわ。さっきは気が立ってたの」
「ほんと?」
すがるようにポミアがエルメスを見上げる。エルメスはにっこり笑ってから、あたしたちを見た。
「本当よ。ねえ」
素早く送られた目配せの意味に気付かないほど、あたしもドラフも鈍感じゃなかった。エルメスはポミアのために嘘をついているのだ。
あたしは急に可笑しくなった。だから、心から笑いながらポミアに明るく言って見せた。
「本当よ。あたしももう怒ってないわ。だからもう泣かないで」
「俺もだぞ、ポミア」
ドラフも大きく頷いて、ポミアはようやく微笑んだ。
「あ、ありがとう、皆さん!」
アルースは許せない。でも、彼の人格はポミアには関係ないし、実際この子はとてもあの男の娘とは思えないくらいいい子じゃないか。
あたしたちはポミアのために戦った。そのポミアの、心からの「ありがとう」が本当の報酬だったんだ。
あたしはもう、アルースのことなんかどうでも良くなっていた。
「これから大変だと思うけど、くじけちゃダメよ」
「はい」
「それじゃ、ポミアがよかったらまた遊びに来るわね」
エルメスが明るくそう言うと、ポミアの顔がぱっと晴れ渡った。
「はい、是非! それまでにわたし、もっと上手にクッキー焼けるようになりますから!」
エルメスは大きく頷いた。
「ええ。それじゃあね、ポミア」
「はい! 本当に、ありがとうございました」
何度も頭を下げるポミアに大きく手を振って、あたしたちは歩き始めた。
空はいつの間にか晴れ渡り、無数の星が夜空を彩っていた。もう家々の明かりも落ちた時間だ。
「リウス。私の答えは、どうでしたか?」
エルメスの声が、戻ってきた風に流れた。
前を歩く二人の表情はわからない。リウスが、少しだけ間を置いてから、真っ直ぐ前を見つめたまま言った。
「悪くはないですね。人というものは、闇と光を両方持ち合わせた存在。しかもそれは絶え間なく変動し続けている。もしも闇に覆われたように見えたその中に光の芽が存在するなら、あるいはまだ希望はあるのかもしれない……」
「希望?」
思わずあたしは聞き返した。もちろん、リウスの答えなんて期待していない。
「……いえ、こちらの話です」
あたしはちらりと隣を見た。
エルフの森で育った男は、あくまでも無関心に、あくびをしながら歩いている。でも、本当に関心がないわけじゃないことくらいわかってる。
エルメスとリウスはもう何も話さなかったけど、二人の間にある空気は、ここに来る前の和んだそれに戻っていた。
人間って、複雑で、不思議で、面白い。
エルフの中にも、もちろん個性は存在するけれど、人間に比べると種族の特性に縛られている感じがする。その点、人間は実に多種多様だ。
今ここにいる三人を見ただけでもわかる。
「魔法の研究もいいけど、人間観察も面白いかも知れないわね」
あたしがドラフにだけ聞こえる声でそう言うと、ドラフは小さく肩を震わせた。
あたしもいつしか数日前の気分に戻って、明るい気持ちで顔を上げた。
前方に、まだ明かりのついた、レンガ造りの宿屋が見えてきた。
Fin
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