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悲しみの風使いたち

第1部 古の風の民

第1話 『脱出』 2

 ふと目が覚めてうっすらと瞼を開くと、白みがかった視界に重々しい灰色の天井が入ってきた。
(ここは……どこなんだろ……。あたしの家じゃない)
 ぼんやりとした頭が少しずつはっきりしてきて、エルフィレムはゆっくりと身体を起こした。見ると白い小さなベッドに寝かされていた。
「…………」
 見慣れぬベッドの上で半身だけを起こした状態で、エルフィレムは辺りをぐるりと見回した。
 そこは四角形の部屋で、一カ所が木製の格子になっていて、後の三方は灰色の石壁。格子の丁度反対側の壁には、エルフィレムの背よりやや高い位置に小さな窓が付いていて、そこから光が洩れていた。外は晴れているようだ。
(変な部屋。何にもない)
 部屋の中にあるのは、今までエルフィレムが寝ていたベッドと小さなテーブル、それに簡易トイレがあるだけだ。
(あれ? そいえば、どうしてトイレがあるんだろ? ここ、部屋なのに……)
 部屋の中に設置されたトイレにエルフィレムは嫌な予感に駆られて、慌てて立ち上がった。その時に彼女は、初めて自分が見慣れぬ服を着ていることに気が付いた。
(あれ? 何だろ……この服。あたし、風の衣を着てたはず……)
 妙な肌触りに、エルフィレムは自分の格好を見て愕然となった。
 彼女はリナスウェルナでいつも身につけていた薄手の淡い空色の衣ではなく、膝ほどまであるブカブカの汚れた貫頭衣を一着着ているだけで、下着すら着けていなかったのだ。
「…………」
 エルフィレムは青ざめ、慌てて格子に駆け寄った。
 そして、その格子に付いていた小さな扉を力一杯押したり引いたりしてみたが、扉はビクともしなかった。
(そうだ。あたし、捕まったんだ。ここはどこなの? 人間の世界? 村は? クリスィアは?)
「ねえ、誰か! 誰かいないの!? 開けて。あたしをここから出して!」
 エルフィレムは力一杯叫んだが、しかし彼女の声は部屋中に響いただけで、返事をする声はなかった。
「う……うぅ……」
 エルフィレムは格子をつかんだまま嗚咽した。
 涙でぼやける視界には格子の向こう側が広がっていたが、そこには鉄製の扉が一つあるだけで、他には何もなかった。
「……ここから……出して……」
 エルフィレムはがくりと膝を折った。不安と孤独が暗く胸を覆う。
 その時、不意に奥から床を蹴る靴音が聞こえてきて、格子の向こうの扉が大きな音を立てて開かれた。
「あっ」
 入ってきたのは一人の男だったが、それは彼女がリナスウェルナで会った人間の一人だった。
 エルフィレムは情けない顔でその男を見上げた。
「気が付いたのか。ちょうど良かった」
 男が言った。落ち着いた感じの低い声だった。
 その声にエルフィレムは少しだけ安堵した。
「ねえ、ここはどこなの?」
 小さな声にも関わらず、しんとした空間に彼女の声が響く。
 一度声を出すと、その後の沈黙が耐えられないように、エルフィレムは心に浮かんだ疑問を次々と男に叩きつけた。
「ねえ、村はどうなったの? クリスィアをどうしたの? どうしてあたしはここにいるの? どうして村に来たの? どうしてあたし、下着を着けてないの? 寝ている間にあたしに何をしたの?」
 そこまで一息で言って、エルフィレムは大きく息を吸い、肩で息をした。
 しかし男はそれらの質問にはどれ一つとして答えず、無言で格子を開けると、
「ついてこい。フォーネス様がお前にお聞きしたいことがあるそうだ」
 ポツリと一言そう言って、再び扉の方に歩き始めた。
 エルフィレムは他に選択の余地がなく、慌てて部屋を出ると黙って彼についていった。

 男は彼女を目的の部屋まで案内すると、無言で一礼して部屋を出ていった。
 男が一礼した相手は他でもない、あの時彼女を捕まえた大男だった。
「ようこそ。我がフォーネスの館へ」
 男、フォーネスがおどけた口調でそう言って、不気味な笑みを浮かべて彼女を見た。
 エルフィレムはそんなフォーネスの態度に腹が立ち、いつもの調子で言い返した。
「ようこそも何も、あたしは自分の意志でここに来たんじゃないけど。何だったらすぐにでも帰るよ」
「そうはいかない。お前には利用価値がある」
「利用価値?」
 エルフィレムは眉をしかめた。
「どんな?」
「さあな……。直にわかる」
 フォーネスは小馬鹿にしたような目でエルフィレムを見た。
 エルフィレムはゾクリと身を震わせた。
 自分が下着すら着けずにいることが、他のどんな言葉よりもその答えになっている気がして恐怖に駆られた。
 悲しげに瞳を揺らし、何も言えずに突っ立っていると、フォーネスがゆっくりと立ち上がって彼女の前に立った。
「今はお前に一つ、確認したいことがあって呼んだ」
「……か、確認、したい……こと?」
 エルフィレムはまだ震えている。
「そうだ」
 フォーネスは構わず続けた。
「お前の村に“大いなる風の力”と呼ばれるものはなかったか?」
「大いなる風の力? 何? それ」
 エルフィレムは首を傾げた。
「聞いたことないよ」
「……隠すと自分が辛い思いをするだけだぞ」
 フォーネスが冷たい口調でそう言うと、背後でピシッという高く鋭い音がした。
 ビクリと肩をすくめて振り返ると、そこには男が一人、調教用の鞭を持って立っていた。
「もう一度聞く。お前の村に“大いなる風の力”があったな?」
 フォーネスの言葉に、エルフィレムはキッと彼を見据えて怒鳴った。
「そんなもの、聞いたことない。それよりあんたたち、そんな意味不明なもののために村に来たの? そんなデタラメを信じて、クリスィアを殺したの? あれから村をどうしたの!?」
 それだけ言うとエルフィレムの瞳に涙が浮かんだ。クリスィアのことを思い出してしまったのだ。
 それからしばらく二人は互いに睨み付け合うと、
「……本当に知らないようだな」
 フォーネスが溜め息混じりにそう言った。
「あの女も同じことを言っていた。やはりあの話は偽りだったか……」
「ねえ! 一人で納得しないで。あれから村をどうしたの? あたしを村に帰して!」
「うるせぇ!」
 いきなり苛立ったふうに、フォーネスはエルフィレムを蹴り飛ばした。
 エルフィレムは後ろに吹っ飛び、したたか床に背中を打ち付けて一瞬呼吸困難に陥った。
「うぅ……」
「さっきから黙ってりゃ、貴様誰に口を聞いてると思ってんだ? 立場をわきまえんか、この牝奴隷が!」
「め、めす……どれい……?」
「もういい、連れて行け。今夜たっぷりとこいつに自分の立場をわからせてやる」
 フォーネスが苛立たしくそう言うと、先程の鞭の男が無言でエルフィレムを担ぎ上げた。
 エルフィレムはゲホゲホと咳き込みながら、ただ恐怖に震えていた。
 結局何一つわからないまま、再び彼女は牢に叩き込まれた。

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