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悲しみの風使いたち

第1部 古の風の民

第1話 『脱出』 3

 どんよりと雲が空を覆う夜だった。月の光もその雲に遮られて地上には届かない。
 冷たい風が泣き叫ぶように吹いていた。
 キルケスの町のはずれにあるその大きな館の壁沿いに、一人の男が立っていた。
 男は頭に布を巻いて髪を隠し、黒装束に身を包んでその壁を見上げていた。
(それほど高くないな。大体5メートルくらいか……)
 男は袋からフックの付いたロープを取り出すと、それを壁の頂上目がけて投げ込んだ。
 ロープは高々と空に上がり、フックがガシリと壁に固定される。
(よしっ)
 二、三回ロープを引き、しっかりと固定されているのを確かめると、男は音を立てないように慎重にそれを登って館に入った。
 館の中は男の予想通り、警備は手薄だった。何故なら、それほど警備を厳重にしなくてはいけないほど、この館の主フォーネスは物欲には駆られていないのだ。
 フォーネスの興味の対象は力と権力。後は自分を崇める人民くらいだった。
 だからこの館には、一般民が彼を敵に回してまでも盗んで得をするようなものはほとんど置いていない。
 今回にしてもそうだった。男の目的は決して金品ではない。フォーネスがいずこからか連れてきたとの噂の美少女、ただそれだけだった。
 薄い警備の目をうまく誤魔化しながら、男は館の中に入った。
 彼がここへ来るのは、これで二回目だった。

 一方館の牢の中で、エルフィレムは怯え震えていた。
 窓から射す光も今はなく、そこから入ってくる冷たい空気が夜の到来を告げていた。
(今夜はこのベッドで寝られるのかな……)
 何の色気もない白いベッドのシーツを指先で辿りながら、エルフィレムは数時間後の自分の姿を想像して、ギュッと自分の身体を抱きしめた。
 エルフィレムとて、生理も来れば男の子にだって興味のある歳だ。牝奴隷とまで言われれば、彼らが自分に何をしようとしているのかくらいわかる。
(お願い、リナスウェルナの風の神様。あたしを助けて)
 エルフィレムは両手を組み合わせて固く目を閉じた。
 格子の向こうで、ガチャリと扉の開く音がした。
「さて。お楽しみの時間だ」
 入ってきた男はフォーネスではなかったが、その男は牢を開けると、怯えながら自分の顔を見上げるひ弱な娘を牢から引きずり出した。
「や、やめて!」
 エルフィレムは必死に逃げようとしたが、男の力の前にそれはまったく無力だった。
 彼女は抵抗も虚しく、館の中の小さな一室に連れて行かれた。

 足音を忍ばせて、男は館の通路を歩いていた。
 これまでに遭遇した男は、すべて一言も声を出させずに沈めている。
 廊下に据え付けられた燭台の灯りをフッと息で吹き消して、男は先を急いだ。薄暗い廊下はそのまま牢まで続いている。
(急がないと……。もう遅いかもしれないが……)
 やがて突き当たりで通路を右に折れると、牢への扉が目に入った。扉は開かれていて、その先に牢が見えたが、その牢の格子もまた開いたままになっていた。
(まさか……)
男は慌てて部屋に入ったが、すでに牢はもぬけの殻だった。
(お、遅かったのか?)
 男が悔やんだその時だった。
「いやぁぁあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
 突然背後から少女の悲鳴が聞こえてきて、男ははっとなって振り返った。
(あっちか!)
 男はもはや足音など気にもせずに、全速力で駆け出した。

 エルフィレムは喉が千切れるほど絶叫した後、自分を引きずってきた男に後ろから蹴り飛ばされて部屋の中に転がり込んだ。
 部屋の中にはフォーネスの部下が5人ほどいたが、彼らは皆、下着姿だった。
 背後でバタンと扉の閉まる音がして、エルフィレムは悲痛な面持ちで振り返った。
 先程の男が扉の前で服を脱いでいた。
「あ……ああ……」
 エルフィレムは体中の力が抜けていくのを感じた。
(もうダメだ……。あたし……)
 男たちが近付いてきて、エルフィレムを押さえつけた。
 ごつごつとした手の平の感触に、エルフィレムは必死になって身をよじったが、それは男たちの性欲を駆り立てるに終わった。
 ブカブカの貫頭衣は呆気なく剥がれ、エルフィレムは一糸まとわぬ姿で男たちの中に包み込まれた。
「い……いやぁ……」
 もはや叫ぶ元気もなく、彼女はただ泣くだけだった。
「フォーネス様がお前に十分立場を教えるようにだとさ。残念だが諦めてくれ」
 そう言う男はちっとも残念そうではなく、明らかに行為を楽しんでいるように見えた。
 その男の大きな手の平が彼女の胸を包み込んで、柔らかく指がそこに埋まった。
「ひっ」
 エルフィレムは小さな悲鳴を上げた。
 それから六人の男たちが一斉に、身体をむさぼろうと彼女にのしかかった時、いきなり背後の扉が開かれて、まるで風のような動きで黒ずくめの男が一人、部屋の中に入ってきた。
「な、何者……」
 言いかけた男は、次の瞬間には肩口に思い切り手刀を叩き込まれて床に伏していた。
「き、貴様!」
 残る五人がいきり立ったが、彼らは裸な上、突然のことに対処できず、呆気なく黒ずくめの男に倒された。
「……っ……はぁ……」
 エルフィレムは泣きながら、荒々しい息遣いで男を見上げた。
 男は貫頭衣を指差して、
「早くそれを着ろ。逃げるぞ」
 急かすようにそう言ってから、彼女の方を見向きもせずに部屋を出た。
「あっ。待って」
 エルフィレムはいきなりのことに気が動転していたが、何とか気を取り直して急いで服を着ると、男の後について部屋を出た。

 館の通路は薄暗い。入り口からの灯りは、男がすべて消してきているからだ。
「ねえ。あなた誰? どうしてあたしを助けてくれるの?」
 男の背中を追いながら、エルフィレムが声を潜めて尋ねた。
 彼女は男を完全には信用していなかったが、今は明らかに自分の敵であるフォーネスの部下を倒し、自分を出口へ導こうとしているこの男を信じるしかなかった。
 男は一度立ち止まり、半身だけで彼女の方を振り返った。そして人差し指を自分の口に当てて喋るなと訴えかけると、再び前を向いて歩き始めた。
「…………」
 エルフィレムはここに来てから、質問という質問をすべてはぐらかされて少々の苛立ちを覚えたが、それで怒るのも何だか筋違いな気がして、黙って彼についていった。
 階段の上り下りがないので、一体今どこに向かっているのか、本当に出口に向かっているかもわからなかった。
 エルフィレムは少し疲れてしまい、大きく一度息を吐いた。まだ部屋を出てからそれほど歩いていないが、彼女は靴を履いていなかったし、それにあのようなことがあったすぐ後だ。仕方ないだろう。
 男は一度ちらりと心配そうに彼女の方を振り返った。
 彼女の、男ならまず誰でも惹かれるほどの可愛い顔は疲れ果て、この地方ではほとんど皆無に等しい深緑の髪はぼさぼさになって肩にかかっていた。
 エルフィレムはじっと床を凝視していたが、彼の視線に気がついて弱々しい笑みを見せた。
「大丈夫。行こ」
 男は力強く頷いた。
 その時、突然通路がパッと明るくなって、無数の足音が前から後ろから響いてきた。
「気付かれたか」
 男が悔しそうに言うと同時に、十数人のフォーネスの部下が彼らを挟み撃ちにした。
「捕まえろ!」
 一斉に彼らが襲いかかる。
「きゃあっ!」
 エルフィレムはそんな彼らの形相に、思わず頭を抱え込んで目を瞑った。
 だから、その後男が何をしたのかわからなかった。
「ぐっ!」
 彼らの苦しそうな呻き声と同時に、男がエルフィレムの手を引いた。
「行くぞ!」
 見ると、自分たちの進行方向側にいた男たちはすべて壁に叩きつけられていて、通路が開かれていた。
 何をしたのかは知らないが、エルフィレムは目の前の男がただ者ではないと察知した。
「わかった」
 二人は全速力で走り始めた。
 背後から追っ手の足音がついてくる。
 しかし二人の足は速かった。
 ぐんぐん彼らと差を付けて、やがて通路が広くなり、眼前に大きな扉が見えてきた。
「出口だ!」
 二人は並走しながら叫んだ。その時、
「うぐっ!」
 いきなり男が苦しそうな声を上げて、前のめりに倒れ込んだ。
「えっ!?」
 エルフィレムが急ブレーキをかけて男を見ると、彼の背中に数本の矢が刺さっており、服に血が付いていた。
「あぁっ!」
「走れ!」
 男が怒鳴った。そして素早く立ち上がると、出口の反対側、つまり矢を射かけた者たちの方を向いて立った。
「俺に構わず行け」
 男はそう言って、エルフィレムに小さな袋を投げて渡した。
 エルフィレムはそれを拾い上げると、
「ありがとう。それから、ごめんなさい」
 小さくそれだけ口走って、振り向かずに出口に駆けた。
 背後で矢を射る音がしたが、それは彼女には当たらなかった。
 そのままエルフィレムは館を飛び出した。
「ふっ」
 彼女の背中を見届けて男が笑った。
「やってくれおったな」
 そんな彼の前に立った男は、怒りに肩を震わせていた。
 寝間着姿の大男、フォーネスだ。
「久しぶりだな、フォーネス」
 男が言った。彼は全身に矢を受け致命的なダメージを負っているにも関わらず、平然と笑って立っていた。
 矢のかすめた額の布が緩み、はらりと床に落ちた。
 布の下から覗かせた短く刈られた彼の髪は、深緑色をしていた。エルフィレムと同じ、風使い特有の……。
「久しぶりだな、リュースロット。5年ぶりか?」
 フォーネスが男、リュースロットを睨み付けて言った。

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