淀んだ空が広がっている。ひょっとすると、今夜は雨かも知れない。
「はぁ……」
シャナリンは大きく一つ溜め息を吐いて、部屋の中を振り返った。
シャナリンとリュースロットの寝室。けれど今、彼はいない。
元々大きなベッドが、いつも以上に大きく見えた。
「リュース……どうしたんだろ……」
彼女は不安げに瞳を曇らせた。
ちょっとキルケスに用がある。
そう言ってリュースロットが家を出て行ったのが、今から丁度3日前。クルーザがあのフォーネスの噂話を持ってきた日の夜のことだった。
「用って何? どれくらいかかるの?」
いくらシャナリンが尋ねても、彼は1週間後には帰ると言っただけで、何をしに行くかは言わなかった。けれど、クルーザがあの話をしたばかりのことだ。シャナリンにも、リュースロットがフォーネスに用があることは容易に知れた。
けれど、一介の八百屋の青年が、キルケスの影の支配者に一体どんな用があるというのだろう。
シャナリンは不安を隠せなかった。
リュースロットはシャナリンに自分の素性を話していなかった。自分の深緑の髪も遠くの地方から来たということにして、リナスウェルナのことは決して話さなかった。
それは別に、シャナリンに嘘をついてまでも隠す必要のあることではなかったのだが、リュースロットは5年前から、もう誰にもリナスウェルナのことを話すまいと決めていた。
だからシャナリンは、リュースロットとフォーネスのことも知らなかった。フォーネスが5年前、リナスウェルナからやってきた少年に興味を抱き、彼を自分の館に招いてその土地の話を聞いたことは噂で聞いたことがあったが、その少年がまさかリュースロットのことだとは、夢にも思わなかった。
「リュース……。言いたくないことは言わなくてもいいし、私も聞かない。だから……せめて、無事に帰ってきて」
シャナリンは遠いキルケスの空に祈りを捧げると、一人寂しく床についた。
外はいつの間にか雨が降り始めていた。
エルフィレムが出ていって、開けっ放しにされた扉の向こうから、わずかな雨音が聞こえてくる。
「5年前、俺はお前にリナスウェルナのことを話したことを後悔している」
フォーネスを睨みつけて、リュースロットが言った。
「お前が得意げに話していたんだろう。別に俺が聞いたわけじゃねぇ」
「確かに……」
リュースロットは若気の至りとはいえ、愚かなことをしたと恥じた。
5年前、退屈なリナスウェルナの村を飛び出した彼は、人間の町で得意げに故郷の話をした。
けれど、彼が考えていた以上にリナスウェルナのことを知っている人間は少なく、彼は人々にまったく相手にされなかった。
彼はひどくショックを受けた。そんな時現れたのがフォーネスだった。
リュースロットは自分の話を興味津々に聞いてくれるフォーネスに嬉しくなり、村のことを何から何まで話した。
しかし、それが間違いだった。
「もしあの時、あんたがこんな人間だと知っていたら、絶対に話さなかった」
悔しそうにリュースロットが言って、フォーネスが可笑しそうに笑った。
「ああ。あんまりお前の話が面白かったもんだから、あれから俺は部下にリナスウェルナについて徹底的に調べさせた。そしてついこないだ、ようやくリナスウェルナに関する文献を発見して、知った」
「リナスウェルナについては俺が話しただろう。何が物足りなかった」
「何も物足りなくはなかったさ。ただ、もっと他にも何かないかと思ってな」
フォーネスはにやにやと笑いながら続けた。
「リナスウェルナは風の郷。遥か昔、風使いと呼ばれる者たちが村を作った。彼らは風を治める者たちで、人間と同じ姿をしていながら人間と異とする者だった。彼らは村の中に風の祭壇を設け、そこに“大いなる風の力”を封印した」
「そしてあんたはそれに騙されて、わざわざリナスウェルナまで取りに行った。けれど見つからずに、仕方なく村の娘を連れて帰って、奴隷にして売ろうと思った」
リュースロットがバカにしたような口調でフォーネスに言ったが、フォーネスはそれに怒るどころがむしろ楽しそうに笑った。
「いや、文献に書いてあったことは正しかった」
「何?」
「撃て!」
いきなりフォーネスが手をかざして、無数の矢がリュースロット目掛けて放たれた。
「くっ!」
リュースロットはそれを躱しきれないと見て、身体の前で手を交差させると、気合いを入れてそれを左右に開いた。
グゥン。
鋭い音とともに強い風が彼を中心にして吹き、すべての矢を逸らせた。
「それが“大いなる風の力”だろ? 文献に書いてあったことは本当だった」
「くっ! フォーネス……」
恨みがましい目でフォーネスを睨め付け、リュースロットは悔しそうに唇をかんだ。
「“大いなる風の力”はあった。ただ、それは風使いにしか使えない代物だった。それがすなわち、人間と風使いの差。お前はあの時それを俺に話さなかった。知っていながらな」
「話していても結果は同じことだ。俺はお前にリナスウェルナの話をしたこと自体を後悔している。だからこうしてせめてもの罪滅ぼしにやってきたんだ」
「だが、もう遅い」
「何?」
「お前がいけないんだ」
フォーネスが嘲るように言った。
「リナスウェルナは滅んだ。お前が、その力を使えるのは風使いだけだと言わなかったからだ」
「な、何だと!?」
リナスウェルナが滅んだ……。
リュースロットは耳を疑った。
「な、何てことを……」
「俺も今日お前を見て後悔したさ。だが、俺の野望はまだ潰えたわけじゃない」
「ふん。どうするつもりだ? 俺は死んでもあんたには力を貸さんぞ」
「バカかお前は。リナスウェルナは滅んでも、もう一人いるだろう。この世に残った、最後の風使いが……」
そこでようやく、リュースロットは彼の目論見を知った。フォーネスはエルフィレムに“大いなる風の力”を身に付けさせ、自分の道具として使おうと考えているのだ。
「そ、そうはさせない!」
「お前が? 無理だな。その怪我ではもう動けまい」
そう言って、フォーネスはリュースロットの身体を見た。
彼は全身に矢を受け、その内の数本は致命的な部分を貫いていた。
けれど彼は不敵に笑うと、
「それが甘いんだな」
そう言って強い風を起こした。
「ぐっ!」
「風使いと人間のもう一つの大きな差。それは絶対的な生命力の差だ。俺たちはこれくらいの傷じゃあ、死なん」
リュースロットは風を強くし、彼らをすべて通路の奥の方に押し返すと出口を向いた。
「今日のところは引かせてもらう。お前たちにエルフィレムは渡さない」
そして彼は館を後にした。
(リナスウェルナが……滅んだ……)
雨の中、彼の瞳から零れた涙が風に舞った。
川が流れている。
その川は小さく、しかし豊富な水量を湛えて流れていた。
川は山の頂近くから流れ、途中、巨大な滝となって人間界に流れ込む。
その滝のわずか手前で、一人の少女が川辺に上がり、苦しそうに息をしながら倒れていた。
「はぁ……はぁ……」
少女は淡い透き通るような空色の衣をまとっていたが、その腹部は血で真っ赤に染まっていた。つい先日、人間どもに刺されたものだ。
少女の名はクリスィア。風使いの彼女は、腹部をナイフで貫かれながらなお、凄まじい生命力でもって生き延びていた。
「エルフィレム……」
クリスィアは友の名を口走って、震えながら起き上がった。
傷口はやはり尋常でない回復力ですでに塞がっていた。
よろよろと立ち上がり、彼女は村の方へ歩き始めた。
「はぁ……はぁ……」
視界がぼやけ、足下がふらついた。
「村に……村に帰らないと……」
彼女は這いつくばるように大地を歩いた。
腹部がきりきりと痛み、目眩がした。
途中、何度も倒れそうになりながら、森を抜け、花畑を踏みしめて、クリスィアはやがて村に着いた。
そして彼女は、呆然と立ち尽くした。
「えっ……?」
彼女の眼前に広がったものは、つい先日まで人々が穏やかに暮らしていたとは思えない廃墟だった。
焼け焦げた家、倒された樹木、崩れた祭壇。折れた剣、大地を朱に染める血、人間と、そして仲間の無数の死体。
「そ……そんな……。どうして……」
彼女は震えながら、がくりと膝を折った。
涙が出ぬほど気が動転していた。
「エルム……エルムは……?」
彼女は虚ろな瞳で呟いた。
冷たい風が泣くように吹き抜けていった。
静かに雨が降り始めた。
←前のページへ | 次のページへ→ |