「ああ……あああ……」
エルフィレムは取り乱し、全身をわなわなと震わせると、勢いよく立ち上がった。
むせ返るような血の匂いと、床に広がる粘性のある濃く深い赤。それが自分の身体からもして、彼女は気が違ったように部屋から飛び出した。
そして階段を駆け下りながら服を直して、無我夢中で外に飛び出そうとした。その時、彼女が開けるより先に家の扉が開いて、
「きゃあぁぁぁっ!」
甲高い婦人の叫び声が家の中に轟いた。見ると家の外に、コーバリスの住人が集まってきていた。エルフィレムの悲鳴を聞いて駆けつけたのだ。
彼らは皆一様に、血だらけで抜き身の短剣を持った彼女を見て、凍り付いたように息を呑んだ。
「違う……違うの……」
エルフィレムは短剣を手にしたまま、その場に佇んで震えていた。
涙が頬に付着した返り血を洗い流した。
「ひ、人殺しっ!」
誰かが叫んで、それから彼らの目が血走った。
「人殺しだ!」
「この女がカルレスさんを殺したんだ!」
「逃がすな!」
「捕まえろ!」
さながら地獄の亡者たちのように、彼らは一斉にエルフィレムに襲いかかった。
「ひっ!」
彼女は小さく悲鳴を上げると、慌てて家の奥に引き返し、窓から外に飛び出した。
「逃がすな!」
「こっちに逃げたぞ」
「回り込め。町から出すな!」
町中が騒然となっていた。
エルフィレムはただひたすら走った。
(どうして……どうして……)
背後から声が追ってくる。そこら中からランプの光が見えた。
(あたし、何もしてない……。あたしは村で静かに暮らしていただけなのに……。クリスィアと一緒に、パンを食べようと思っただけなのに……。お母さんの作った焼きたてのパン、とってもおいしいから、二人で食べようと思っただけなのに……)
声が少しずつ遠ざかっていく。
彼女は木々に紛れて町を飛び出した。
大きな月が頭上に輝いていた。
ただ虚ろな瞳で走り続けた。
その頃、そんなコーバリスの南方数キロメートルの地点で、見るからに柄の悪そうな数人の黒ずくめの男たちが、髪に布を巻き付けた一人の男と対峙していた。
「……悪いが、貴様に構っている暇はない」
黒ずくめたちはそう言って、月光に照らされて、鈍色に光る剣を抜き放った。
フォーネスの部下たちである。逃げたエルフィレムを追ってきたのだ。
「そうはいかない。お前たちには個人的な恨みもあるからな」
対する男は、やはりエルフィレムを保護せんと駆けつけたリュースロット。怪我はすでに治っている。
彼は圧倒的な数の敵を前に、平然と笑みを浮かべて立っていた。
雲もなく、数多なる星の輝く夜空が頭上高くに広がっていたが、空気は冷たく、冬先並の寒風が草木を揺らしていた。
「これだけの数に勝てると思っているのか?」
彼らが言うと、
「お前たちこそ、そんな数でこの風使いリュースロットに勝てると思ってるのか?」
と、リュースロットが皮肉めいた口調で返した。
そして、スッと上げた彼の右腕に、風が小さな竜巻のように渦を巻いた。
「“大いなる風の力”か……」
それを見て彼らが呻く。決して臆してはいないが、数による余裕はなくなったようだ。皆一様に顔を緊張させた。
そんな彼らを見て、リュースロットは小さく笑った。
「これが“大いなる風の力”か……。違うな」
「何?」
「これは俺が村を飛び出してきたときに少しだけ身に付けてきた風の力。いわば、あれの極一部に過ぎない」
「ほう。ならばますます欲しくなった。とりあえず貴様にはここで死んでもらおう」
「ふっ。エルフィレムを捕らえたところで無駄だ。彼女とて、お前らなどには協力せんさ」
「従わせる方法はいくらでもある」
「そうはさせん!」
同時に、両者が土を蹴った。
彼らの剣が一斉に閃いたが、リュースロットは自分を中心にしてドーム状に風を起こし、彼らの剣を弾き返した。
そしてその反動で、剣を跳ね上げられ、胴ががら空きになった一人の胸に手を当てると、そこに一気に凄まじい風圧をかけた。
「ぐっ!」
肋の折れる音がして、男の口から血が吹いた。
リュースロットは振り向き様に背後の男を強風で吹き飛ばすと、そのまま素早い動きで後方に倒れたその男の上に乗り、同じように胸部を風で潰した。
ボキボキボキッ!
鈍い音がする。
「死ねぇ!」
仲間が殺られている間に、二人が彼の左右から踊り出た。
グン!
剣を縦に振り下ろす。
しかしその剣は、彼の手前でまるで空気の壁にぶち当たったかのように止まった。
「くっ! これが風の力か!?」
悔しそうに男が言って、自分の胸部に伸ばされたリュースロットの手を躱した。
「ちっ。しょうがねぇ。今日のところはこのまま退かせてもらう」
男が言って、彼らは一斉に退却し始めた。
「そうは行くか!」
すぐにリュースロットが風を送るが、その風は突然発生した白い煙を捲いただけで、彼らを捉えることは出来なかった。
「どうせあの娘の行き先はわかっている。すべての決着はそこで着けてやるよ」
煙の中からそんな彼らの笑い声がした。
「くそっ!」
リュースロットは忌々しげに煙をすべて吹き飛ばしたが、すでにそこに彼らの姿はなかった。
「エルフィレム……」
彼は寂しそうに呟いた。
リュースロットが村を飛び出してきたとき、エルフィレムはまだ10歳にも満たなかった。だから恐らく彼女は覚えていないだろうが、彼は彼女のことをよく覚えていた。
よくクリスィアと一緒に元気に村を駆け回っていた、あの明るい太陽のような女の子。たとえどんなことがあれ、あの子の、あの明るい笑顔だけは曇らせたくない。
「エルム……すまん。俺のせいで……」
リュースロットは頭の布をしっかりと巻き直して、北へ、リナスウェルナへ歩き始めた。
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