高く険しく、また人里離れたこの山脈の向こう側を見た者はない。人々は、そこに広がる広大な青い海を知らない。
そんなゲネルの一角にある、なだらかな高原を歩く一人の少女の姿があった。
少女はやつれ果て、足を引きずり、髪を乱し、息を切らせながら、生気の宿らぬ瞳で山の一点を見つめて、ただそこに向かって歩いていた。
彼女の見つめる先にあるものは他でもない。彼女の郷、リナスウェルナ。
彼女エルフィレムは、コーバリスの町を追いやられてよりこれまで、もはや何も考えず、何も口にせず、ただひたすら歩き続けていた。
陽の残光も薄らいで、空には星が瞬き、木々が影を落とす。
この季節、夜風が凍り付くほど冷たい。エルフィレムは背中から一度強く吹き付けた風に身を震わせて、再び歩き始めた。
(村に帰るんだ。村に帰ったら、人間界でのことはすべて忘れよう。クリスィアならきっと大丈夫。あたしたちは強いから、そう簡単には死なないよ。生きて、またみんなと一緒に暮らすんだ)
もはや気力だけが彼女を突き動かしていた。体力はすでに底を尽き、精神力だけで彼女は歩き続けていた。
辿り着く先の、温かい故郷を思い出しながら。
「……エルフィレム」
ふと、背後から呼びかけられて彼女は立ち止まり、ゆっくりと振り向いた。
いつの間にかそこには、闇をバックにしていつかの男が立っていた。彼女を、フォーネスの館から救い出した男だ。
リュースロット。5年前リナスウェルナを飛び出した少年だが、もちろんエルフィレムがそんなことを知るはずもなく、また、何故彼が自分の名前を知っているのかを疑問に思う余力もなかった。
「……なぁに?」
疲れ切った、かすれた声で問いかける。すでにエルフィレムは、彼の存在に対して何の疑問も抱かなかった。
リュースロットは怖いほど表情を強張らせて、そんなエルフィレムの顔を見つめた。
(どう言えばいいんだ? 今の彼女に真実を打ち明けるのは危険すぎる。それに……)
ちらりとリナスウェルナの方を見て、彼は思った。
(それに、俺もまだ、フォーネスの言ったことを完全には信じていない。リナスウェルナが滅んだなんて……)
リュースロットは髪を覆う布に手をやった。彼の深緑色の髪は、今はその布によって完全に隠されている。万一リナスウェルナが滅んでいなかったときのためだ。
自分は村の掟破り。今更戻れるわけがない。
「……用がないなら、あたし行くね。あたし……行かないと……」
いきなり話しかけておいて、何も言わずに突っ立っているリュースロットに、うわごとのようにそう言って、エルフィレムは再び歩き始めた。
リュースロットは何も言えず、どうすることも出来ないまま、仕方なく黙って彼女の後を付いていった。
夜も更け、風がどんどん冷たくなって、彼女の半分裸に近い身体に吹き付けた。
道はすでに高原を抜け、今は険しい岩肌を彼女はよじ登っていた。この岩山を登った先にリナスウェルナがある。
(もうすぐ……もうすぐお父さんに会える。お母さんに会える。弟に会える。もうすぐ……)
手の皮はごつごつした岩肌に傷み、血で染まって腫れ上がっていた。服もボロボロになり、そこから覗かせる素肌もやはり傷付き、砂と血に汚れていたが、彼女のペースはまったく衰えなかった。
(お母さん、心配してるだろうな。怒られるだろうな。でも、喜ぶだろうな……)
ほんのわずかに彼女は微笑んだ。
リュースロットは依然彼女の後ろを歩いている。
エルフィレムは一心に登り続け、そして、リナスウェルナの地を踏みしめた。
一面黄色の花畑が広がっている。夜にも関わらず、甘い薫りのする、エルフィレムの大好きな花畑だ。よく見知った、生まれ育った故郷。向こうに小さく村が見えた。
(やっと……やっと着いた……)
もう動くはずもない両脚で大地を踏みしめながら、ゆっくりと彼女は村の方へ歩き出した。夜闇の中、村はしんと静まり返っている。
(もうみんな寝てるよね……。もう遅いもの……)
少しずつ、村が大きく、はっきりと彼女の目に写る。じわりと、彼女の瞳に涙が滲んだ。
(あたしの大事な故郷……。やっと……やっと帰ってこれた……)
まず見えてきたのは、倒された木柵だった。村を取り囲んでいたものである。
そして、“大いなる風の力”を封印した祭壇。随分高い建物だったが、今は何もなく、ただ星の散りばむ夜空が広がっていた。
(やっと、帰ってこれた……のに……)
村の入り口の前で、彼女は足を止めた。
眼前に広がる廃墟。
そこに、彼女の故郷はなかった。エルフィレムが生まれ育った村と、温かくて優しい人々。それらはすべて死に絶えて、黒く焼けた土の上に横たわる。
「あは……あはは……」
呆然と涙を流しながら彼女は笑った。小さな肩が儚げに揺れている。
「あはははは……あはははははは……」
彼女は仰け反って笑った。大きな声で、彼女の笑い声は夜空に轟いた。
「エルフィレム……」
そんな彼女の横に立ち、リュースロットが呟いた。
「ひどいな……」
懐かしさと、そして自分のしてしまったことへの罪悪感に囚われて、厳しい表情で村を見つめるリュースロット。そんな彼の呟きに、ふとエルフィレムは笑うのをやめ、村を見たまま言った。
「ひどい?」
「ああ……」
それから彼女は無感情な瞳で彼を見上げて、冷たく言い放った。
「あなたたちがしたんじゃない。あなたたち人間が……」
「エルフィレム……」
彼は寂しそうに彼女を見下ろして、そっと髪の布に手を当てた。
「エルム、実は……ぐっ!」
最後まで言うことは出来なかった。
突然腹部を襲った猛烈な痛みに、リュースロットは下を見て愕然となった。
エルフィレムの手が、彼女の持つ短剣が、自分の腹にめり込んでいた。
「エルム……」
「あなたたちがいけないの……」
エルフィレムは短剣を抜き、がくりと膝を折った彼に続けた。
「人間なんて滅べばいい。あたしが滅ぼしてやる……」
それは彼に言った言葉ではなかった。
エルフィレムは短剣を捨て、ゆっくりと村の方を振り返ると歩き始めた。
「エルフィレム……」
リュースロットは苦しそうに呻いたが、出血のために動くことが出来なかった。
彼はそのまま気を失って、のめり込むように地面に伏した。
「滅べばいい……」
大いなる風の祭壇の前で、エルフィレムは衣服を脱ぎ捨て、風の衣を纏った。そして祭壇の中央に歩み寄ると、そこで静かに目を閉じた。
「愚かな人間たち……。この力は、あたしたちしか使えないというのに……」
口に出してそう言うと、無知な人間に対して沸々と怒りが込み上げてきた。
祭壇の上で風が竜巻のように渦巻いて、彼女の周りを取り囲んだ。
「滅べばいい……滅べ……滅びろ……」
うわごとのように何度も何度もそう言って、彼女は両手を垂直に伸ばした。
その手の先に風がまとわりつき、ぐるぐると渦巻く。風は少しずつ強くなって、周囲の砂や瓦礫を捲いて吹き上げた。
「“大いなる風の力”よ……。愚かな人間たちに滅びをもたらせ……」
豪風が、まるで彼女に取り込まれるようにして渦巻き、消えていった。
後に残ったのは静寂。彼女の周りには円状に土がはだけて、先ほどまでそこに存在していた家の残骸や倒れた木々はすべて消し飛んでいた。
「すごい力だ!」
不意に背後からそんな歓喜の声が聞こえて、彼女はゆっくりと振り返った。
見覚えのある男が四人。確かフォーネスの館で自分を襲おうとした男どもだ。
「その力、お前と一緒にいただくとしよう」
そう言って、男たちはエルフィレムを取り囲むようにして立ち、身構えた。
エルフィレムは無表情のまま動かない。
一斉に男たちが動いた。
まず白い催涙ガスが霧のように彼女の周りを取り囲み、ついで蜘蛛の巣のような、粘性のある網が彼女に投げつけられた。
さらに彼らは、無数の小さな瓶を彼女に投げつけた。それらは彼女の周りで割れ、中からより強力な睡眠作用を持った煙が出て、彼女を包み込んだ。
「やったか?」
彼らは息を呑み……それが彼らの最後の言葉となった。
「何!?」
グォン!
叫ぶような風の音がした次の瞬間、彼らは突然身体が軽くなったかと思うと、身体を遥か高くに持ち上げられていた。エルフィレムが風を起こしたのだ。
彼女の風は呆気なくガスを霧散させ、網を吹き飛ばした。そして地上30メートルほどのところに浮かぶ四人を見て、にやりと笑った。
「死ね」
彼女は一旦風をとめ、落下し始めた彼らの上から、さらに地上に叩き付けるように風を起こした。
「うぎゃあぁぁあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!!」
彼らは情けない声を上げて、そのまま地面に激突した。いや、それはもはや激突といった次元ではなかった。
彼らの身体は硬い地面の上で潰れ、手足は千切れ飛び、真っ赤な血が波のように飛沫上がった。
「ははは……あーっはははははははははは……」
エルフィレムは愉快に笑うと、そのまま彼らの死体を踏み付けて歩き始めた。
いつの間にか空は白み、東の空がうっすらと赤くなっていた。
「朝か……」
エルフィレムは笑うのをやめ、ピューエルの森に入った。そしていつもの崖まで歩く。
ちょうど眩しい朝日が地平線から顔を出して、大地に黄金の光を注いでいた。
白くたなびく雲、真っ赤な朝日、どこまでも続く大地に、遥か眼下の森、頭上にはすでに青い空。
絶景だった。
「綺麗な朝……。滅びの始まりにふさわしい……」
彼女は呟き、歪んだ笑みを顔に浮かべた。
そこにはかつての心優しい、感受性豊かな風使いの少女は存在しなかった。
エルフィレム。
人間への復讐を胸に、破壊と殺戮に心を踊らす少女。
この日彼女は、再び人間界へと降り立った。
大陸に秋の風が吹き抜ける。
それは強く、魂の泣き叫ぶように……。
深い悲しみと、嘆きを乗せて……。
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