それは随分間近でしたので、目を覚ますのとほぼ同時にエルフィレムは状況を把握した。
毛布から這い出して、まず窓から外を見てみると、すでに夜が明けていた。空が薄明い。
「おい、何だ!? これは」
「し、死体よ!」
徐々に人間が集まってきている。
まあ、尋常ならざる力によって破壊された扉のすぐ側に、すっぱりと首の落とされた死体が転がっているのだ。恐らくこの街きっての大珍事であろう。
じきにここにも人間が来る。
「じゃあ、始めるよ……」
誰にともなく呟いて、エルフィレムはまず裏に出口を確保した。そして部屋中に油を撒く。
ドタドタと床を蹴る音が近付いてきた。
エルフィレムは頃合いを見計らって油に火を付けた。
火はたちどころに燃え上がり、木造の家屋はあっと言う間に炎に包まれた。
「うわっ! 何だこれは!」
「おい、火事だ、火事だ!」
愚かな人間たちの慌てふためく声がする。
エルフィレムはそんな人間たちが可笑しくて、思わず笑みを零した。
確保しておいた裏口から外に出ると、彼女は混乱に乗じて次々と家に入り込み、油を撒いて火を放った。そしてそれを風を起こして煽り立てる。
2軒、3軒、4軒……。
少しずつ火が広がっていくにつれ、街は騒然となった。
やがてエルフィレムの存在も気付かれ、怒りに満ちた声が街中に轟いた。
「おい! 犯人は深緑の髪の女だそうだ!」
「探し出せ! 見つけて縛り上げろ!」
彼女はふと、前にもこんなことがあったと思い出した。
自分はあのとき、人間の醜さの一端を垣間見た。
なるべく家と家との間といった、道とも呼べない細い路地を抜け、その都度その都度火を放っていたが、やがて15軒ほど火を付けた後で角を曲がろうとして、エルフィレムは身体に衝撃を受けて、地面に尻餅をついた。
誰かにぶつかったのだ。
「うわっ!」
相手はまだ年端もいかない子供だった。
その子供も彼女のことを知っていたようで、地面に座り込んだまま目を見開いて震えていた。
エルフィレムは急いで立ち上がるとナイフを抜いた。
子供が声を出そうと大きく息を吸う。
その首元に、ナイフの刃がずぶりと埋まった。
「ぐふっ!」
エルフィレムはナイフの柄をしっかりと握って、その子供を足蹴にした。
そうしてナイフを子供から抜いて、走り出す。
後は闇に潜んで、会う人間会う人間を片っ端から殺していった。
人間など、大抵背中から一突きすれば殺すことができる。たとえ一度で殺せなくとも、内臓を抉れば結果は同じだ。なるべく人間の柔らかくて、ナイフの抜きやすい箇所を選んで彼女は殺人を繰り返した。
薄い透けるような水色の衣は返り血で真っ赤に染まり、顔も腕も髪も、少しずつ赤く染まるにつれ、エルフィレムはだんだん無表情になり、虚ろな瞳で走り続けた。
やがて、もう何人殺したろうか、ナイフと風の力を併用して街に死体があふれる頃には、すでに日は空高く昇り、街は赤々と燃え盛っていた。
(凄い力……。たった一人でこんなにも簡単に大地を浄化できるなんて……)
かなりの疲れは感じていたが、エルフィレムはまだ最初と変わらぬペースで走っていた。もはや肉体的には限界に達していたが、復讐に燃える少女の精神は今が絶頂だった。
「そこまでだ!」
不意に前方から太い男の声がして、気が付くと彼女は20人ほどの人間に取り囲まれていた。皆鉢巻や前掛けをしている。恐らく朝市に出ていた者たちだろう。
「よ、よくも街を……」
彼らの目は血走り、人によっては涙を流す者もいた。
エルフィレムは改めて面々を観察してみた。
男もいれば女もいる。大体が30代から40代だが、中には若い娘もいるようだ。
皆が皆、武器になりそうなものを手に取り、自分を睨み付けている。
「ふん。愚かな……」
「何だと!?」
じりじりと彼らは輪を縮めていった。
そして、誰かの合図で一斉に彼女に飛びかかる。
「……これで終わりよ」
エルフィレムはまるで動じずに、ゆっくりと片腕を上げてそう呟いた。
その腕に、そして彼女の身体に、少しずつ風が集まってくる。
彼らの振り下ろした武器は、すべてそれによって弾き返された。
風はどんどん強くなり、やがていつかリナスウェルナでフォーネスの追っ手を倒したときのように、巨大な竜巻を生成して彼らを飲み込んだ。
「うぐぁっ!」
「いやっ!」
悲痛な人間の声。しかしそれは、エルフィレムの殺戮心を煽り立てるだけだった。
空高くまで、風が人と塵を捲いて巻き上がる。砂色の風が空を覆った。
「死ね!」
そしていつかのように風を消し、上から彼らを地面に叩き付ける。
「ぎゃあぁぁあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!」
数多なる断末魔の叫びとともに、彼女の周囲が真っ赤に染まった。
「あはは……あはははははははっ!」
人々が呻き苦しむ真ん中で、エルフィレムは大声で笑った。
赤々と炎に燃えるセロホリヴァルに、いつまでもそんな彼女の笑い声が響き続けた。
それから、時を置くこと数時間。その情報はキルケスのフォーネスの許に届いた。
「ほぉ! あの小娘がたった一人で街を壊滅させただと!?」
思わず立ち上がり、フォーネスが嬉しそうに言う。
報告した男は不安げに眉を歪めて、おどおどと発言した。
「“大いなる風の力”はそれからこの街に向かっております。いかがなされますか?」
「案ずるな」
再び椅子に深く腰掛け、フォーネスは平然と笑う。
「所詮は力だけの小娘。一応万全を尽くすが、なに、それこそうちの精鋭が5人も出れば片が付く」
「わかりました。それでは指揮の方、よろしくお願いします」
男はそう言って、恭しく一礼すると部屋を出ていった。
「“大いなる風の力”か……」
一人になるや否や、フォーネスがそう呟いた。
「必ずこの手中に入れてやる。そして必ず世界をこの手に治めて見せる」
ぐっと拳を握るフォーネスの顔に、笑みが零れた。
(来るがいい、エルフィレム。そして、独りでは何もできないことを知り、絶望しながらこの俺の奴隷となるのだ)
窓の外ではいつの間にか雲が覆い、日の光を遮っていた。
薄暗い分厚い雲の下で、静かに雨が降り始めた。
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