草原と呼んでいいものか、森と呼んでいいものか、広範囲に渡って緑の草の生い茂るその平地には、所々に背の高い木がぽつりぽつりと立っていた。
木々はその両腕を広げて、緑の葉を生い茂らせている。それだけを見ると、まるで夏のようだった。
しっかりと踏み固められた道には、しかし人の姿はない。もちろんそれは、偶然今存在しないだけで、ここに来るまでにかなりの人間と擦れ違っている。
エルフィレムはここまで、それらを片っ端から片付けてきていた。女子供もいれば、中には屈強な男もいたが、どんな者であれ、いきなり斬りかかられては為すすべがない。しかも彼女は、一見どこにでもいる普通の女の子だ。
もっとも、この土地には珍しい深緑の髪は、人目と注意を引くのに十分であったが。
少し木々が密集した辺りを通ったとき、小鳥が数羽、その枝葉の上でさえずっていた。
エルフィレムは足を止め、微笑みを浮かべる。リナスウェルナにいた時には、よくピューエルの森で小鳥たちとたわむれたものだ。
そんなことを思い出しながらそっと手を差し伸べると、小鳥たちは彼女の存在に気付いたようで、くりくりとした目を彼女の方に向けた。
エルフィレムはあの、今ではもう滅多に見ることのなくなった愛らしい笑みを浮かべた。
しかし小鳥たちは、しばらくそんな彼女を観察するように見つめた後、小さな羽音を立てて、まるで彼女から逃げるように飛び立った。
「あっ……」
驚いたようにエルフィレムは声を上げた。
「…………」
それから少しだけ悲しそうに表情を歪めると、自分の身体を見下ろした。
靴と服が、もはや初めの色がわからないほど、人間の血で真っ赤に染まっていた。何度も何度も洗ったのでだいぶ落ちてこそいたが、やはり微かに血の臭いもする。
「……しょうがないよね……」
ぽつりと呟いて、エルフィレムは再び道の先を見つめた。この場所からではまだ見えないが、この先にはあの苦い記憶の街、キルケスがある。もう半日もしない距離にだ。
彼女は再び顔を強張らせた。
「行こう……。あいつらに死をもって償わせるんだ……」
彼女の足が一歩、また一歩とキルケスに近付いていった。
夕刻、それは突然訪れた。
遥か前方にキルケスの街壁を望みながら、エルフィレムは森の中を歩いていた。
この世界はやたらと森が多い。それはエルフィレムがあの崖から見下ろしていたときにも感じたことなのだが、この世界には人間の街が緑の海に浮かぶ島のように存在している。
つまり人間は、森を切り開いて街を作り、そこに住み着いているのである。
森というのは、人間にとって恐怖の対象でもあった。
エルフィレムも前に襲われたことがあったが、森は野盗と、そして狼の巣窟なのである。だから街から街への移動は、それこそ命をかけたものであり、出来ることならば避け、やむを得ない場合はなるべく多人数で行動する。
いくつもある森での鉄則の、最も基本的な一つである。
エルフィレムがいかにしてあのフォーネスを殺そうか画策しながら歩いていると、前方から荷物を積んだ馬車が一台やってきた。荷台は白い布で覆われていて、何が入っているかは外からではわからない。
馬車を駆る男は、顎に茶色い髭を伸ばした屈強そうな中年の男だった。
(人間か……やり過ごそう)
エルフィレムは一度ちらりとその馬車を見ると、そのままその横を通過しようとした。こんなところで無駄に体力を使うわけにはいかない。そう考えたからだ。
それが、彼女の命取りになった。
荷台の横を彼女が通り過ぎようとした瞬間、突然その荷台が彼女の方に横倒しにのしかかってきた。
「きゃっ!」
エルフィレムは咄嗟のことに慌てて横に跳んで躱したが、その拍子に地面に倒れ込んだ。
素早い動きで、荷物の中から数人の男が飛び出した。
(罠!?)
彼女はようやくそれに気が付いたが、すでに遅かった。森が危険であると知っていながら、夕方に街を出てきた荷馬車に何の疑問も抱かなかった彼女の、完全なミスだった。
慌てて抜いたナイフは呆気なく弾き飛ばされ、自分目がけて振り下ろされた剣をエルフィレムは風を起こして押し返した。
「ええいっ!」
急いで立ち上がった彼女は、今度は背中に衝撃を受けて荷台の方につんのめった。
何とか踏みとどまり、慌てて後ろを振り返ると、森の中からさらに数人、いずれも見たことのある顔が剣を構えて立っていた。
(囲まれた……)
エルフィレムは風の力を得て人間界に降りてきてから、初めて恐怖を感じた。
フォーネスが、まさか先制攻撃を仕掛けてくるとは……。
エルフィレムはその可能性を疑いもしていなかった。
自分を取り囲む輪はかなり狭い。
「くそっ!」
汚い言葉を吐き捨てて、エルフィレムはいつものように自分を中心に風を巻き起こした。
しかし、彼女にその攻撃があることを事前から知っていた彼らは、特に慌てず、大きく後ろに後退して間合いを取ると油断なく剣を構えた。
(嘘っ!?)
エルフィレムは唖然となって、素早く策を巡らせた。
もっとも、今ここで彼女に出来ることなど一つしかない。
(このまま一旦退こう)
彼女はそのまま木々を薙ぎ倒して森に駆け込んだ。そして風をやますと森のさらに深いところに逃げ込む。
森の奥は真っ暗だった。生い茂る木々の枝葉を押しのけて、背の高い草の中に飛び込み息を潜める。
静寂が訪れた。
(ま、まさか気付かれていたなんて。でも、どうして? 追っ手はみんなリナスウェルナで殺したはず……。どうしてフォーネスがあたしがここにいることを知ってるの?)
エルフィレムはひんやりとした闇の中で、ただただ困惑するばかりだった。昨日今日人里離れた村を出てきたばかりの彼女が、フォーネスの情報網の広さなど知るはずがない。
彼女はどうしていいのかわからず、困り果てて眉をひそめた。
それからどれくらいそうしていただろう。やがて夜が訪れて、辺りは完全な闇に包まれた。
あれっきり彼らに動きはない。自分を捜す声どころか、道の方からは物音一つしない。
(……あたしが出ていくのを……待ってる……?)
エルフィレムは張りつめた空気に、心の底から恐れを抱いた。
今にも背後の闇から彼らが現れて、自分を村の者たちと同じように無惨に殺すのではないかと、不安げに辺りをキョロキョロと見回した。
しかしそこにはただ鬱蒼と木々が生い茂るだけで、人の姿はない。
オオゥウゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ……。
「!!」
どこかで狼の遠吠えがして、エルフィレムはびくりと肩をすくめた。
風に周りの草がさやさやと揺れた。
(もう、いや……)
彼女は泣きそうになるのをぐっと堪えて、ブンブンと首を横に振った。
(どうしたの? エルフィレム。しっかりして。村のみんなの仇を討つんでしょ?)
大きく一度深呼吸して、静かにエルフィレムは立ち上がった。
それから音を立てないように、辺りを注意深く窺いながら道の方へ戻る。
(もう……いないのかな?)
何事もなく彼女は道に出た。
道は月明かりにぼんやりと照らし出されていた。ふと彼女はその道の真ん中に自分のナイフが落ちているのに気が付いて、そこに駆け寄った。
(あたしのナイフ。確か弾き飛ばされて……こんなところに落ちたんだ……っけ?)
その不自然さに気が付くより先に、ビュンと風の切る音がして、エルフィレムは右足の太股に激痛を感じた。
「ぐっ!」
見下ろすよりも先に風を起こす。
さらに彼女の足目がけて放たれた矢は、その風にすべて払い飛ばされた。
(い、痛いよぅ……)
エルフィレムは必死に痛みを堪えながら、ナイフを拾い上げて駆け出した。
背後の森からわらわらと人が出てきて、自分を追ってくる。その数はどんどん増えていって、彼女はふとおかしなことに気が付いた。
(人が後から後から出てくる。どうして挟み撃ちにしないの?)
気が付いたところで、彼女にはその答えを出せなかったし、どうすることもできなかった。
やがて森を抜け、前方に街が見えてきた。
「!」
エルフィレムはそこで、驚愕に足を止めた。
街壁の門の前、そこに5、6人ほどの男が立っていて、彼女の姿を見るや否や、剣を振り上げて走り出した。
エルフィレムは方向を変え、街壁に沿って走り出した。
風使いの彼女の足は人間のそれよりもずっと速い。
怪我した足を庇いながら、それでもぐんぐんと追っ手に差を付け、やがて街壁の角を曲がろうとしたその時、いきなりその角から人が現れて、彼女目がけて矢を放ってきた。
「くっ!」
エルフィレムは汗だくになりながらその矢を風で払いのけ、そのままその風で彼らを打ちのめした。そして足を止めずに角を回る。
「!!」
再び彼女は大きく目を見開いた。
さらに3人ほどの男がそこにいて、やはり彼女を見て矢を射った。
彼らが執拗に矢を使うのは、彼女に風の力を使わせて疲れさせるためと、足に怪我を負わせることによって、彼女の行動力を鈍らせるためである。
エルフィレムはそれに気が付いてはいたが、どうすることも出来なかった。
「ええいっ!」
彼女は風の力を使い、彼らから必死に逃げようとしたが、森から出た時点ですでに彼女の逃げ場はなかった。じわじわと輪が縮まってきて、その内に彼女は疲れ果て、がくりと地面に膝を折った。
「はぁ……はぁ……」
汗と涙がポタポタと地面に落ちる。右足の感覚はすでになくなり、太股から流れる血が、そんな右足を真っ赤に染め上げていた。
「はぁ……ん……」
前後左右至る所から、ザッザッという足音が近付いてくる。
悔しかった。無性に悔しかった。悔しくて悔しくて、それでもエルフィレムにはもう泣くことしかできなかった。
やがて足音がやみ、自分の見下ろしている地面にまで彼らの影が伸びてきたとき、頭上から聞き覚えのある声がした。
「わかったか? 小娘」
フォーネスだ。
何がわかったというのだろう……。
エルフィレムはキッとフォーネスの顔を見据えた。
フォーネスはエルフィレムの前に片膝をつき、ぐっと彼女の顎を引き寄せてにやりと笑った。
「わかっただろう。独りでは何も出来ないんだよ。どんなに素晴らしい力を手にしようが、使い方を知らなければ勝てやしない。ましてたった独りでこの俺に盾突こうなんざ、100年早い」
「う、うるさい!」
エルフィレムはペッとフォーネスの顔に唾を吐いた。
唾はフォーネスの口元にかかり、顎の方へ流れ落ちたが、彼は余裕を崩さず、その唾を自分の舌でぺろりと舐め取った。
エルフィレムはそれを見て怖気が走った。そして、目の前の男に真の恐怖を抱いた。
絶望するしかなかった。
「あれを持ってこい」
フォーネスが言って、彼女は体中を男達に押さえつけられた。背後から男が一人やってきて、フォーネスに手の平サイズのガラス瓶を渡す。
中には見るからに怪しそうな紫色の液体がたっぷりと詰まっていた。
「あ……ああ……」
恐怖に震えるエルフィレムを見て、フォーネスが可笑しそうに笑った。
「安心しろ、死にはしない。お前のその力、俺が正しく使ってやろう」
誰かがエルフィレムの口をこじ開け、フォーネスが瓶の蓋を開けた。
(も、もう……ダメだ……)
エルフィレムは涙でかすんだ目で空を見上げた。
綺麗な星空が広がっていた。大きく輝く月の下を小さな黒い影が二つ、ゆっくりとした動きで横切っていった。鳥だろうか。
(鳥……?)
液体が口の中に注ぎ込まれ、ひんやりとした感触が口腔を覆った。
(そ、そうだ……!)
エルフィレムは意を決して、自分の口をこじ開ける手の指を噛み切った。
「ぎゃあぁあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!」
人間の出す声とは思えぬ声で男が絶叫し、エルフィレムはその男の指と一緒に、流し込まれた液体をフォーネスの方へ吐き出した。
「何っ!?」
少し焦りはしたが、フォーネスはすぐに余裕の笑みを浮かべた。
「諦めろ、今さら無駄だ」
「……フォーネス」
静かに彼女が口を開いた。
「ん?」
「ヒント、ありがとう。きっと命取りになるから」
そう言って、エルフィレムは周囲の数人を最後の力を振り絞って吹き飛ばした。
「無駄だと言っているんだ!」
素早く起き上がってフォーネスが叫ぶように言った。彼自身も相当腕が立つと、エルフィレムはその時思った。
「お前にもう逃げ場はない」
「いいえ!」
彼女の周りを風が取り巻く。
「何をする気だ?」
誰かが呟き、フォーネスが彼女が動くよりも先に言った。
「こいつは空に逃げる気だ。逃がすな!」
しかしその言葉を部下が把握するより先に、彼女は風の力で自分の身体を空に持ち上げた。
一気に疲労が身体を蝕み、一瞬、ふわりと頭が軽くなった。
(ダメ! しっかりして、エルフィレム)
エルフィレムは力を振り絞った。
そしてそのまま身体を遥か上空に浮かび上げると、森の方へと吹き押した。
「逃がすな! 絶対に捕まえろ!」
地面でフォーネスの怒号がしたが、エルフィレムの耳には届かなかった。
彼女はしばらく街から遠ざかるように空を飛行すると、やがて力尽きて森に落ちた。
……時は少し遡る。
雨の降る朽ち果てたセロホリヴァルの街を、一人の男が歩いていた。
焼け崩れた家があちらこちらに見られる。火は、この雨ですべて消えたようだ。
まだ生きている人間もいるが、数は少ない。皆、引っ越しの準備をしたり、身内の死を悼んでささやかな葬儀を執り行っている。
ふと彼は、道端で泣いている少年を見つけて足を止めた。
「どうしたんだ? メッツァ君」
彼が尋ねると、メッツァと呼ばれた少年は涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げ、鼻をすすりながら彼に言った。
「リュースの兄ちゃん……。お母さんが……お母さんが……」
「デュルスさんが……殺されたか……」
彼、リュースロットが呟くと、メッツァは彼の胸に飛び込み、大きな声で泣き出した。リュースロットはそんな少年を優しく抱きとめ、そっとその背中を撫でてやった。
やがて、まだ泣きやまぬ少年をその場に残して、リュースロットは歩き始めた。顔は険しく、所々に不安と焦りの色が窺えた。
やがて彼は一軒の家の前で足を止めた。もっとも、家といっても今はその原形を留めておらず、焼け落ちた柱や梁だけが、無惨にそこに重なり合っていた。
彼の家である。
「…………」
彼は瞳を曇らせ、それを一つ一つ丁寧にどけていった。
通常の者ならば不可能であろうそれを、彼は風の力を使ってたったの十数分でやり遂げた。
焦げた木材の下からは、幸いにも彼の探しているものは出てこなかった。
彼はそれを確認すると、踵を返して歩き出した。
(シャナリン……)
冷たい雨が降り注いでいる。風に守られている彼の身体には、それは一滴もかかっていなかったが、寒気には勝てず彼はぶるりと一度身を震わせた。
嫌な予感がした。
ミシュラン通りには市が立ち並んでいたが、人気はなかった。
当時は新鮮であったのだろう野菜や魚が、泥にまみれて地面に転がり落ちていた。
彼は自分の店で足を止め、中を覗いてみた。
もちろん、恋人の姿はない。屋根が雨の重みに耐えきれず、数カ所破れて一部の野菜が水浸しになっていた。
彼はそれには手をつけずに再び歩き始めた。
それからそうも行かない内に、彼は道端に積み重なった死体を見つけた。
恐らく最後の砦だったのだろう。周りには彼らの心許ない武器が散乱している。
最後の抵抗も、人智を超越した術を用いる悪魔にはまったく通用しなかったようだ。ある者は地面にめり込み、ある者は腕や足を斬り裂かれて、血と泥にまみれたまま惨たらしく死んでいた。
どの顔にも見覚えがある。皆、商店街の者たちだ。クルーザもいる。
彼は手を伸ばし、そこから比較的綺麗な一つの死体を抱き上げた。
血の海に浮かぶ唯一の若い女性は、紛れもなく、彼の恋人だった。
「シャナリン……」
呟いたつもりだったが、声にはならなかった。
シャナリンはいつもと変わらぬ表情で死んでいた。顔は生気を失い青黒くなっていたが、今にも目を覚ましていつもの調子で笑いかけてきそうだった。
恐らく、何が何だかわからないまま殺されたのだろう。
左腕を骨折しているようだったが、死因は刃で切り裂かれた胸だろう。彼女の形のよい双丘に、真っ直ぐ一筋の深い溝が彫り込まれていた。流れる血がなくなったのか、あるいは傷が塞がったのか、今は血が出ていない。
彼はもう一度彼女の顔を見つめた。
綺麗なままだった。傷一つついていない。
「女の子だもんな……」
呟いて、彼はきつく彼女の身体を抱きしめた。
「軽いな……シャナリン。こんなにも軽かったっけ……?」
彼は彼女の肩越しで嗚咽した。悲しみに涙し、苦しそうに声を洩らした。
誰も聞く者はなかったが、誰にも聞かせまいと、彼は必死に声を堪えた。
彼は泣き、泣き疲れるまで泣き続けた。
そして不意に泣き止むと、肩を震わせたまま小さな声で呟いた。
「……やってくれたな……」
怒りの声。怒りに震える、声と肩。
ゆっくりと彼は顔を上げたが、その顔は怒りに満ち溢れ、目は復讐にギラついていた。
「……やってくれたな、エルフィレム……」
彼はシャナリンの身体を両腕で抱かえたまま、静かに立ち上がった。そして一度その唇に口付けすると、彼女の死体を愛おしそうに抱きしめたまま、音もなく街を後にした。
生気のかけらすら失われたセロホリヴァルメインストリートに、しとしとと雨は降り続けていた。
まるで、殺された人々が泣いているように……。
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