戦いに破壊され尽くしたそこには、ただ廃墟が広がるばかりで、未だに人々の死臭に満ちた街の上空には、彼らの死肉を食らわんとする無数の鴉が、空を漆黒に染め上げていた。
その日は朝から凍て付く冷たい風が吹き荒れて、明け方には粉雪が舞っていた。今もなお曇天に包まれたリークレッド率いる陣営では、兵士たちの手によってテントが畳まれ、街への帰り支度がなされていた。
黙々と自らの仕事に従事する彼らの表情は、皆一様に暗く沈んでいる。
それは、この戦いにおける自軍の死傷者のことや、自らの手によって積み上げた死体に対する思いよりむしろ、もっと根本的なところ。すなわち、この戦いの意味と、それを強要し、実行に移したリークレッドの真意に対する疑念によるものだった。
もちろん、自軍の仲間の死を悼んでいないわけではない。名誉の死とは到底言い難い殉死。そんな死に方をした仲間たちを思うと、リークレッドに対して怒りすら覚えた。
そして、自らの手によって作り上げた目の前に広がる廃墟。今この陣営の中に、それを直視できる者は、リークレッドをおいて他になかった。
いくら戦争とはいえ、他人を殺すことは人として忍びない。ましてそれが、なんの意味も正義も持たない戦争によるものであればなおさらである。
早くこの場所から立ち去りたい。
命令とはいえ、自分たちのしてしまったことに対する罪悪感が、彼らの心の中で一様に渦巻いていた。
だから彼らは何も考えず、ただ黙々と作業を続けた。
自分からさえ目を背けるように……。
結局、戦いの後に残ったものは悲しみ、ただそれだけだった。
すべてはエルフィレムの一言から始まった。
キルケスのフォーネスが嫌いだから殺して欲しい。あの街のすべてを消して欲しい。
意味というものを考えはしなかった。そして、追求もしなかった。
いや、単に出来なかっただけかもしれない。
ただ、王となり、且つ人間離れした圧倒的な能力を持った少女を自らの傍らに置いている今、リークレッドにとってたかがキルケスの街一つ滅ぼすことは容易であり、その後の収拾さえ彼にとっては何の不安の種にもならなかった。
キルケスの街を滅ぼすことと、エルフィレムの機嫌を損ねること。この二つを天秤にかけて、彼は後者の方により大きな重みを感じたのだった。
キルケスを滅ぼしてより数日後、冷たい雪の舞う中をリークレッドは凱旋した。
あの日から彼はエルフィレムの姿を見ていなかったが、特別な不安はなかった。
元々気まぐれな娘である。ひょっこりといなくなり、気が付くと戻っているのはいつもとさして変わりない。
恐らく彼女にとっては、この戦争さえも日常の何気ない一幕に過ぎないのだろう。
リークレッドの頭の中には、彼女のことしかなかった。
城に戻った後、願いを叶えてやったことに対する彼女からの報酬だけが今の彼のすべてであり、それ以外のこと、死んでいった兵士のことや、キルケスの街のことなどは、彼にはどうでも良いことだった。
だから彼は、自分の後ろをついてくる大勢の兵士たちの暗い表情にも気が付かず、そして、自分の向かう居城に異変が起きていることにさえ、その直前まで気が付かなかった。
「ん?」
異変に気が付き始めたのは、街門の手前まで来た時だった。
先に早馬を走らせて凱旋報告をしたはずだったが、彼らが戻ったとき、門は固く閉ざされたままで、街門の向こう側は不気味な静けさに包まれていた。
「これは何だ?」
不機嫌にそうぼやいて門のところまで来るも、出迎えはなく、いつもならばいるはずの門兵の姿もなかった。
兵士たちがにわかにざわめきだした。
「おいっ! 誰かいないのか!」
苛立ちにリークレッドが大声を上げたとき、ゆっくりと、街壁の上に3つの人影が現れた。
リークレッドよりも少し年上の若い女と、目つきの悪い30歳から40歳くらいの男が二人。
男の方には見覚えがなかったが、女の顔を見た瞬間、リークレッドと、そしてその背後に控えるすべての兵士たちの間に衝撃が走った。
「リーリス!」
純粋に驚きから出たリークレッドの声。
街壁に立っていた者。それは、間違いなく死んだはずのリーリス王女、その人だった。
「リーリス! どうしてお前がそこにいる!」
リークレッドが怒鳴りつけると、リーリスは冷たい瞳で彼を見下ろした。
そして、毅然として言い放つ。
「どうしてとはお言葉ですね。この街は私の故郷であり、そして父の亡くなった今、この街は私の街です」
「ふ、ふざけるな!」
リークレッドは顔を真っ赤にして叫んだ。
「大体お前は死んだはずだろう! 何故そこにいる!?」
リークレッドの疑問は彼と、そして彼の率いるすべての兵士たちにとってもっともなことだったが、しかしリーリスはまったく動揺せず、むしろ首を傾げるようにして平然と答えた。
「死んだはず? 誰がそんなことを言ったのですか? 私は元々生きています。あなたが勝手に私を死んだことにして、葬儀を執り行っただけでしょう」
「何だとっ!?」
苛立ちに醜く顔を歪め、怒鳴り散らすリークレッド。
しかし虚勢を張ってはみたものの、彼はこの時、納得のいかなかったすべてのことが繋がったような、そんな気がしていた。
すなわち、リーリスを殺したと言って自分に近付いてきた少女と、そしてその少女が今この場にいないことに。
「ええい! あの女はリーリスの偽物だ。誰か、ヤツを射殺せ!」
リークレッドは自らの劣勢を悟り、そう声を張り上げながら、兵士たちを振り返った。
しかし彼らは互いに顔を見合わせ、リークレッドから視線を逸らせるだけで、誰一人としてその命令に従おうとはしなかった。
それは、リークレッドに対する不信感もあったが、それよりも今は、あまりにも唐突すぎるすべてのことに思考がついていかないというのが実のところだった。
ただあたふたするだけの兵士たちを見て、リークレッドの怒りは頂点に達した。
「貴様ら! 命令が聞こえんのか!」
そんな横暴なリークレッドに、リーリスが静かに言い放つ。
「リークレッド。兵士たちを脅しつけるのはおやめなさい。そんなことをしても、信用できない主には誰も従いませんよ」
「黙れっ!」
「あなたたち」
一人で憤慨しているリークレッドを余所に、リーリスが王女としての威厳を持って、彼の背後に控える兵士たちに言った。
「すでにこの街の人々の心は私にあります。あなたたちも、いくらそこの男に騙されて取り返しのつかないことをしてしまったとはいえ、この街の住人。もしも武器を捨てて私に従うならば、私は王女としてあなたたちを保護します」
兵士たちが一斉にざわめく。
大半の者の心がこの時すでにリーリスの元にあったが、仮にも王の前でどうしてよいのかわからなかった。同時に、この最後の決断の場において、一つだけ彼らはリーリスに対して不安があった。
如何にリークレッドのやり方に疑問を抱いているとはいえ、果たしてリーリスにこれだけ大きな国を治めるだけの力があるのか。そして、もしも他国が攻め入ってきたとき、軍配をとることができるのだろうか。
リークレッドには、間違いなく王として必要な知恵と知識がある。彼らの持つ兵士として主に従う忠誠心と、女には従いたくないという男としての本能的な自尊心が、リーリスにつくことに対して最後の抵抗を見せていた。
しばらくの間があって、リーリスが溜め息まじりに言った。
「そうですか……。それでは仕方ありません」
彼女がスッと手を上げると、街壁から弓矢を掲げた者達が一斉に姿を現した。
「何!?」
驚きに声を上げるリークレッド。
街壁の上の者たちは皆一様に矢をつがえ、その矛先をリークレッド初め、地上に立っているすべての兵士に向けた。
「すでに城の兵士たちも、皆私に従っています。もしもあなたたちが戦うと言うならば、私はこの街を守るために、あなたたちを殺さなければなりません」
淡々と語るリーリス。
その時街壁の上の誰かの手から、一本の矢が事故でか故意にか放たれて、地面に突き刺さった。
「くっ!」
リークレッドは一度舌打ちをして、それから腰に帯びた剣を抜き放った。
「もはや討論の余地はない。お前たち、あの女をあそこから引きずり下ろせ! あれはリーリスの偽物だ。お前たちの知っているリーリスは、もはやこの世には存在しない。亡き王女を冒涜するあの不埒な女を討ち殺せ!」
リークレッドの怒号に、この瞬間が決断の時だと兵士たちは悟った。
そして彼らは、半ば本能的に剣を抜いた。
半年以上も前に死んだはずのリーリスよりも、今目の前にいる横暴な王を信じたのだった。
「よしっ!」
戦う決意に満ちた彼らを見て、リークレッドは満足げに頷いた。
刹那、
「私たちはもうお前には従わない!」
どこからともなく変声期前の子供のような高い声がして、鎧を身に纏った小柄な兵士が一人、リークレッドの前に躍り出た。
「何だと!?」
リークレッドが振り向き様に、その者を睨み付ける。
そんなリークレッドの首元に、その兵士の持った短剣が深々とめり込んだ。
ドスッ!
鈍い音がして、兵士たちの間に動揺が走った。
「な……何……?」
兵士が短剣を抜くと、そこから血が飛沫上がり、兵士の身体を真っ赤に染めた。
リークレッドは大量の血を吐いてその場に倒れた。
一瞬のことだった。
「き……貴様……ゆ……ゆるさ…………ん…………」
それが若き王リークレッドの、あまりにも呆気ない最期だった。
どよめく兵士たちに向かって、まるで感情のこもらないリーリスの声が轟いた。
「さあ、お前たちの王は死んだ。武器を捨てて跪きなさい」
あたかも初めからこうなることがわかっていたかのようなリーリスの態度。けれど今、彼らの中に、その不自然さに気が付く者は誰もなかった。
皆が皆、一斉に武器を捨ててその場に膝を折った。
過程はどうあれ、こうなってしまった今、彼らに与えられた道はこれしかなかったのだ。
「そうです。それでいいの……これで……いいの……」
最後の方は声がかすれ、兵士たちの耳には届かなかった。
ゆっくりと街門が開けられて、ぞろぞろと兵士たちが街の中に入ってくる。皆、疲れ切った顔をしていたが、無事に故郷に帰ってこられた安心感からか、どことなく幸せそうにも見えた。
街壁の上からその様子を無表情で眺めていたリーリスが、不意に瞳を伏せて小さな声で言った。
「これで……良かったのですか? アルハイト……」
リーリスの言葉に、隣にいた男の一人、アルハイトが満足げに頷いて、彼女の肩に手をかけた。
「そう。それでいいんですよ、リーリス王女」
皮肉っぽくそう言って、アルハイトがリーリスの唇を無理矢理奪うと、周りから一斉にヤジが飛んだ。
先ほど弓矢を持っていた兵士たちは、すべてカザルフォート率いる盗賊連合の者たちだった。
アルハイトが唇を離すと、リーリスはがくりとその場に膝を折り、涙を零した。
「そう。これでいいんだよ」
そのリーリスの頭を踏み付けて、もう一人の男、カザルフォートが大声で笑った。
屈辱的な王女の姿に周囲が沸いた。
笑い声に包まれる城壁に立ち、アルハイトは先ほどまで兵士で埋まっていた大地を見下ろした。
千人規模の兵士たちはすでに皆街の中に入り、残っているのは死体すら片付けてもらえない哀れな王と、その王を刺し殺した小柄な兵士だけだった。
アルハイトがその兵士に向かって手を振ると、兵士は被っていた兜を取った。
兜の下から、森のような深緑色の髪の毛が、雪を含んだ冷たい風にふわりとなびいた。
こうして、リークレッドの半年ほどの恐怖政治が終わりを告げた。
人々は紛れもなく生きていたリーリスを王として擁立し、それを祝福した。
誰しもが、前王の時代よりもより良い国になる信じて疑わなかった。
そう、その時は誰もそれを疑わなかった。
まさか、リークレッドの統治を素晴らしく感じられるようなひどい国など、あるはずがないと思っていた。
ソリヴァチェフ王国に、冷たい冬が訪れた……。
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