一つはもう八百年も昔のことで、暴君が圧倒的な軍事力を持って世界を手中に治めていた。
略奪や殺人が日常的に行われていたような世界ではなかったが、市民は重税に喘ぎ苦しみ、一部の王侯貴族が富を蓄え裕福な生活を送る時代だった。
もう一つは三百年ほど前のこと。小国が興っては潰え、戦争を繰り返す戦乱の世だった。
その頃の歴史書は、勝者が自らの都合の悪いものはすべて焼き、己の都合の良いものに書き換え、それもまた時の者に焼き払われて、その時代を正しく表すものは一つとして残されていなかった。
そんな戦争の狂気が世界を包み込んでいた時代。
けれど、それらがいずれも過去の話であるように、暗闇の世は必ずいつか光を浴びて、平和な世へと姿を変える。
明けぬ夜がないように、長続きする闇もまた無い。
エルフィレムが世界を混沌に陥れてから2年、押し寄せた波がまた海へ還るように、ソリヴァチェフ王国の勢力を押し返すべくひっそりと力を蓄える者たちがいた。
夕暮れ時。
緑の深い山道を一人の女性が歩いていた。空色の衣を着た、髪の長い女性である。歳の頃は20くらいだろうか。
夜目が効くのか、ほんのかすかに西陽が射すだけの薄暗い道を、灯りも持たずに歩いていた。
その道は小高い山を越えてホーファスという街に続いていた。そしてそこからさらに行ったところに、現在の首都にして混沌の源、ソリヴァチェフの王都がある。
しかし、ホーファスまではまだかなりの距離があり、夜更けまでに着くのは不可能だった。
それでも女性は、特別野宿をするような様子も見せずに歩き続けていた。
(もう少しだから……頑張らないと……)
何度もそう自分に言い聞かせながら、彼女はずっとそうして歩いてきた。
もちろん、人として必要なだけの睡眠は取っていたが、彼女は主として昼に休み、夜に移動していた。
なるべく人目につかないように旅をしたいという思いもあったが、昼夜おかまいなく犯罪の横行するこの世界では、昼よりも夜の方が安全に旅ができたからだ。元々人間は昼に活動するように出来ており、それは盗賊たちとて例外ではなかった。
けれどこの夜、彼女は不運にも盗賊の一味と出くわしてしまった。ソリヴァチェフの王都にほど近い場所である。仕方ないだろう。
突然前方の闇から現れた数人の男に、彼女はピタリと足を止めた。
彼らは簡素ながらも鎧を着けていた。ただの野盗ではない。どうやら、カザルフォートの一味のようである。
「あなたたち、何ですか?」
一歩後ずさりしながら、彼女は怯えるように言った。
けれど、彼女の顔に恐怖の色は微塵もなかった。むしろ瞳は鋭く輝き、冷静に相手の戦力分析をしていた。
キョロキョロと周囲を見回したのは、恐らく戦いの場となるであろう辺りの地形をうかがうためだったが、男たちはそんな彼女の様子を、自分たちに恐怖していると思ったらしい。下卑な笑みを浮かべて大声で笑った。
「何ですか、だと? 決まっているだろう。お前さんみたいなバカな小娘を犯すためだ」
「こんなところを女一人で旅してるんだ。当然それくらいの覚悟はしてるんだろ?」
男の一人が、乱暴に彼女の肩をつかもうとした。
彼女はそれを一歩後ずさってよけると、そのまま逃げ出そうと元来た道へ駆け出した。
しかし、それよりもずっと俊敏な動きで数人の男が彼女の行く手に回り込む。
「逃がしゃしねーよ」
速い、と彼女は思った。どうやらさすがはカザルフォートの部下だけあって、よく訓練されているようである。
彼女は仕方なさそうに大きく息を吐いて、再び振り返り、隊長格の男を見遣った。
「おっ? もうあきらめたのか?」
唇の端をあげて、小馬鹿にしたような笑みを浮かべる。
「ええ……」
彼女は肩を落として頷いた。そして心の中で呟いた。
(戦うしかなさそうね。無駄な戦いはしたくなかったけれど……)
彼女には、今目の前にいる男たちをゆうに倒せるだけの“能力”があった。
こんなところを女一人で旅をしているのである。当然それなりの戦闘力があって然るべきなのだが、どうやら男たちはそういうふうには考えなかったようだ。
身のこなしが速く、武器を扱う力には長けていても、所詮頭の方は盗賊らしい。
男たちがじわっと取り囲む輪を狭めたのを見て、彼女はゆっくりと片腕を空へ突き出すようにして伸ばした。
その時だった。
「お前たち、それくらいにしておくんだな!」
まだ少年のような若い男の声とともに、盗賊の一人が呻き声を上げて倒れた。首筋に矢が突き刺さっており、すでに絶命していた。
「誰だっ!」
怒声を発しながら矢の飛んできた方向を勢いよく振り返った男の眉間に、二本目の矢が鋭く風を切りながら深々と突き刺さった。
どうやら先程の声の主は、盗賊相手に律儀に名乗り出たり、自分が少しでも不利になるような戦いをしたりはしないらしい。
これで残る男は3人になった。
「くそぅ!」
隊長格の男が憎々しげに吐き捨てて剣を抜き放った。そして素早く走り出す。
こちらもただ殺されるのを待っているだけの阿呆ではないようだ。
男の行動に呼応するかのように、闇の中から一人の男が剣を手にして踊り出た。まだ若い、20前くらいの青年だった。
ガシッ!
鈍い金属音が響き渡った。
二人はしばらく力の押し比べをしていたが、やがて腕力では不利と見たのか、青年が剣を引いて一歩下がった。
けれどすぐに軸足に力を入れて踏み込み、男の顎目がけて剣を突き上げた。
「うおっ!」
男も機敏な動作でこれをかわしたが、突き出した剣を凄まじいスピードで引いた青年の次の一撃をよける術はなかった。
ドスッ!
彼の首を、再び繰り出された青年の剣が貫いた。
「オイゼル!」
それが彼の名だったのだろうか。
青ざめて声を上げた一人の瞳を、三本目の矢が射抜いた。弓を使っていたのは青年とは別の者だったらしい。
「く、くそっ!」
完全に形勢不利と見たのか、最後の一人は捨て台詞すら吐かずに駆け出した。
が、次の瞬間には、彼は胸から血を迸らせて倒れていた。
森の中から現れた、三人目の男に斬り殺されて。
「大丈夫ですか?」
何事もなかったように微笑みかけてきた青年に向かって、彼女はペコリと頭を下げた。
「ありがとうございました。おかげで助かりました」
「いやなに。無事でよかった」
綺麗な女性に頭を下げられて、照れを隠すようにあどけなく笑った。
彼女はそんな青年の仕草に、かすかな微笑みを浮かべた。
「もう、アレイ。何を赤くなってるの?」
おっとりとした声で現れたのは、彼女と同じくらいの歳の女性だった。手には彼女の身体と不釣り合いな大きい弓を持っている。先程まで矢を放っていたのは彼女だったらしい。
声と同じように穏やかな感じの女性だったが、その腕前は先程見たとおりである。
「あ、フレア姉さん」
アレイと呼ばれた青年が、姉に恥ずかしいところを見られたという感じで、ポリポリと頭をかいた。
こうしていればごく普通の姉弟のようだが、その腕前といい、この時間にこんなところにいることといい、ただ者ではないだろう。
そして最後の一人が森の中から姿を現したとき、弾かれたように彼女は目を丸くした。
「リュース!」
気が付くと、彼女は思わず大きな声を出していた。
相手は彼女の反応に一瞬たじろぎ、そして思い出したのだろう。彼女以上に驚きを露わにして声を裏返した。
「お、お前はっ!」
「あらあら。お二人とも、お知り合いだったの?」
場違いにのんびりした口調でフレアが笑って、それからアレイが胸を張り、元気よく言った。
「リュースの知り合いなら隠さなくてもいいな。俺はアレイ。こっちは俺の姉さんのフレア。俺たちはソリヴァチェフ王国の暴挙を止めるために旅をしてるんだ」
力一杯、とても正気とは思えないことを言ってのけた。
彼女は思わず絶句した。
いわゆる、世の中を著しく乱した悪を討つ勇者様気取りなのだろう。
いや、しかし……。
彼女は首を振った。
恐らく気取りではなく、本当にそうなのだろう。でなければ、彼が一緒に行動しているはずがない。
自分と同じ深緑色の髪をした風使いの青年、リュースロットが。
一体何がどうなっているのかわからなかったが、今は自分の素性を隠し、且つ友好的に接するのが一番良いだろう。詳しいことは、その後リュースロットから聞けばよい。
彼女はそれだけ考えると、アレイ姉弟を向き直り、もう一度軽く頭を下げた。
「改めて、助けてくださってありがとうございました。私はクリスィアと言います。リュースロットとは同じ村の出身で、ずっと昔のお友達なんです」
風使いの一言は飲み込んで、彼女、クリスィアは明るく二人に微笑みかけた。
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